名将言行録 / 『名将言行録』小西行長 釜山攻めと旗の返答
○征韓の役、行長加藤清正と共に先鋒の將を命ぜらる。此時清正に跳題目の旗を賜はる。清正は法華宗の信心者なれば、大に喜び、有り難き旨拜謝して退き、諸將列座の中にて、行長に向ひ、此度妙法蓮華經の旗を賜はりたり。朝鮮は申すに及ばず、明までも此旗を翻し、日本の武威を耀かすべし。貴方には、如何なる旗を用らるゝにやと申せば行長取あへず、我等は世人の知りたる通、元來堺の藥屋なれば、紙袋に朱丸付けたる旗を用ひ候と返答せり。左しもの清正も張り合拔たり。清正平日行長を侮る氣象ある故に、行長其機を察し、斯く答て爭はず、其氣を油斷させ、遂に壹岐風本より拔掛し、行長一列諸軍に先立、釜山浦に着す。行長船中にて下知して曰く、武具の外は何にても上ぐべからず、只敵城を攻落しなば、兵糧器械は何程も城中にあるべし、夫こそ我物なれ、只々進みて城を攻拔くべしと、衆を勵まし一鼓して釜山浦を拔き、再鼓して東萊を陥れたり、府史宗象賢座ながら刄を受て死す。長行象賢が死守を嘉みし、棺斂して以て、城外に埋め、標を立て之を識せり。 ○此役、行長王城を取りし時、諸軍先を爭ひ込み入らんとす。部將之を制することを得ず、行長馬を驅寄せ、長刀を以て込み入る輕卒を掛倒し、大の眼を見出し、亂暴すべからず、酒家に入らざれ、拔掛けすなと、二萬に及ぶ軍勢を啐と取鎭め、若しやの一戰を心に備へたり。其作法尤も嚴正なり。是等を始めとして、明韓の兵と戰し軍功枚擧するに遑あらず。
新字:○征韓の役、行長加藤清正と共に先鋒の将を命ぜらる。此時清正に跳題目の旗を賜はる。清正は法華宗の信心者なれば、大に喜び、有り難き旨拝謝して退き、諸将列座の中にて、行長に向ひ、此度妙法蓮華経の旗を賜はりたり。朝鮮は申すに及ばず、明までも此旗を翻し、日本の武威を耀かすべし。貴方には、如何なる旗を用らるゝにやと申せば行長取あへず、我等は世人の知りたる通、元来堺の薬屋なれば、紙袋に朱丸付けたる旗を用ひ候と返答せり。左しもの清正も張り合抜たり。清正平日行長を侮る気象ある故に、行長其機を察し、斯く答て争はず、其気を油断させ、遂に壱岐風本より抜掛し、行長一列諸軍に先立、釜山浦に着す。行長船中にて下知して曰く、武具の外は何にても上ぐべからず、只敵城を攻落しなば、兵糧器械は何程も城中にあるべし、夫こそ我物なれ、只々進みて城を攻抜くべしと、衆を励まし一鼓して釜山浦を抜き、再鼓して東萊を陥れたり、府史宗象賢座ながら刄を受て死す。長行象賢が死守を嘉みし、棺斂して以て、城外に埋め、標を立て之を識せり。 ○此役、行長王城を取りし時、諸軍先を争ひ込み入らんとす。部将之を制することを得ず、行長馬を駆寄せ、長刀を以て込み入る軽卒を掛倒し、大の眼を見出し、乱暴すべからず、酒家に入らざれ、抜掛けすなと、二万に及ぶ軍勢を啐と取鎮め、若しやの一戦を心に備へたり。其作法尤も厳正なり。是等を始めとして、明韓の兵と戦し軍功枚挙するに遑あらず。
書き下し
