名将言行録 / 『名将言行録』小西行長 関ヶ原への夜の退却
岐阜落城以後味方勢を失ひ、勇氣撓む、之を勇むる術こそあらまほしく存ずる所に、出張したる陣所を退くは敗軍に等くして彌々味方氣を失ひ敵は未だ戰はずして勝軍せし心地して、勇威を振ふべし、其上難所を引取りなば、味方の軍弱しと見て、心を變ずる者あらん、爰を引退くものならば、重ねて軍するとも、味方必ず打負くべしと申せども、諸將更に承引せず、行長大に怒り、左樣に味方の諸人を疑はゞ、何つも軍はなるべからず、臆病神の付たる上は、百萬騎の勢ありとも、軍は必ず負なるべし、今倩々思ふに、勇ある人味方に一人も之なくと惡口して、其座を立てり。行長策行はれず、憤悶して居たりし所に、十四日酉の刻諸將取物も取あへず悉く陣所を掃ひ、牧田の間道を經、關ヶ原へぞ引退きたり。其夜は大雨降り諸將大に混亂せり。此時行長が付置きたる忍共走り來て、味方の諸將悉く引退く由を告ぐ、行長聞き、爭か去ることあるべきぞ、申す者の誤ならん、引退かば、吾方べもなど一應告げざろべきこと、實とも思はず居たりしが、追々斯くと告來れば、不思議ながらも、行長馬に打乘り、諸將の陣々を乘廻り見れば、能く周章たりと見えて兵糧器械は申すに及ばず、弓、鐵砲、鎗、長刀の類まで、陣屋毎に捨たること夥し、行長之を見て興を醒まして、吾陣屋に人を馳せて、人夫五百餘人召寄せ、味方の捨たる兵具以下心靜に拾ひ集め、人馬に負はせ、吾陣所をも引拂ひ、關ヶ原へ急ぎけり。偖大垣より引取りたる諸將へ使を立て、面々の陣所に捨置れたる兵具以下を關東勢に拾ひ取られ批判すらんも口惜く存ずる故、行長大方拾ひ集め持たせ來りたり。御用次第御取寄せあるべしと申送り、件の兵具等を八幡の西小池村の間に並べ置望みに隨て渡しける。人々面目なくぞ見えにける。
新字:岐阜落城以後味方勢を失ひ、勇気撓む、之を勇むる術こそあらまほしく存ずる所に、出張したる陣所を退くは敗軍に等くして弥々味方気を失ひ敵は未だ戦はずして勝軍せし心地して、勇威を振ふべし、其上難所を引取りなば、味方の軍弱しと見て、心を変ずる者あらん、爰を引退くものならば、重ねて軍するとも、味方必ず打負くべしと申せども、諸将更に承引せず、行長大に怒り、左様に味方の諸人を疑はゞ、何つも軍はなるべからず、臆病神の付たる上は、百万騎の勢ありとも、軍は必ず負なるべし、今倩々思ふに、勇ある人味方に一人も之なくと悪口して、其座を立てり。行長策行はれず、憤悶して居たりし所に、十四日酉の刻諸将取物も取あへず悉く陣所を掃ひ、牧田の間道を経、関ヶ原へぞ引退きたり。其夜は大雨降り諸将大に混乱せり。此時行長が付置きたる忍共走り来て、味方の諸将悉く引退く由を告ぐ、行長聞き、争か去ることあるべきぞ、申す者の誤ならん、引退かば、吾方べもなど一応告げざろべきこと、実とも思はず居たりしが、追々斯くと告来れば、不思議ながらも、行長馬に打乗り、諸将の陣々を乗廻り見れば、能く周章たりと見えて兵糧器械は申すに及ばず、弓、鉄砲、鎗、長刀の類まで、陣屋毎に捨たること夥し、行長之を見て興を醒まして、吾陣屋に人を馳せて、人夫五百余人召寄せ、味方の捨たる兵具以下心静に拾ひ集め、人馬に負はせ、吾陣所をも引払ひ、関ヶ原へ急ぎけり。偖大垣より引取りたる諸将へ使を立て、面々の陣所に捨置れたる兵具以下を関東勢に拾ひ取られ批判すらんも口惜く存ずる故、行長大方拾ひ集め持たせ来りたり。御用次第御取寄せあるべしと申送り、件の兵具等を八幡の西小池村の間に並べ置望みに随て渡しける。人々面目なくぞ見えにける。
書き下し
