名将言行録 / 『名将言行録』大谷吉隆 勝算なき挙兵への諫言
一豐、又內府平生の行跡を案ずるに、事急ならずして理に當ること多し、天理を專とし、人の和を本とす。是賢德の人ならん、必ず後には天下の主たるべきかと言ふ。吉隆笑て、誰が思慮するも同じかるべし、斯の如き事は、言ふべからずと言て、別れにけり。 ○會津の役、吉隆東下せんとし、其子大學助吉久、□木下山城守賴經等と、一千餘人を率ひ、伏見を出て、垂井の驛に至る。石田三成、樫原彦右衞門をして、之を要す。吉隆、樫原に逢ひ、其故を問ふ、對ふるに、三成が兵を擧るのことを以てす。吉隆、內府政を執り私ありと雖も、必ず秀賴公を廢するに至らず、今景勝同僚と謀を合はせ、內府をして、關東に赴かしむるは、良圖と言べし、然れども、事の成否豫め料る所にあらず、何にとなれば、三成才ありと雖も、而も世之を惡む者甚だ多し、是三成自ら取る所なり、今大事を擧げ人の上たらんと欲せば、衆心必ず悅服せず、宜しく、秀家輝元を以て主將とし、景勝と、定議し、東西夾擊せば、則ち志を得べし、若し然る能はずんば則ち數月の間、景勝、內府を牽制すと雖も、關西の軍輯睦なること能はず、內府旆を反し西上せば、則ち事甚だ危し、宜しく此言を以て、三成を諫むべし。我亦繼ぎ往ん、汝宜しく先づ歸るべしと言ふ。吉隆、父子繼ぎ、佐和山に至る、三成大に喜びて之を享す。吉隆、其方略を問ふ。三成、西國毛利一門、島津、小西、其餘豪傑、大阪に來集すること近きにあり。信濃に眞田あり、大家にあらずと雖も、勇武絕倫、且つ內府と怨隙あり、常陸に佐竹あり、下野に多賀谷あり、相馬、秋田の諸將に至つては、皆景勝と謀を通ず、內府兵を交ゆるの日に方り、關西の諸將旗を箱根に建て、東國の諸將と、三面より入り攻め、一擧して江戶を平定せんと言ふ。吉隆涙を流し今天下事なきに、故なく之を擾り竟に人手に落んとす、誠に悲むべきなり。貴殿の言はるゝ所、皆勝算にあらず、譬ば奕棋の如し。先づ成算あり、以爲く吾能く斯の如く、彼必ず斯の如くせんと、然る後、吾能く勝を制す。此中人の奕なり。
新字:一豊、又内府平生の行跡を案ずるに、事急ならずして理に当ること多し、天理を専とし、人の和を本とす。是賢徳の人ならん、必ず後には天下の主たるべきかと言ふ。吉隆笑て、誰が思慮するも同じかるべし、斯の如き事は、言ふべからずと言て、別れにけり。 ○会津の役、吉隆東下せんとし、其子大学助吉久、□木下山城守頼経等と、一千余人を率ひ、伏見を出て、垂井の駅に至る。石田三成、樫原彦右衛門をして、之を要す。吉隆、樫原に逢ひ、其故を問ふ、対ふるに、三成が兵を挙るのことを以てす。吉隆、内府政を執り私ありと雖も、必ず秀頼公を廃するに至らず、今景勝同僚と謀を合はせ、内府をして、関東に赴かしむるは、良図と言べし、然れども、事の成否予め料る所にあらず、何にとなれば、三成才ありと雖も、而も世之を悪む者甚だ多し、是三成自ら取る所なり、今大事を挙げ人の上たらんと欲せば、衆心必ず悦服せず、宜しく、秀家輝元を以て主将とし、景勝と、定議し、東西夾撃せば、則ち志を得べし、若し然る能はずんば則ち数月の間、景勝、内府を牽制すと雖も、関西の軍輯睦なること能はず、内府旆を反し西上せば、則ち事甚だ危し、宜しく此言を以て、三成を諫むべし。我亦継ぎ往ん、汝宜しく先づ帰るべしと言ふ。吉隆、父子継ぎ、佐和山に至る、三成大に喜びて之を享す。吉隆、其方略を問ふ。三成、西国毛利一門、島津、小西、其余豪傑、大阪に来集すること近きにあり。信濃に真田あり、大家にあらずと雖も、勇武絶倫、且つ内府と怨隙あり、常陸に佐竹あり、下野に多賀谷あり、相馬、秋田の諸将に至つては、皆景勝と謀を通ず、内府兵を交ゆるの日に方り、関西の諸将旗を箱根に建て、東国の諸将と、三面より入り攻め、一挙して江戸を平定せんと言ふ。吉隆涙を流し今天下事なきに、故なく之を擾り竟に人手に落んとす、誠に悲むべきなり。貴殿の言はるゝ所、皆勝算にあらず、譬ば奕棋の如し。先づ成算あり、以為く吾能く斯の如く、彼必ず斯の如くせんと、然る後、吾能く勝を制す。此中人の奕なり。
書き下し