○征韓の役、行長加藤清正と共に先鋒の將を命ぜらる。此時清正に跳題目の旗を賜はる。清正は法華宗の信心者なれば、大に喜び、有り難き旨拜謝して退き、諸將列座の中にて、行長に向ひ、此度妙法蓮華經の旗を賜はりたり。朝鮮は申すに及ばず、明までも此旗を翻し、日本の武威を耀かすべし。貴方には、如何なる旗を用らるゝにやと申せば行長取あへず、我等は世人の知りたる通、元來堺の藥屋なれば、紙袋に朱丸付けたる旗を用ひ候と返答せり。左しもの清正も張り合拔たり。清正平日行長を侮る氣象ある故に、行長其機を察し、斯く答て爭はず、其氣を油斷させ、遂に壹岐風本より拔掛し、行長一列諸軍に先立、釜山浦に着す。行長船中にて下知して曰く、武具の外は何にても上ぐべからず、只敵城を攻落しなば、兵糧器械は何程も城中にあるべし、夫こそ我物なれ、只々進みて城を攻拔くべしと、衆を勵まし一鼓して釜山浦を拔き、再鼓して東萊を陥れたり、府史宗象賢座ながら刄を受て死す。長行象賢が死守を嘉みし、棺斂して以て、城外に埋め、標を立て之を識せり。 ○此役、行長王城を取りし時、諸軍先を爭ひ込み入らんとす。部將之を制することを得ず、行長馬を驅寄せ、長刀を以て込み入る輕卒を掛倒し、大の眼を見出し、亂暴すべからず、酒家に入らざれ、拔掛けすなと、二萬に及ぶ軍勢を啐と取鎭め、若しやの一戰を心に備へたり。其作法尤も嚴正なり。是等を始めとして、明韓の兵と戰し軍功枚擧するに遑あらず。
現代語訳
征韓の役で、行長は加藤清正とともに先鋒の将を命じられた。この時、清正に跳ね題目の旗を賜った。清正は法華宗の信心者なので大いに喜び、ありがたい旨を拝謝して退き、諸将が列座する中で、行長に向かい、この度、妙法蓮華経の旗を賜った。朝鮮は言うに及ばず、明までもこの旗を翻して、日本の武威を輝かせよう。貴方には、どのような旗を用いられるかと言うと、行長はすぐに、私は世の人が知るとおり、元来堺の薬屋なので、紙袋に朱丸を付けた旗を用いますと返答した。さすがの清正も張り合いが抜けた。清正は平日行長を侮る気性があるので、行長はその機を察して、こう答えて争わず、その気を油断させ、ついに壱岐の風本から抜け駆けし、行長一列の諸軍に先立って、釜山浦に着いた。行長は船中で命令して言った。武具のほかは何も上げてはならない。ただ敵城を攻め落としたなら、兵糧、器械はいくらでも城中にある。それこそ我が物だ。ただただ進んで城を攻め抜けと、衆を励まし、一鼓して釜山浦を抜き、再鼓して東萊を陥れた。府使宗象賢は座したまま刃を受けて死んだ。長行は象賢の死守を嘉し、棺に納めて城外に埋め、標を立ててこれを記した。 この役で、行長が王城を取った時、諸軍は先を争って込み入ろうとした。部将はこれを制することができず、行長は馬を駆け寄せ、長刀で込み入る軽卒を掛け倒し、大きな眼を見開いて、乱暴してはならない、酒屋に入るな、抜け駆けするなと、二万に及ぶ軍勢をぴたりと取り鎮め、もしやの一戦を心に備えた。その作法はもっとも厳正であった。これらをはじめとして、明、韓の兵と戦い、軍功は枚挙にいとまがない。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
