名将言行録 / 『名将言行録』石田三成 茶の三杯と少年の機転
隱岐守政成の子、治部少輔に任じ、佐和山二十三萬五千三百石に封ぜらる、五奉行の一人なり。初め宗成、後今の名に改む。慶長五年十月朔日死。年三十八。 ○三成は近江石田村の民佐五右衞門政成の子なり。初め佐吉と稱す、家貧しければ、父之を觀音寺に托せり。秀吉一日放鷹に出て喉乾きければ、其寺に至り誰かある茶を立て來れと所望せらる。其時佐吉大なる茶碗に、七八分にぬるく立てゝ持來る。秀吉之を飲み舌を鳴し、氣味善し、今一服とあれば、又立てゝ、之を捧ぐ、前より少し熱くして茶碗の半に足らず、秀吉之を飮み、又試に今一服とある時、今度は小茶碗に少し許り成ろ程、熱く立てゝ持出る、秀吉之を飮み、其氣の働を感じ、住持に乞て近臣とせり。時に年十三、佐吉左右に給事し、能く秀吉の心に叶へり、恰も響の聲に應ずるが如しと云ふ。 ○三成、美少年にて秀吉の寵を得たり、十八歲のとき勝れて美々敷出立て乘初めの白洲に向ひし時、馬取の奴帶の結びに羽織の裾の掛りたるを直すとて、三成が帶の結びを敲きける、是を慮外者めとも言はず、何んの風情なく、其日の祝儀を勸め、翌日其馬取を召出す、此者心に覺えあれば、成敗の覺悟して出しに、思ひの外にて、黃金十五兩遣はすなり、將又奉公は成間敷との詞に情を含ませ、言はずして彼の合點の行く樣にして、暇を出せり。斯る大人敷心底なれば秀吉彌々寵幸せり。
新字:隠岐守政成の子、治部少輔に任じ、佐和山二十三万五千三百石に封ぜらる、五奉行の一人なり。初め宗成、後今の名に改む。慶長五年十月朔日死。年三十八。 ○三成は近江石田村の民佐五右衛門政成の子なり。初め佐吉と称す、家貧しければ、父之を観音寺に托せり。秀吉一日放鷹に出て喉乾きければ、其寺に至り誰かある茶を立て来れと所望せらる。其時佐吉大なる茶碗に、七八分にぬるく立てゝ持来る。秀吉之を飲み舌を鳴し、気味善し、今一服とあれば、又立てゝ、之を捧ぐ、前より少し熱くして茶碗の半に足らず、秀吉之を飲み、又試に今一服とある時、今度は小茶碗に少し許り成ろ程、熱く立てゝ持出る、秀吉之を飲み、其気の働を感じ、住持に乞て近臣とせり。時に年十三、佐吉左右に給事し、能く秀吉の心に叶へり、恰も響の声に応ずるが如しと云ふ。 ○三成、美少年にて秀吉の寵を得たり、十八歳のとき勝れて美々敷出立て乗初めの白洲に向ひし時、馬取の奴帯の結びに羽織の裾の掛りたるを直すとて、三成が帯の結びを敲きける、是を慮外者めとも言はず、何んの風情なく、其日の祝儀を勧め、翌日其馬取を召出す、此者心に覚えあれば、成敗の覚悟して出しに、思ひの外にて、黄金十五両遣はすなり、将又奉公は成間敷との詞に情を含ませ、言はずして彼の合点の行く様にして、暇を出せり。斯る大人敷心底なれば秀吉弥々寵幸せり。
書き下し
隱岐守政成の子、治部少輔に任じ、佐和山二十三萬五千三百石に封ぜらる、五奉行の一人なり。初め宗成、後今の名に改む。慶長五年十月朔日死。年三十八。 ○三成は近江石田村の民佐五右衞門政成の子なり。初め佐吉と稱す、家貧しければ、父之を觀音寺に托せり。秀吉一日放鷹に出て喉乾きければ、其寺に至り誰かある茶を立て來れと所望せらる。其時佐吉大なる茶碗に、七八分にぬるく立てゝ持來る。秀吉之を飲み舌を鳴し、氣味善し、今一服とあれば、又立てゝ、之を捧ぐ、前より少し熱くして茶碗の半に足らず、秀吉之を飮み、又試に今一服とある時、今度は小茶碗に少し許り成ろ程、熱く立てゝ持出る、秀吉之を飮み、其氣の働を感じ、住持に乞て近臣とせり。時に年十三、佐吉左右に給事し、能く秀吉の心に叶へり、恰も響の聲に應ずるが如しと云ふ。 ○三成、美少年にて秀吉の寵を得たり、十八歲のとき勝れて美々敷出立て乘初めの白洲に向ひし時、馬取の奴帶の結びに羽織の裾の掛りたるを直すとて、三成が帶の結びを敲きける、是を慮外者めとも言はず、何んの風情なく、其日の祝儀を勸め、翌日其馬取を召出す、此者心に覺えあれば、成敗の覺悟して出しに、思ひの外にて、黃金十五兩遣はすなり、將又奉公は成間敷との詞に情を含ませ、言はずして彼の合點の行く樣にして、暇を出せり。斯る大人敷心底なれば秀吉彌々寵幸せり。
現代語訳
