名将言行録 / 『名将言行録』石田三成 伏見攻めの指揮と情け
○會津の役、家康兵を率ゐて東下せり。三成、使を家康に遣はし、從軍せんことを請ふ、家康返事に、其元には當時逼塞の儀なれば差控へ、子息隼人正に人數少々相副へ差下さるべしとのことなり、之に依り石田家中の者共、會津陣と披露して、公然と陣支度し、兵を關西に起す、畿內、山陽、山陰、南海、西海等の諸將、皆三成に應ず。七月伏見城を圍み攻む、二十七日、三成伏見に往て、攻城の體を見るに、味方攻寄する毎に討死多し、依て諸將に向て曰く、人々大軍を頼み法を亂して攻めらるゝこと、甚だ卒爾の至りなり、城兵は必死を究めし者共なり、各々法を正し圖を合はせて攻むべしと評議を定め、且つ家臣高野越中に命じて曰く、城兵必ず門を開き突出て必死の戰を決せん、然らば寄手悉く散亂すべし、其時汝脇より掛け喰止むべしと、三千餘騎を附殘して、大阪に歸れり。高野は其言の如く脇の山に備て、時を待居たり、果して城兵突出す、越中之を橫擊して利を得たり。 ○此役、鳥居元忠の茶道神崎竹谷を擒にす。三成竹谷を呼出して、伏見城中始終のことを具に尋ね、元忠が忠死の程を感歎し、且つ竹谷に謂て曰く、元忠子息新太郎、父が戰死の有り樣さぞ覺束なく思ふらん、急に關東に下り、合戰の次第を新太郎に語るべしとありて、命を助けしのみならず、傳馬以下のことまで厚く沙汰し、東國に送れり。之に依り、新太郎忠政を始め、家中の妻子まで、何れも討死の顛末を聞くことを得たり。
新字:○会津の役、家康兵を率ゐて東下せり。三成、使を家康に遣はし、従軍せんことを請ふ、家康返事に、其元には当時逼塞の儀なれば差控へ、子息隼人正に人数少々相副へ差下さるべしとのことなり、之に依り石田家中の者共、会津陣と披露して、公然と陣支度し、兵を関西に起す、畿内、山陽、山陰、南海、西海等の諸将、皆三成に応ず。七月伏見城を囲み攻む、二十七日、三成伏見に往て、攻城の体を見るに、味方攻寄する毎に討死多し、依て諸将に向て曰く、人々大軍を頼み法を乱して攻めらるゝこと、甚だ卒爾の至りなり、城兵は必死を究めし者共なり、各々法を正し図を合はせて攻むべしと評議を定め、且つ家臣高野越中に命じて曰く、城兵必ず門を開き突出て必死の戦を決せん、然らば寄手悉く散乱すべし、其時汝脇より掛け喰止むべしと、三千余騎を附残して、大阪に帰れり。高野は其言の如く脇の山に備て、時を待居たり、果して城兵突出す、越中之を横撃して利を得たり。 ○此役、鳥居元忠の茶道神崎竹谷を擒にす。三成竹谷を呼出して、伏見城中始終のことを具に尋ね、元忠が忠死の程を感嘆し、且つ竹谷に謂て曰く、元忠子息新太郎、父が戦死の有り様さぞ覚束なく思ふらん、急に関東に下り、合戦の次第を新太郎に語るべしとありて、命を助けしのみならず、伝馬以下のことまで厚く沙汰し、東国に送れり。之に依り、新太郎忠政を始め、家中の妻子まで、何れも討死の顛末を聞くことを得たり。
書き下し
○會津の役、家康兵を率ゐて東下せり。三成、使を家康に遣はし、從軍せんことを請ふ、家康返事に、其元には當時逼塞の儀なれば差控へ、子息隼人正に人數少々相副へ差下さるべしとのことなり、之に依り石田家中の者共、會津陣と披露して、公然と陣支度し、兵を關西に起す、畿內、山陽、山陰、南海、西海等の諸將、皆三成に應ず。七月伏見城を圍み攻む、二十七日、三成伏見に往て、攻城の體を見るに、味方攻寄する毎に討死多し、依て諸將に向て曰く、人々大軍を頼み法を亂して攻めらるゝこと、甚だ卒爾の至りなり、城兵は必死を究めし者共なり、各々法を正し圖を合はせて攻むべしと評議を定め、且つ家臣高野越中に命じて曰く、城兵必ず門を開き突出て必死の戰を決せん、然らば寄手悉く散亂すべし、其時汝脇より掛け喰止むべしと、三千餘騎を附殘して、大阪に歸れり。高野は其言の如く脇の山に備て、時を待居たり、果して城兵突出す、越中之を橫擊して利を得たり。 ○此役、鳥居元忠の茶道神崎竹谷を擒にす。三成竹谷を呼出して、伏見城中始終のことを具に尋ね、元忠が忠死の程を感歎し、且つ竹谷に謂て曰く、元忠子息新太郎、父が戰死の有り樣さぞ覺束なく思ふらん、急に關東に下り、合戰の次第を新太郎に語るべしとありて、命を助けしのみならず、傳馬以下のことまで厚く沙汰し、東國に送れり。之に依り、新太郎忠政を始め、家中の妻子まで、何れも討死の顛末を聞くことを得たり。
現代語訳
会津の役で、家康は兵を率いて東下した。三成は使いを家康に遣わし、従軍したいと請うた。家康の返事は、あなたは今は蟄居の儀なので差し控え、息子の隼人正に人数を少々添えて差し下されよ、とのことであった。これにより石田家中の者どもは、会津の陣と披露して公然と陣支度をし、兵を関西に起こした。畿内、山陽、山陰、南海、西海などの諸将は皆三成に応じた。七月、伏見城を囲み攻めた。二十七日、三成は伏見に行って攻城の様子を見ると、味方が攻め寄せるごとに討死が多い。そこで諸将に向かい、人々は大軍を頼んで法を乱して攻められる、はなはだ軽率の至りである。城兵は必死を覚悟した者どもである。各々法を正し、図を合わせて攻められよと評議を定め、かつ家臣の高野越中に命じて、城兵は必ず門を開き突き出て必死の戦いを決するだろう。そうなれば寄せ手はことごとく散乱する。その時おまえは脇から掛かり食い止めよと、三千余騎を付け残して、大坂に帰った。高野はその言葉のとおり脇の山に備えて、時を待っていた。果たして城兵が突き出した。越中はこれを横撃して利を得た。 この役で、鳥居元忠の茶道、神崎竹谷を捕らえた。三成は竹谷を呼び出して、伏見城中の始終のことを詳しく尋ね、元忠の忠死のさまに感嘆し、かつ竹谷に言った。元忠の子息新太郎は、父の戦死のありさまをさぞ気がかりに思っているだろう。急ぎ関東に下り、合戦の次第を新太郎に語れと。命を助けたのみならず、伝馬以下のことまで手厚く沙汰し、東国に送った。これにより新太郎忠政をはじめ、家中の妻子まで、皆討死の顛末を聞くことができた。
解説

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