名将言行録 / 『名将言行録』石田三成 朝鮮の指揮と頭巾
○秀吉、病に臥し、三成を召し、吾微恙の間、朝鮮の沙汰に倦みたり、汝那古耶に下向して、大事は格別、尋常の軍事は吾に達するに及ばず宜く指揮すべき由命ぜらる。三成頻りに之に辭す。秀吉曰く、吾倚々其器を撰むに、其任に堪へたる者、汝に究まれり。且つ後來は汝を以て鎭西の探題たらしめんと欲す、敢て辭すること勿れと。三成則ち領掌し、五月伏見を發しけり。 ○大阪城中にて、三成頭巾を着しながら、火にあたりし時、家康の通らるゝ道筋なれば、淺野長政、三成に向ひ、只今内府通らるゝに、去るなめげの樣しては惡しからんと、三度まで、申しゝに、三成知らぬ顏して、空嘯きて居たり。長政餘りのことに思ひ、其頭巾を取て、火中に投げけれども、三成怒れる氣色もなし。是三成此頃より、既に後日の一大事を思ひ立ありしかば、斯る細事には、心を留めざりしなり。此事後に家康聽かれ、儲々危かりしことよ、若し其折三成が怒て長政と切合ふならば、我又長政を見放すことは成間敷と、言はれしとぞ。
新字:○秀吉、病に臥し、三成を召し、吾微恙の間、朝鮮の沙汰に倦みたり、汝那古耶に下向して、大事は格別、尋常の軍事は吾に達するに及ばず宜く指揮すべき由命ぜらる。三成頻りに之に辞す。秀吉曰く、吾倚々其器を撰むに、其任に堪へたる者、汝に究まれり。且つ後来は汝を以て鎮西の探題たらしめんと欲す、敢て辞すること勿れと。三成則ち領掌し、五月伏見を発しけり。 ○大阪城中にて、三成頭巾を着しながら、火にあたりし時、家康の通らるゝ道筋なれば、浅野長政、三成に向ひ、只今内府通らるゝに、去るなめげの様しては悪しからんと、三度まで、申しゝに、三成知らぬ顔して、空嘯きて居たり。長政余りのことに思ひ、其頭巾を取て、火中に投げけれども、三成怒れる気色もなし。是三成此頃より、既に後日の一大事を思ひ立ありしかば、斯る細事には、心を留めざりしなり。此事後に家康聴かれ、儲々危かりしことよ、若し其折三成が怒て長政と切合ふならば、我又長政を見放すことは成間敷と、言はれしとぞ。
書き下し
○秀吉、病に臥し、三成を召し、吾微恙の間、朝鮮の沙汰に倦みたり、汝那古耶に下向して、大事は格別、尋常の軍事は吾に達するに及ばず宜く指揮すべき由命ぜらる。三成頻りに之に辭す。秀吉曰く、吾倚々其器を撰むに、其任に堪へたる者、汝に究まれり。且つ後來は汝を以て鎭西の探題たらしめんと欲す、敢て辭すること勿れと。三成則ち領掌し、五月伏見を發しけり。 ○大阪城中にて、三成頭巾を着しながら、火にあたりし時、家康の通らるゝ道筋なれば、淺野長政、三成に向ひ、只今内府通らるゝに、去るなめげの樣しては惡しからんと、三度まで、申しゝに、三成知らぬ顏して、空嘯きて居たり。長政餘りのことに思ひ、其頭巾を取て、火中に投げけれども、三成怒れる氣色もなし。是三成此頃より、既に後日の一大事を思ひ立ありしかば、斯る細事には、心を留めざりしなり。此事後に家康聽かれ、儲々危かりしことよ、若し其折三成が怒て長政と切合ふならば、我又長政を見放すことは成間敷と、言はれしとぞ。
現代語訳
秀吉が病に臥し、三成を召し、私は軽い病の間、朝鮮の沙汰に倦んでいる。おまえは那古耶に下向し、大事は別として、尋常の軍事は私に知らせるに及ばず、よく指揮せよと命じられた。三成はしきりにこれを辞した。秀吉は、私はよくよくその器を選んだが、その任に堪える者は、おまえに極まる。かつ、後来はおまえを鎮西の探題にしようと思う。あえて辞することなかれと言った。三成はすなわち承諾し、五月に伏見を発した。 大坂城中で、三成が頭巾を着けたまま火にあたっていた時、家康が通られる道筋なので、浅野長政が三成に向かい、ただ今内府が通られるのに、そのような無礼な様ではよくなかろうと、三度まで申したが、三成は知らぬ顔をして空とぼけていた。長政はあまりのことに思い、その頭巾を取って火の中に投げたけれども、三成は怒った気色もない。これは三成がこの頃からすでに後日の一大事を思い立っていたので、このような細事には心を留めなかったのである。この事を後に家康が聞かれ、危ういことよ、もしその折、三成が怒って長政と切り合うなら、私もまた長政を見放すことはできなかったと言われたという。
解説

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