名将言行録 / 『名将言行録』福島正則 敵将への敬意と遠因
井伊本多之を聞き、大に驚き、正則の申さる、所、理至極せり、去らば井奈が手に屬せし騎馬の士、首切て參らせん、伊奈と中直りし賜はらんこと、公私の幸、何事か之に過んやと言ければ、正則、家子郞等に疎まれて、重ねて敢果々々敷軍せんこと叶ふまじ、今は德川殿にも、正則よしとも思召されまじ、此後御門下に伺候せんこと、詮なきとて引籠る。家康此由を聞て、正則が申條其理なきにあらず、伊奈が計らひ不當なりと怒られしかば、今成腹切て死す。井伊直政、頓て其首持たせて正則が陣に行向ふ。正則之を見て、井伊殿の御力に依て、正則が耻雪ぎて候と喜びけり。 これ、正則が後に封を失ひし遠因となる。 ○此役、石田三成擒となる、諸將爭ひ之を折辱す。三成曰く、凡そ戰死を好むは匹夫のことなり、將たらん者は、命を危きに免れ、重ねて戰を遂ぐるを本意とす。我全く臆するにあらず、如何にもして大阪に至り、素懷を遂んことを欲すると雖も、運盡きて囚に及べり。各は將師の法は知られずやと怒りしに、正則聞て、至極の理に候、武將たらん者は、誰も斯くこそ心得べきことなれ、豈耻辱とせんやと言て、三成が心を慰めける。人皆勇將哉、と言て感稱せり。 ○此役終て後、正則、德川殿には、箇樣に秀賴公を御立置かれし上は、別儀は之有間敷、石田が關ヶ原の一戰、若し勝利せしならば、却て秀賴公をば、三日とは置申間敷と言はれける。尤ものことゝ人々申あへり。
新字:井伊本多之を聞き、大に驚き、正則の申さる、所、理至極せり、去らば井奈が手に属せし騎馬の士、首切て参らせん、伊奈と中直りし賜はらんこと、公私の幸、何事か之に過んやと言ければ、正則、家子郎等に疎まれて、重ねて敢果々々敷軍せんこと叶ふまじ、今は徳川殿にも、正則よしとも思召されまじ、此後御門下に伺候せんこと、詮なきとて引籠る。家康此由を聞て、正則が申条其理なきにあらず、伊奈が計らひ不当なりと怒られしかば、今成腹切て死す。井伊直政、頓て其首持たせて正則が陣に行向ふ。正則之を見て、井伊殿の御力に依て、正則が耻雪ぎて候と喜びけり。 これ、正則が後に封を失ひし遠因となる。 ○此役、石田三成擒となる、諸将争ひ之を折辱す。三成曰く、凡そ戦死を好むは匹夫のことなり、将たらん者は、命を危きに免れ、重ねて戦を遂ぐるを本意とす。我全く臆するにあらず、如何にもして大阪に至り、素懐を遂んことを欲すると雖も、運尽きて囚に及べり。各は将師の法は知られずやと怒りしに、正則聞て、至極の理に候、武将たらん者は、誰も斯くこそ心得べきことなれ、豈耻辱とせんやと言て、三成が心を慰めける。人皆勇将哉、と言て感称せり。 ○此役終て後、正則、徳川殿には、箇様に秀頼公を御立置かれし上は、別儀は之有間敷、石田が関ヶ原の一戦、若し勝利せしならば、却て秀頼公をば、三日とは置申間敷と言はれける。尤ものことゝ人々申あへり。
書き下し
井伊本多之を聞き、大に驚き、正則の申さる、所、理至極せり、去らば井奈が手に屬せし騎馬の士、首切て參らせん、伊奈と中直りし賜はらんこと、公私の幸、何事か之に過んやと言ければ、正則、家子郞等に疎まれて、重ねて敢果々々敷軍せんこと叶ふまじ、今は德川殿にも、正則よしとも思召されまじ、此後御門下に伺候せんこと、詮なきとて引籠る。家康此由を聞て、正則が申條其理なきにあらず、伊奈が計らひ不當なりと怒られしかば、今成腹切て死す。井伊直政、頓て其首持たせて正則が陣に行向ふ。正則之を見て、井伊殿の御力に依て、正則が耻雪ぎて候と喜びけり。 これ、正則が後に封を失ひし遠因となる。 ○此役、石田三成擒となる、諸將爭ひ之を折辱す。三成曰く、凡そ戰死を好むは匹夫のことなり、將たらん者は、命を危きに免れ、重ねて戰を遂ぐるを本意とす。我全く臆するにあらず、如何にもして大阪に至り、素懷を遂んことを欲すると雖も、運盡きて囚に及べり。各は將師の法は知られずやと怒りしに、正則聞て、至極の理に候、武將たらん者は、誰も斯くこそ心得べきことなれ、豈耻辱とせんやと言て、三成が心を慰めける。人皆勇將哉、と言て感稱せり。 ○此役終て後、正則、德川殿には、箇樣に秀賴公を御立置かれし上は、別儀は之有間敷、石田が關ヶ原の一戰、若し勝利せしならば、却て秀賴公をば、三日とは置申間敷と言はれける。尤ものことゝ人々申あへり。
現代語訳
井伊と本多はこれを聞いて大いに驚き、正則の申されることは理が至極している、それならば伊奈の手に属する騎馬の士の首を切って差し上げよう、伊奈と仲直りしていただければ、公私の幸い、これに過ぎるものはない、と言った。正則は、家子郎党に疎まれて、重ねて勇敢に軍をすることはかなうまい。今は徳川殿にもよしとは思し召されまい。今後お門下に伺候しても詮ないことだとして引きこもった。家康はこのことを聞いて、正則の申す条にも理がないではない、伊奈の計らいが不当であったと怒られたので、今成は腹を切って死んだ。井伊直政はやがてその首を持たせて正則の陣に行き向かった。正則はこれを見て、井伊殿のお力によって、正則の恥がすすがれましたと喜んだ。 これは、正則が後に封を失う遠因となった。 この役で、石田三成が捕らえられると、諸将は争ってこれをののしり辱めた。三成は言った。そもそも戦死を好むのは匹夫のことである。将たる者は、命を危うきから免れ、重ねて戦うことを本意とする。私は全く臆したわけではない。なんとかして大坂に至り、素懐を遂げようと欲したが、運が尽きて囚われの身となった。おのおのは将帥の法を知られないのか、と怒ったところ、正則は聞いて、至極の理でございます。武将たる者は、誰もこのように心得るべきことで、どうして恥辱としましょうか、と言って、三成の心を慰めた。人々はみな勇将だと言って感嘆した。 この役が終わったあと、正則は、徳川殿がこのように秀頼公を存置されたうえは、他意はあるまい。石田が関ヶ原の一戦で、もし勝利していたなら、かえって秀頼公を三日と置いておかなかっただろう、と言った。もっともなことだと人々は言い合った。
解説

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