名将言行録・『名将言行録』加藤清正 不仲の相手を迎えに行く○清正、小西行長と中惡しゝ、秀吉薨じ、諸將皆還り、行長獨り去ること能はず、清正諸將を勵まし反り行長を迎ふ。行長泣て曰く、思はざりき、君の義愛に至らんとは、願くは前憾を釋んと、清正笑て、我國の爲めにして、貴殿の爲めにせず、且つ貴殿は三成に善くして、吾に善きこと能はず、と言はれけり。 ○清正、朝鮮より歸り、或日夜話の時、森本儀太夫、飯田角兵衞、庄林隼人抔、朝鮮在陣中、何事に付ても武功になるべき道筋を見覺えたるやと尋ね、別に是ぞ珍敷と存することなし、但し三ヶ條心得にもなるべきこと之あると申す。清正、我等も三ヶ條あり、去らば面々入札に書て其心を知るべきと。主從四人面々に之を書き見合はせけるに各一致にてありしとぞ。其三條知るものなし。或人曰く、兩山の谷間に蘆の茂りたる處あり、其山上を押通るに、敵三人向ふの山上にて、馬をきり〱と輪乘してありけり。偖は相圖にてこそあるらめとて、蘆の中を探せしに、果して伏兵ありけりと、其三ヶ條の一なりと、殘る二條は知らずと云ふ。
-
名将言行録・『名将言行録』小西行長 小西行長の出自堺藥商清兵衞壽德の子彌九郎と稱す。後攝津守に任じ、肥後半國二十四萬石に封ぜられ、宇土城に住す。慶長五年十月朔日死。 ○行長剛勇にして機警あり、好みて兵書を讀み、策略に長ぜり。備前岡山の賈人某の養子と爲る、家頗る富めり、毎に宇喜田氏に出入す。上下貴重す。天正七年、秀吉播磨陣の時、直家衆人の中より行長を選び擧ぐ、是より先、直家使者を京師に遣はすに、毎に壽德に依り、貨を織田氏の諸貴に贈くる、壽德曰く、右府の親昵を欲せば、羽柴氏に倚るに若くはなしと、直家之を聞き、行長嘗て、秀吉と相親しきを以て命じて三木に適かしめ、秀吉を見る。秀吉喜び、爲めに之を信長に言ふ。信長乃ち使者を引見し厚く賞して之を遺る。使者遂に幣を公卿庶尹に發す。行長京畿に往反し、其事を措辨し周旋甚だ忙し。直家乃ち行長を京師に置き、以て行人と爲す。秀吉、行長の才を愛し、召して祿二百石を與ふ。 ○秀吉征韓のこと、兼ねてより思立ち、行長を商賈の體に爲し、朝鮮へ遣はし、朝鮮人の分限より海陸の遠近を能く量られしとぞ。
-
名将言行録・『名将言行録』加藤清正 水鳥で見抜く偽の陣○清正、材武絕倫、數々殊功を建つ、秀吉、將帥の器ありと言て、征韓の先鋒を命ぜらる、清正旣に朝鮮に押渡り、都城を指して押行く所に、大河ありて、船一艘もなく渡たすべき樣なし。日も旣に夕陽に及びければ、是非なく河邊に宿す、朝鮮勢漢江を守て居たりけるが、清正王城を志し、侵掠して進む。其勢に氣を奪はれ、敢て一戰にも及ばず、臨津指して落行ける。清正は、是をも知らず翌日河邊に出て望み見けるに、川向には舟共多く繫ぎ置て、陸には敵大勢備を立て並居、方々の木陰には、白旗川風に飜れり。士卒之を見て、船にて渡らんと欲すれども、一艘も求め得ず、馬にて越さんとすれども、白波岸を浸して、冷間敷見えければ、諸勢茫然として居たりけり。然れども、清正は少しも屈せず、良久敷眺め居けるに、川上より水鳥四五羽浮み連れて、向の岸を如何にも悠々と靜に流れ下りければ、清正、屹度眼を付て、敵軍向の岸に備なば水鳥如何んぞ、悠々と流れ遊ばんや、察する所、あの兵士と見ゆる者は、如何にも作り物にてぞあるらん、いで水練の達者游ぎ渡て見るべしとありければ、曾根孫六言下に川へ飛入たり。之を見て究竟の若者共、我劣らじと川へ飛入り、游ぎ渡り、向の岸に繫置きたる船に取乘り、總軍安々と川を渡りける、敵軍と見えしは皆藁苞を束ねたるに物具せさせ、弓箭鎗刀の如き物共取り持たせて立並べ置き、旗と見えたるは、白紙を織合せ、樹間に立置きたるなり。 清正の明察を皆々感じける。
