名将言行録 / 『名将言行録』石田三成 家康の評と上様の一言
○家康、三成を呼出し、如何に武將も斯ること昔よりある樣しなり、恥にあらずと言はれしかば、三成臆したる體もなく、氣色如何にも打解けて、只天運の然らしむる所にて候、疾々首を刎られ候へと申す、家康、三成は流石に大將の器量ありけるよ、平宗盛には、大に異なれりと言はれけり。 ○家康、三成及び、小西行長、安國寺惠瓊に小袖各一重づゝを賜はる、行長は小袖を見て寒を凌ぐべきとて賜はりし段、忝く存候と言ふ。惠瓊は小袖を見て、夫れ着よとて着用せり。三成は小袖を見、是は何れよりと問ふ。上樣よりと答ふ。上樣とは誰ぞと問ふ。內府樣のことなりと答ふ。三成大息し、儲々上樣は此間御他界なるに、早や內府を上樣と言ふことよと計り言て、小袖を着せず。 ○三成傍の人が石田治部が天下を取つたと言はやせるを聞て、打笑ひ、我大軍を率ゐ天下分目の軍しけることは、天地破れざる間は隱れあらじ、些とも心に慚ることなきをはやさずともありなんと言はれけり。
新字:○家康、三成を呼出し、如何に武将も斯ること昔よりある様しなり、恥にあらずと言はれしかば、三成臆したる体もなく、気色如何にも打解けて、只天運の然らしむる所にて候、疾々首を刎られ候へと申す、家康、三成は流石に大将の器量ありけるよ、平宗盛には、大に異なれりと言はれけり。 ○家康、三成及び、小西行長、安国寺恵瓊に小袖各一重づゝを賜はる、行長は小袖を見て寒を凌ぐべきとて賜はりし段、忝く存候と言ふ。恵瓊は小袖を見て、夫れ着よとて着用せり。三成は小袖を見、是は何れよりと問ふ。上様よりと答ふ。上様とは誰ぞと問ふ。内府様のことなりと答ふ。三成大息し、儲々上様は此間御他界なるに、早や内府を上様と言ふことよと計り言て、小袖を着せず。 ○三成傍の人が石田治部が天下を取つたと言はやせるを聞て、打笑ひ、我大軍を率ゐ天下分目の軍しけることは、天地破れざる間は隠れあらじ、些とも心に慚ることなきをはやさずともありなんと言はれけり。
書き下し
○家康、三成を呼出し、如何に武將も斯ること昔よりある樣しなり、恥にあらずと言はれしかば、三成臆したる體もなく、氣色如何にも打解けて、只天運の然らしむる所にて候、疾々首を刎られ候へと申す、家康、三成は流石に大將の器量ありけるよ、平宗盛には、大に異なれりと言はれけり。 ○家康、三成及び、小西行長、安國寺惠瓊に小袖各一重づゝを賜はる、行長は小袖を見て寒を凌ぐべきとて賜はりし段、忝く存候と言ふ。惠瓊は小袖を見て、夫れ着よとて着用せり。三成は小袖を見、是は何れよりと問ふ。上樣よりと答ふ。上樣とは誰ぞと問ふ。內府樣のことなりと答ふ。三成大息し、儲々上樣は此間御他界なるに、早や內府を上樣と言ふことよと計り言て、小袖を着せず。 ○三成傍の人が石田治部が天下を取つたと言はやせるを聞て、打笑ひ、我大軍を率ゐ天下分目の軍しけることは、天地破れざる間は隱れあらじ、些とも心に慚ることなきをはやさずともありなんと言はれけり。
現代語訳
家康は三成を呼び出し、どれほどの武将でも、このようなことは昔からあるものだ、恥ではないと言われると、三成は臆した様子もなく、気色もいかにも打ち解けて、ただ天運の然らしむるところです、早く首を刎ねられよと申す。家康は、三成はさすがに大将の器量があるな、平宗盛とは大いに異なると言われた。 家康は、三成および小西行長、安国寺恵瓊に、小袖を各一重ずつ賜った。行長は小袖を見て、寒さをしのぐようにと賜った段、かたじけなく存じますと言う。恵瓊は小袖を見て、それ着よというので着用した。三成は小袖を見て、これはどなたからかと問う。上様からと答える。上様とは誰ぞと問う。内府様のことですと答える。三成は大息し、いやいや上様はこの間ご他界なのに、早くも内府を上様と言うことよ、とだけ言って、小袖を着なかった。 三成は、傍らの人が石田治部が天下を取ったと言いはやすのを聞いて、打ち笑い、私が大軍を率い、天下分け目の軍をしたことは、天地が破れない間は隠れないだろう。少しも心に恥じることがないのだから、はやさなくてもよかろうと言われた。
解説

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