岐阜落城以後味方勢を失ひ、勇氣撓む、之を勇むる術こそあらまほしく存ずる所に、出張したる陣所を退くは敗軍に等くして彌々味方氣を失ひ敵は未だ戰はずして勝軍せし心地して、勇威を振ふべし、其上難所を引取りなば、味方の軍弱しと見て、心を變ずる者あらん、爰を引退くものならば、重ねて軍するとも、味方必ず打負くべしと申せども、諸將更に承引せず、行長大に怒り、左樣に味方の諸人を疑はゞ、何つも軍はなるべからず、臆病神の付たる上は、百萬騎の勢ありとも、軍は必ず負なるべし、今倩々思ふに、勇ある人味方に一人も之なくと惡口して、其座を立てり。行長策行はれず、憤悶して居たりし所に、十四日酉の刻諸將取物も取あへず悉く陣所を掃ひ、牧田の間道を經、關ヶ原へぞ引退きたり。其夜は大雨降り諸將大に混亂せり。此時行長が付置きたる忍共走り來て、味方の諸將悉く引退く由を告ぐ、行長聞き、爭か去ることあるべきぞ、申す者の誤ならん、引退かば、吾方べもなど一應告げざろべきこと、實とも思はず居たりしが、追々斯くと告來れば、不思議ながらも、行長馬に打乘り、諸將の陣々を乘廻り見れば、能く周章たりと見えて兵糧器械は申すに及ばず、弓、鐵砲、鎗、長刀の類まで、陣屋毎に捨たること夥し、行長之を見て興を醒まして、吾陣屋に人を馳せて、人夫五百餘人召寄せ、味方の捨たる兵具以下心靜に拾ひ集め、人馬に負はせ、吾陣所をも引拂ひ、關ヶ原へ急ぎけり。偖大垣より引取りたる諸將へ使を立て、面々の陣所に捨置れたる兵具以下を關東勢に拾ひ取られ批判すらんも口惜く存ずる故、行長大方拾ひ集め持たせ來りたり。御用次第御取寄せあるべしと申送り、件の兵具等を八幡の西小池村の間に並べ置望みに隨て渡しける。人々面目なくぞ見えにける。
現代語訳
岐阜落城のあと、味方は兵を失って勇気がくじけています。これを奮い立たせる手立てこそ欲しいと思っているところに、出陣した陣所を退くのは敗軍と同じで、いよいよ味方は気力を失い、敵はまだ戦わないうちに勝ったような気持ちになって勢いを振るうでしょう。そのうえ難所を引き取れば、味方の軍は弱いと見て、心変わりする者も出るでしょう。ここを引き下がったなら、後でもう一度戦っても、味方は必ず負けるでしょうと行長は申しましたが、諸将はまったく承知しませんでした。行長は大いに怒り、そのように味方の諸人を疑うのなら、いつだって戦はできない。臆病神が取りついた以上は、百万騎の軍勢があっても戦は必ず負けるだろう。今よくよく考えれば、勇気ある人は味方に一人もいないと悪口を言って、その座を立ちました。行長の策は行われず、怒りと悩みの中にいたところ、十四日の酉の刻、諸将は取るものも取りあえず、ことごとく陣所を引き払い、牧田の間道を通って関ヶ原へ退きました。その夜は大雨が降り、諸将は大いに混乱しました。このとき行長が付けておいた忍びの者が走って来て、味方の諸将がことごとく引き退くと告げました。行長はこれを聞き、どうしてそんなことがあるものか、言った者の誤りだろう、退くのなら、自分に一言知らせないはずがないと、本当だとは思わずにいましたが、次々にそのとおりだと知らせが来るので、不思議に思いながらも行長は馬に乗り、諸将の陣を乗り回って見ると、よほど慌てたらしく、兵糧や器械はもちろん、弓、鉄砲、鎗、長刀の類まで、どの陣屋にも捨ててあることが夥しい。行長はこれを見て興がさめ、自分の陣屋に人を走らせて人夫五百余人を呼び寄せ、味方が捨てた兵具などを落ち着いて拾い集め、人馬に背負わせ、自分の陣所も引き払って関ヶ原へ急ぎました。そして大垣から引き取った諸将へ使者を立て、それぞれの陣所に捨て置かれた兵具などを関東勢に拾い取られて批評されるのも悔しいので、行長がおおかた拾い集めて持たせて来ました。御用次第取り寄せてください、と申し送り、その兵具などを八幡の西の小池村の間に並べ置いて、望みに応じて渡しました。人々は面目なく見えたということです。
解説

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