名将言行録 / 『名将言行録』石田三成 縄は太閤への恩返し
○三成曰く、先日田中が家人我等を搦捕らんとする時、一兩人も刺殺して自害せんは安かりつれども、此の上は敵の手に渡て、尋常に首を斬らせばやと思ひ、又關ヶ原合戰の日は、手前忙しかりし故に、人々のなれる樣をも曾て知らず、其働の善惡を語り聞する人あらば、泉下に於て、故太閤へ御物語申さん爲めに、暫らく浮世に生存へたりと。又曰く、我今戒めらるゝ所の繩は、太閤への御恩送りなれば、何にとて恥とは言はんと。 ○三成、田中の臣田中傳右衞門に捕へらる。三成、石田木工は、(註:木工頭重成 三成の兄)如何の體になりしやと問ふ。傳右衞門木工殿は、妻子を差殺し、其身も自害殺されしと語りければ、ざつとすんだと申しゝとぞ。我等も斯の如く落行くべき仔細なけれども、大阪の城へ何卒還入り候はゞ、今一度斯の如く催すべきをと語りしとぞ。 ○吉政、三成に馳走の士を付け饗應しけれども、片時も早く死んとて食せず、馳走の士如何で兵部が計らひに及ぶべき。能く痛はりて最後の御用意候へがしと申ければ、去らば此頃腹中の惡ければ、韮雜水を賜へと言へり。其設して進めければ、快く食して高鼾にて寢しとぞ。
新字:○三成曰く、先日田中が家人我等を搦捕らんとする時、一両人も刺殺して自害せんは安かりつれども、此の上は敵の手に渡て、尋常に首を斬らせばやと思ひ、又関ヶ原合戦の日は、手前忙しかりし故に、人々のなれる様をも曽て知らず、其働の善悪を語り聞する人あらば、泉下に於て、故太閤へ御物語申さん為めに、暫らく浮世に生存へたりと。又曰く、我今戒めらるゝ所の縄は、太閤への御恩送りなれば、何にとて恥とは言はんと。 ○三成、田中の臣田中伝右衛門に捕へらる。三成、石田木工は、(註:木工頭重成 三成の兄)如何の体になりしやと問ふ。伝右衛門木工殿は、妻子を差殺し、其身も自害殺されしと語りければ、ざつとすんだと申しゝとぞ。我等も斯の如く落行くべき仔細なけれども、大阪の城へ何卒還入り候はゞ、今一度斯の如く催すべきをと語りしとぞ。 ○吉政、三成に馳走の士を付け饗応しけれども、片時も早く死んとて食せず、馳走の士如何で兵部が計らひに及ぶべき。能く痛はりて最後の御用意候へがしと申ければ、去らば此頃腹中の悪ければ、韮雑水を賜へと言へり。其設して進めければ、快く食して高鼾にて寝しとぞ。
書き下し
○三成曰く、先日田中が家人我等を搦捕らんとする時、一兩人も刺殺して自害せんは安かりつれども、此の上は敵の手に渡て、尋常に首を斬らせばやと思ひ、又關ヶ原合戰の日は、手前忙しかりし故に、人々のなれる樣をも曾て知らず、其働の善惡を語り聞する人あらば、泉下に於て、故太閤へ御物語申さん爲めに、暫らく浮世に生存へたりと。又曰く、我今戒めらるゝ所の繩は、太閤への御恩送りなれば、何にとて恥とは言はんと。 ○三成、田中の臣田中傳右衞門に捕へらる。三成、石田木工は、(註:木工頭重成 三成の兄)如何の體になりしやと問ふ。傳右衞門木工殿は、妻子を差殺し、其身も自害殺されしと語りければ、ざつとすんだと申しゝとぞ。我等も斯の如く落行くべき仔細なけれども、大阪の城へ何卒還入り候はゞ、今一度斯の如く催すべきをと語りしとぞ。 ○吉政、三成に馳走の士を付け饗應しけれども、片時も早く死んとて食せず、馳走の士如何で兵部が計らひに及ぶべき。能く痛はりて最後の御用意候へがしと申ければ、去らば此頃腹中の惡ければ、韮雜水を賜へと言へり。其設して進めければ、快く食して高鼾にて寢しとぞ。
現代語訳
三成は言った。先日、田中の家人が私を搦め捕ろうとした時、一人二人刺し殺して自害することは易かったが、この上は敵の手に渡って、尋常に首を斬らせようと思った。また、関ヶ原合戦の日は、自分のことで忙しかったために、人々のなりゆきをまったく知らない。その働きの善悪を語り聞かせてくれる人があれば、泉下で故太閤にお話しするために、しばらく浮世に生き延びているのだ、と。また言った。私が今戒められている縄は、太閤への御恩送りなのだから、どうして恥と言おうか、と。 三成は、田中の臣、田中伝右衛門に捕らえられた。三成は、石田木工(註:木工頭重成、三成の兄)はどのようになったかと問うた。伝右衛門が、木工殿は妻子を刺し殺し、ご自身も自害なさったと語ると、ざっとすんだと言ったという。私もこのように落ち行くべき理由はなかったが、大坂の城へなんとか還り入れたなら、今一度このように兵を催すものを、と語ったという。 吉政は三成に馳走の士を付けてもてなしたけれども、少しでも早く死のうとして、食べなかった。馳走の士が、どうして兵部の計らいに関わりましょう。よくいたわって最期のご用意をなされませと申すと、それならこのごろ腹の中が悪いので、韮雑炊を賜りたいと言った。そのように設けて進めると、快く食べ、高いびきで寝たという。
解説

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