名将言行録 / 『名将言行録』石田三成 宗庵を使った密計
○三成、初め密計を與黨の諸將に通ぜんと欲し、罪を茶の宗匠渡邊宗庵に託して、之を放逐す。宗庵會津に走り、密計を上杉景勝に告ぐ、景勝大に喜び、速かに印を押す。三成陽に景勝に詰る。景勝宗庵を放逐す。宗庵直ちに水戸に往き、謀を佐竹義宣に通じ、義宣の印を得、越前に赴き、丹羽長重、青木一矩に通じ、證を獲て佐和山に歸れり。三成發するに臨み、茶を點じ、宗庵に與へて、太閤薨去の秋、足下伴食の時我食畢れり、侍者銚子を持出づ、我思はず、飯椀を出だす、侍者酒なりと言ふ、我急に盃を取りたり、侍者我健忘を嗤ひしが我も亦大に慚たり、然れども、此大事を思惟すること、數年、寢食も忘れず、故に此事ありき。我今其恥を雪んとすと、ありて、肩衝唐茶器を出だし此是先年黄金三百兩にて子が手より得たり、今度我若し戰死せば、此名器も忽ち灰とならん、足下之を藏し、旦夕茶を供し、宜く追悼すべし、我又志を遂げば、賓價を以て之を足下に與へ、以て我重器と爲さんと言て之を與へり。
新字:○三成、初め密計を与党の諸将に通ぜんと欲し、罪を茶の宗匠渡辺宗庵に託して、之を放逐す。宗庵会津に走り、密計を上杉景勝に告ぐ、景勝大に喜び、速かに印を押す。三成陽に景勝に詰る。景勝宗庵を放逐す。宗庵直ちに水戸に往き、謀を佐竹義宣に通じ、義宣の印を得、越前に赴き、丹羽長重、青木一矩に通じ、証を獲て佐和山に帰れり。三成発するに臨み、茶を点じ、宗庵に与へて、太閤薨去の秋、足下伴食の時我食畢れり、侍者銚子を持出づ、我思はず、飯椀を出だす、侍者酒なりと言ふ、我急に盃を取りたり、侍者我健忘を嗤ひしが我も亦大に慚たり、然れども、此大事を思惟すること、数年、寝食も忘れず、故に此事ありき。我今其恥を雪んとすと、ありて、肩衝唐茶器を出だし此是先年黄金三百両にて子が手より得たり、今度我若し戦死せば、此名器も忽ち灰とならん、足下之を蔵し、旦夕茶を供し、宜く追悼すべし、我又志を遂げば、賓価を以て之を足下に与へ、以て我重器と為さんと言て之を与へり。
書き下し
○三成、初め密計を與黨の諸將に通ぜんと欲し、罪を茶の宗匠渡邊宗庵に託して、之を放逐す。宗庵會津に走り、密計を上杉景勝に告ぐ、景勝大に喜び、速かに印を押す。三成陽に景勝に詰る。景勝宗庵を放逐す。宗庵直ちに水戸に往き、謀を佐竹義宣に通じ、義宣の印を得、越前に赴き、丹羽長重、青木一矩に通じ、證を獲て佐和山に歸れり。三成發するに臨み、茶を點じ、宗庵に與へて、太閤薨去の秋、足下伴食の時我食畢れり、侍者銚子を持出づ、我思はず、飯椀を出だす、侍者酒なりと言ふ、我急に盃を取りたり、侍者我健忘を嗤ひしが我も亦大に慚たり、然れども、此大事を思惟すること、數年、寢食も忘れず、故に此事ありき。我今其恥を雪んとすと、ありて、肩衝唐茶器を出だし此是先年黄金三百兩にて子が手より得たり、今度我若し戰死せば、此名器も忽ち灰とならん、足下之を藏し、旦夕茶を供し、宜く追悼すべし、我又志を遂げば、賓價を以て之を足下に與へ、以て我重器と爲さんと言て之を與へり。
現代語訳
三成は初め、密計を与党の諸将に通じようとして、罪を茶の宗匠渡辺宗庵にかこつけて、これを放逐した。宗庵は会津に走り、密計を上杉景勝に告げた。景勝は大いに喜び、速やかに印を押した。三成は表向き景勝を詰問した。景勝は宗庵を放逐した。宗庵は直ちに水戸に行き、謀を佐竹義宣に通じ、義宣の印を得て、越前に赴き、丹羽長重、青木一矩に通じ、証を得て佐和山に帰った。三成は出発に臨んで、茶を点てて宗庵に与え、太閤薨去の秋、足下が相伴した時、私は食事を終えたが、侍者が銚子を持って出てきた。私は思わず飯椀を出した。侍者は酒ですと言う。私は急いで盃を取った。侍者は私の健忘を笑ったが、私もまた大いに恥じた。しかしこの大事を思い巡らすこと数年、寝食も忘れた。ゆえにこの事があった。私は今その恥をすすごうとする、と言って、肩衝の唐茶器を出し、これは先年、黄金三百両で、そなたの手から得たものである。今度私がもし戦死すれば、この名器もたちまち灰となろう。足下はこれを蔵し、朝夕茶を供えて、よく追悼してほしい。私がまた志を遂げたなら、賓価をもって足下に与え、私の重器としようと言って、これを与えた。
解説

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