名将言行録 / 『名将言行録』上杉景勝 内府と利長の離間を止める
○關ヶ原役の前、景勝會津へ下らんとて、中仙道を通りし時、石田三成出向ひ、内府と前田利長と不和に成るべき謀を爲し、兩虎を鬪はせ、一犬其弊に乘じて利を得ることの策を爲さんと言ふ。景勝聞て、御邊の謀、然りと雖も、我深く思慮するに、恐くは然るべからず、如何となれば利長の性質は利家と違ひ、曾て内府と勢を張り、對戰すること能はず、幾ばくもあらず、和平を求むべし、内府は叡智なれば必ず之を幸とし、害すべきをも害せず、却て質子を取り、援助と爲すべし、是内府を剛強に爲す所の基なり。我思ふに利長は柔弱にして共に計るに足らざれども、弟能登守利政は兄に優れる者なり、之を賴みて内府へ與力せざる樣に計ふべし。内府と、利長とを鬪はしむるは、必ず止めらるべしと言て、會津へ下る。三成用ひず、内府と、利長の間を離間せしが、果して景勝の申しゝ如く、内府の味方となれり。 ○關ヶ原役後、幾程もなく、徳川秀忠、景勝の邸へ臨まるゝとのことなり。景勝曰く、將軍家成らせらるべき旨、忝き次第に候。去ながら我等家人は、田舍者にて、作法曾て存ぜず候、萬事を本多正信に賴み入り、指圖を受け申べしとて、士下々まで一人も残らず下屋敷へ出し、屋敷には景勝と、直江兼繼兩人居残りて、料理其外所々の門番等、廣間玄關の番も、皆麾下の衆へ頼みける故に、秀忠機嫌斜ならず、天下にても景勝を分別者と譽めたり。家康にも稱譽せられたりとぞ。
新字:○関ヶ原役の前、景勝会津へ下らんとて、中仙道を通りし時、石田三成出向ひ、内府と前田利長と不和に成るべき謀を為し、両虎を闘はせ、一犬其弊に乗じて利を得ることの策を為さんと言ふ。景勝聞て、御辺の謀、然りと雖も、我深く思慮するに、恐くは然るべからず、如何となれば利長の性質は利家と違ひ、曽て内府と勢を張り、対戦すること能はず、幾ばくもあらず、和平を求むべし、内府は叡智なれば必ず之を幸とし、害すべきをも害せず、却て質子を取り、援助と為すべし、是内府を剛強に為す所の基なり。我思ふに利長は柔弱にして共に計るに足らざれども、弟能登守利政は兄に優れる者なり、之を頼みて内府へ与力せざる様に計ふべし。内府と、利長とを闘はしむるは、必ず止めらるべしと言て、会津へ下る。三成用ひず、内府と、利長の間を離間せしが、果して景勝の申しゝ如く、内府の味方となれり。 ○関ヶ原役後、幾程もなく、徳川秀忠、景勝の邸へ臨まるゝとのことなり。景勝曰く、将軍家成らせらるべき旨、忝き次第に候。去ながら我等家人は、田舎者にて、作法曽て存ぜず候、万事を本多正信に頼み入り、指図を受け申べしとて、士下々まで一人も残らず下屋敷へ出し、屋敷には景勝と、直江兼継両人居残りて、料理其外所々の門番等、広間玄関の番も、皆麾下の衆へ頼みける故に、秀忠機嫌斜ならず、天下にても景勝を分別者と誉めたり。家康にも称誉せられたりとぞ。
書き下し
○關ヶ原役の前、景勝會津へ下らんとて、中仙道を通りし時、石田三成出向ひ、内府と前田利長と不和に成るべき謀を爲し、兩虎を鬪はせ、一犬其弊に乘じて利を得ることの策を爲さんと言ふ。景勝聞て、御邊の謀、然りと雖も、我深く思慮するに、恐くは然るべからず、如何となれば利長の性質は利家と違ひ、曾て内府と勢を張り、對戰すること能はず、幾ばくもあらず、和平を求むべし、内府は叡智なれば必ず之を幸とし、害すべきをも害せず、却て質子を取り、援助と爲すべし、是内府を剛強に爲す所の基なり。我思ふに利長は柔弱にして共に計るに足らざれども、弟能登守利政は兄に優れる者なり、之を賴みて内府へ與力せざる樣に計ふべし。内府と、利長とを鬪はしむるは、必ず止めらるべしと言て、會津へ下る。三成用ひず、内府と、利長の間を離間せしが、果して景勝の申しゝ如く、内府の味方となれり。 ○關ヶ原役後、幾程もなく、徳川秀忠、景勝の邸へ臨まるゝとのことなり。景勝曰く、將軍家成らせらるべき旨、忝き次第に候。去ながら我等家人は、田舍者にて、作法曾て存ぜず候、萬事を本多正信に賴み入り、指圖を受け申べしとて、士下々まで一人も残らず下屋敷へ出し、屋敷には景勝と、直江兼繼兩人居残りて、料理其外所々の門番等、廣間玄關の番も、皆麾下の衆へ頼みける故に、秀忠機嫌斜ならず、天下にても景勝を分別者と譽めたり。家康にも稱譽せられたりとぞ。
現代語訳
○関ヶ原の役の前、景勝が会津へ下ろうとして中山道を通った時、石田三成が出向き、内府と前田利長とが不和になるように謀り、二頭の虎を闘わせ、一匹の犬がその疲れに乗じて利を得るという策をなそうと言った。景勝は聞いて、御辺の謀はそうであっても、私が深く思慮するに、おそらく適当ではない。なぜなら利長の性質は利家と違い、内府と勢を張って対戦することはできず、いくらもたたないうちに、和平を求めるだろう。内府は叡智であるから必ずこれを幸いとし、害すべきをも害せず、かえって人質を取って、援助とするだろう。これは内府を強くするもとである。私が思うに利長は柔弱で共に計るには足りないが、弟の能登守利政は兄に優れる者である。これを頼みとして、内府に与力しないように計るべきである。内府と利長とを闘わせることは、必ず止められよと言って、会津へ下った。三成は用いず、内府と利長の間を離間させたが、はたして景勝の申したとおり、利長は内府の味方となった。 ○関ヶ原の役の後、間もなく、徳川秀忠が景勝の邸へ臨まれるとのことである。景勝は言った。将軍家がいらっしゃるとのこと、ありがたい次第です。しかしながら、私どもの家人は田舎者で、作法をまったく存じません。万事を本多正信に頼み入り、指図を受けましょうと言って、士は下々まで一人も残らず下屋敷へ出し、屋敷には景勝と直江兼続の両人が居残って、料理その他所々の門番、広間や玄関の番も、皆幕府の衆に頼んだので、秀忠は機嫌が斜めならず、天下でも景勝を分別者とほめた。家康にも称賛されたということである。
解説

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