一豐、又內府平生の行跡を案ずるに、事急ならずして理に當ること多し、天理を專とし、人の和を本とす。是賢德の人ならん、必ず後には天下の主たるべきかと言ふ。吉隆笑て、誰が思慮するも同じかるべし、斯の如き事は、言ふべからずと言て、別れにけり。 ○會津の役、吉隆東下せんとし、其子大學助吉久、□木下山城守賴經等と、一千餘人を率ひ、伏見を出て、垂井の驛に至る。石田三成、樫原彦右衞門をして、之を要す。吉隆、樫原に逢ひ、其故を問ふ、對ふるに、三成が兵を擧るのことを以てす。吉隆、內府政を執り私ありと雖も、必ず秀賴公を廢するに至らず、今景勝同僚と謀を合はせ、內府をして、關東に赴かしむるは、良圖と言べし、然れども、事の成否豫め料る所にあらず、何にとなれば、三成才ありと雖も、而も世之を惡む者甚だ多し、是三成自ら取る所なり、今大事を擧げ人の上たらんと欲せば、衆心必ず悅服せず、宜しく、秀家輝元を以て主將とし、景勝と、定議し、東西夾擊せば、則ち志を得べし、若し然る能はずんば則ち數月の間、景勝、內府を牽制すと雖も、關西の軍輯睦なること能はず、內府旆を反し西上せば、則ち事甚だ危し、宜しく此言を以て、三成を諫むべし。我亦繼ぎ往ん、汝宜しく先づ歸るべしと言ふ。吉隆、父子繼ぎ、佐和山に至る、三成大に喜びて之を享す。吉隆、其方略を問ふ。三成、西國毛利一門、島津、小西、其餘豪傑、大阪に來集すること近きにあり。信濃に眞田あり、大家にあらずと雖も、勇武絕倫、且つ內府と怨隙あり、常陸に佐竹あり、下野に多賀谷あり、相馬、秋田の諸將に至つては、皆景勝と謀を通ず、內府兵を交ゆるの日に方り、關西の諸將旗を箱根に建て、東國の諸將と、三面より入り攻め、一擧して江戶を平定せんと言ふ。吉隆涙を流し今天下事なきに、故なく之を擾り竟に人手に落んとす、誠に悲むべきなり。貴殿の言はるゝ所、皆勝算にあらず、譬ば奕棋の如し。先づ成算あり、以爲く吾能く斯の如く、彼必ず斯の如くせんと、然る後、吾能く勝を制す。此中人の奕なり。
現代語訳
山内一豊は、また内府(家康)の日ごろの行いを考えてみると、事を急がずに道理にかなうことが多く、天の理を第一とし、人の和を土台にしている。これは賢く徳のある人であり、のちには必ず天下の主となるのではないか、と言った。吉隆は笑って、誰が考えても同じことだろう、このようなことは口にしてはならない、と言って別れた。 会津の役のとき、吉隆は東へ下ろうとして、子の大学助吉久や、木下山城守頼経らとともに千余人を率い、伏見を出て垂井の宿に着いた。石田三成は樫原彦右衛門を遣わして、吉隆を呼び止めさせた。吉隆は樫原に会い、その理由を尋ねると、三成が兵を挙げることを答えた。吉隆は言った。内府が政を執って私心があるとはいえ、秀頼公を廃するまでには至らない。いま景勝が同僚と謀を合わせ、内府を関東へ向かわせるのは良い策と言える。しかし、事の成否はあらかじめ測れない。なぜなら、三成は才があっても世の人に憎まれることが非常に多く、これは三成自身が招いたことだ。いま大事を起こして人の上に立とうとしても、人々の心は決して喜んで従うまい。秀家と輝元を主将とし、景勝と取り決めて東西から挟み撃ちにすれば、志を遂げられるだろう。もしそれができなければ、数か月は景勝が内府を牽制しても、関西の軍がまとまらず、内府が引き返して西上すれば、事は非常に危うい。この言葉で三成を諫めるべきだ。自分もあとから行くから、おまえは先に帰れ、と。吉隆父子があとから佐和山に至ると、三成は大いに喜んでもてなした。吉隆がその方策を尋ねると、三成は言った。西国の毛利一門、島津、小西、そのほかの豪傑が、まもなく大坂に集まる。信濃には真田がいて、大家ではないが勇武は比類なく、しかも内府と怨みがある。常陸には佐竹、下野には多賀谷がおり、相馬、秋田の諸将にいたっては、みな景勝と通じている。内府と兵を交える日には、関西の諸将が旗を箱根に立て、東国の諸将と三方から攻め入り、一挙に江戸を平らげるつもりだ、と。吉隆は涙を流して言った。いま天下に事がないのに、わけもなくこれを乱し、ついには人の手に落ちようとしている。まことに悲しいことだ。貴殿の言われることはどれも勝算ではない。たとえば碁を打つようなものだ。まず成算があり、自分がこう打てば相手は必ずこう打つだろうと考え、そのうえで自分が勝ちを制する。これが中くらいの人の碁である。
解説

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