-
名将言行録・『名将言行録』小西行長 評・異色の出世人○三成と同じく關ヶ原の西軍の主腦部で、德川時代の御用學者から貶された。加藤清正と、朝鮮で先陣爭ひをしたことなどが崇つて、人氣のない人である。しかし、一藥種商の出身で、肥後半國の大名になつた丈に、相當の人物であつたことが分る。關ヶ原の戰敗れて自殺しなかつたのは、クリスチャンであつた爲かも知れない。頭腦と才覺だけで出世した人だけに、戰國の武將の中では、異彩のある存在である。
-
名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 朝鮮出兵で進軍を説く○文祿元年四月、宇喜多秀家、在韓の諸將を其營に會し、軍事を議せり。諸將皆直ちに京城に向はんとす。秀家曰く、太閤に伺て後發せんや、將た伺はずして發せんかと。福島政則、加藤清正、議論合はず、小早川隆景、宗茂に問ふ、宗茂辭するに所なくして曰く、某嘗て聞く、將在レ軍君命有レ所レ不レ受と云ふ。今兵を海外に出し、事每に伺て後、事を取計らはれなば、恐くは事機を失はん、王城の警備未だ周からず、國中の召募未だ集らざるに乘じ長驅して遠に王城を取るに如かずと。隆景曰く、警備周からずと、召募集らざると何を以て之を知るゝやと。宗茂曰く、若し根本をして堅固ならしめば、釜山、東萊斯の如く崩潰すべからず、釜山、東萊備なきを以て、王城も亦備なきを知る、且つ某頃日王城の道程を生口に問ふに、嶮峻要害の地數所ありと言ふ、若し我濡滯せば、彼必ず、要害を分守し、或は明の援兵を請はん、斯の如んは我兵勢屈して進み難からん、果斷して速に進むに如かずと。諸將宗茂の言に服し、遂に兵を發せり。
-
名将言行録・『名将言行録』加藤清正 退く敵を見て誘いを疑う○清正、蔚山に籠りし時、一日黎朗、敵櫓を火にして悉く退く、城兵競つて追擊んとす。清正追ふこと勿れ、彼我を誘するなりと言て、城に上り臨觀す、果して薄暮に及び、樹陰崖間に伏する所の兵、皆出で合圍すること奮の如し、兵士、君何を以て其僞り退を知り給ふと言ふ。清正大軍悉く退くに、一の後殿なし、是眞に退くものにあらず、且つ櫓を火にし、更らに其退を知らしむ、是其僞を知る所なりと言はれけり。 ○蔚山に籠りし時、明兵前の山より三町餘を隔て、大銃を外郭に打入る、清正が兵に中りて胴中より二つに斷れたり。清正士卒を制して躁がしめず、明兵又一丸を發す。此丸空中に飛ぶ、清正士卒に令し、大に躁て城中に引入らしむ。明兵城中の騷動を見て、大銃を釣瓶に放つに、皆空中に飛べり、軍中清正の膽智に服せり。 ○征韓の役、清正の軍勢敵を切りあぐみたる時に、清正馬上にて、何人切倒したるや筭へ見よと言ふ時、刀の直なるにては、當り弱く人倒れず、能き程の反りにては切れずと雖も、倒れずと言ふことなしとぞ。 ○清正、朝鮮の兩王子を擒にし、能く之を遇す。依て王子、朝鮮に歸るの日、清正の臣、加藤右馬允に寄するの書に其慈悲如佛。眞個日本中好人也。又後日若對日本及計頭。復發雜談。少有背負之意。非人情也。天地鬼神。共罰之矣。等の語あり。其敬慕せらること斯の如し。