隠岐守政成の子で、治部少輔に任じ、佐和山二十三万五千三百石に封ぜられた、五奉行の一人である。初め宗成、のち今の名に改めた。慶長五年十月一日死去。年三十八。 三成は近江石田村の民、佐五右衛門政成の子である。初め佐吉と称した。家が貧しかったので、父は彼を観音寺に預けた。秀吉がある日鷹狩りに出て喉が渇き、その寺に至り、誰かいるか、茶を立てて来いと所望した。その時、佐吉は大きな茶碗に七、八分ほど、ぬるく立てて持って来た。秀吉はこれを飲み舌を鳴らし、気味がよい、今一服と言うと、また立てて捧げた。前より少し熱くして、茶碗の半分に足りない。秀吉はこれを飲み、また試みに今一服と言う時、今度は小茶碗に少しばかり、熱く立てて持ち出した。秀吉はこれを飲み、その気配りの働きに感じ、住持に乞うて近臣とした。時に年十三、佐吉は左右に仕え、よく秀吉の心にかない、まるで響きが声に応ずるようであったという。 三成は美少年で、秀吉の寵を得た。十八歳の時、際立って美々しく装い、乗り初めの白洲に向かった時、馬取りの奴が帯の結びに羽織の裾が掛かっているのを直すと言って、三成の帯の結びを叩いた。これを無礼者めとも言わず、何の様子も見せず、その日の祝儀を勧め、翌日その馬取りを召し出した。この者は心に覚えがあるので、成敗の覚悟で出たところ、思いのほか、黄金十五両を与えた。また、奉公はできまいとの言葉に情を含ませ、言わずして彼が合点するようにして、暇を出した。このような大人びた心底であったので、秀吉はいよいよ寵愛した。
解説

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名将言行録・『名将言行録』石田三成 時ならぬ桃と検地○或年の十月、毛利輝元より、盛りの如くなる桃を三成に便りて、秀吉に獻ず。三成見て、時分と云ひ、見事さ之に越したるはなし、去りながら、時ならざる物なれば、自然召土られ、御毒にも中り申に於ては、毛利殿の御氣遣もあるべし、只何にても、時節の物を御獻上ありて然るべしとて、差戻せり。時人其言に服せり。 ○小田原平ぎて後、秀吉、三成等をして、諸國を檢地せしめらる、之に依て國の風俗、地の肥瘠、人口の多少に至るまで、悉く之を知れり。凡そ武士の外刀を帶するを禁じ、農商の兵器を收め、之を以て、大阪、伏見兩城の忍返を鑄造せり。秀吉其才略を稱せり。 ○三成、幼より學を好み、諸藝に熟達せり。藤原肅を重んじ、戸田内記をして、之を聘せしむ、肅往んと欲して果さず、肅猥りに徵聘に應ぜず、然るに三成の招に應ぜんとせしは、其禮を以て招くを以てなり。 ○秀吉夜話の時、我若し死したらば、誰か又天下を治むる者あらん、苦しからざる間、汝等思ふ所を有りの儘に申べしと言はれければ、何れも御意の上は辭するに及ばずとて、各所存を言ふ、或は前田利家と曰ふ者あり、或又毛利輝元と曰ふ者あり、此の二人の中たるべしと申けれども、秀吉、否汝等の所存は尤もなれども、夫れ愚敷見立なり、此後は德川家康より外は治むべき人なし。然しながら、家康は律義なる人なれば、如何あるべきや、若し然らずんば、石田治部少めたるべし、治部少めは天下にはゞかる程の智慧を持たる奴なりと言はれけり。
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名将言行録・『名将言行録』石田三成 洪水と米俵の才覚○一年霖雨にて、河内堤切れ、國中俄に水になる由を申す、之に依り秀吉自身京橋口まで出て、下知せし程のことなれば、大小名一人として殘る者なく出たり。土俵にて水を防がんとすれども俄に土俵出來ず、雨は彌々强く、水は彌々增さり、兒やせん、角やあるべきと詮議の中に、三成只一騎にて切所に行きしが、頓て乘返し、京橋口の米倉の口を開かせ、切口に行きし下々の者を指留め、此米一俵づゝ切口へ持行くべしと下知しけるに依て、忽ち數千俵を持運ぶ、偖切口を見合はせて、積掛し間、暫時の間に山の如く積重ねて、洪水を堰留たり。雨霽て後、三成又河内の百姓及び、近所の者に土俵を念入れ搗へ、堤の切口に持行き、奉行に斷はり、米俵と積替て取るべし、何程にても土俵搗へ次第に積替よと下知せし故、土民氣を得て、一兩日の間成程念を入れたる土俵にて、堤の切口を築し故元の堤よりは、堅く出來たり。秀吉感稱斜めならず、時人も無雙の才覺と感歎せり。 ○秀吉、嘗て伏見城の庭に井を掘らせ、其土を急に取るべき由を命ぜり、三成、錢を貫差共に井の中へ投げ入れ、奪取にせよと申渡しければ、人夫共大に喜び、爭て瞬息の間に井の土を掘揚げしとぞ。 ○三成性懇懃にして、能く事に堪ふ、當時出頭第一の人にて、日々夜夜の勤怠らず、大風雨の夜抔は、城廻り破損のことを卯の刻には言上せしとぞ。却て普請奉行よりは、己の刻に言上なり。
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