名将言行録 / 『名将言行録』加藤清正 評・政治家と築城家
福島正則などと比べては、ずつと政治家で、肥後などでも、百姓のためにいろ〳〵治水工事などを行つてゐて、今でもその餘德が殘つてゐるのである。また築城家としては傑出してゐて、彼が築いた熊本城は、十年戰爭の時に、薩軍を防ぐ上に力があつたと云つてもよいのである。 性質は篤實で、歷史故舊を尊重した。織田家の子孫には、いつも敬意を持つてゐると云はれる。肥後の國守となつたときも、肥後の名家菊池氏(もう大名ではなかつたが、その血統の地侍は多かつた)の娘を入れて、妻としたことも、菊地氏の勸王精神に敬意を表すると共に、その國の名家を尊敬したのであらう。 その子忠廣の代になつて、すぐ取り潰された。明確な理由が分つてゐない。忠廣の家臣にたいへんな臆病侍があり、忠廣は時々、からかつてゐた。ある時、忠廣が冗談に(今度謀反を起して德川を倒すつもりだ)と、おどかしたことから、その男が驚いてふれ廻したため謀反の嫌疑と受けたと云ふが、そんな馬鹿々々しいデマが殘る位だから、その取り潰しの原因は、當時に於てさへ、不明であつたに違ひない。忠廣が、よほどの人物でない限り、家國を保つことは、むつかしかつたのであらう。 清正の娘は、紀伊の德川賴宣の妻になつてゐる。この娘に、子供があれば、紀州家に清正の血統が殘つてゐるわけだが、まだ調べてゐない。
新字:福島正則などと比べては、ずつと政治家で、肥後などでも、百姓のためにいろ〳〵治水工事などを行つてゐて、今でもその余徳が残つてゐるのである。また築城家としては傑出してゐて、彼が築いた熊本城は、十年戦争の時に、薩軍を防ぐ上に力があつたと云つてもよいのである。 性質は篤実で、歴史故旧を尊重した。織田家の子孫には、いつも敬意を持つてゐると云はれる。肥後の国守となつたときも、肥後の名家菊池氏(もう大名ではなかつたが、その血統の地侍は多かつた)の娘を入れて、妻としたことも、菊地氏の勧王精神に敬意を表すると共に、その国の名家を尊敬したのであらう。 その子忠広の代になつて、すぐ取り潰された。明確な理由が分つてゐない。忠広の家臣にたいへんな臆病侍があり、忠広は時々、からかつてゐた。ある時、忠広が冗談に(今度謀反を起して徳川を倒すつもりだ)と、おどかしたことから、その男が驚いてふれ廻したため謀反の嫌疑と受けたと云ふが、そんな馬鹿々々しいデマが残る位だから、その取り潰しの原因は、当時に於てさへ、不明であつたに違ひない。忠広が、よほどの人物でない限り、家国を保つことは、むつかしかつたのであらう。 清正の娘は、紀伊の徳川頼宣の妻になつてゐる。この娘に、子供があれば、紀州家に清正の血統が残つてゐるわけだが、まだ調べてゐない。
書き下し
福島正則などと比べては、ずつと政治家で、肥後などでも、百姓のためにいろ〳〵治水工事などを行つてゐて、今でもその餘德が殘つてゐるのである。また築城家としては傑出してゐて、彼が築いた熊本城は、十年戰爭の時に、薩軍を防ぐ上に力があつたと云つてもよいのである。 性質は篤實で、歷史故舊を尊重した。織田家の子孫には、いつも敬意を持つてゐると云はれる。肥後の國守となつたときも、肥後の名家菊池氏(もう大名ではなかつたが、その血統の地侍は多かつた)の娘を入れて、妻としたことも、菊地氏の勸王精神に敬意を表すると共に、その國の名家を尊敬したのであらう。 その子忠廣の代になつて、すぐ取り潰された。明確な理由が分つてゐない。忠廣の家臣にたいへんな臆病侍があり、忠廣は時々、からかつてゐた。ある時、忠廣が冗談に(今度謀反を起して德川を倒すつもりだ)と、おどかしたことから、その男が驚いてふれ廻したため謀反の嫌疑と受けたと云ふが、そんな馬鹿々々しいデマが殘る位だから、その取り潰しの原因は、當時に於てさへ、不明であつたに違ひない。忠廣が、よほどの人物でない限り、家國を保つことは、むつかしかつたのであらう。 清正の娘は、紀伊の德川賴宣の妻になつてゐる。この娘に、子供があれば、紀州家に清正の血統が殘つてゐるわけだが、まだ調べてゐない。
現代語訳
福島正則などと比べては、ずっと政治家で、肥後などでも百姓のためにいろいろ治水工事などを行っていて、今でもその余徳が残っているのである。また築城家としては傑出していて、彼が築いた熊本城は、十年戦争の時に、薩軍を防ぐ上に力があったと言ってもよいのである。 性質は篤実で、歴史故旧を尊重した。織田家の子孫には、いつも敬意を持っていたと言われる。肥後の国守となった時も、肥後の名家菊池氏(もう大名ではなかったが、その血統の地侍は多かった)の娘を入れて、妻としたことも、菊地氏の勤王精神に敬意を表すると共に、その国の名家を尊敬したのであろう。 その子忠広の代になって、すぐ取り潰された。明確な理由が分かっていない。忠広の家臣にたいへんな臆病侍があり、忠広は時々、からかっていた。ある時、忠広が冗談に(今度謀反を起こして徳川を倒すつもりだ)と、おどかしたことから、その男が驚いて触れ回ったため、謀反の嫌疑を受けたと言うが、そんな馬鹿々々しいデマが残るくらいだから、その取り潰しの原因は、当時においてさえ、不明であったに違いない。忠広がよほどの人物でない限り、家国を保つことは、難しかったのであろう。 清正の娘は、紀伊の徳川頼宣の妻になっている。この娘に、子供があれば、紀州家に清正の血統が残っているわけだが、まだ調べていない。
解説

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名将言行録・『名将言行録』加藤清正 譲る心と先に立つ勇彈正右衞門兵衞清忠の子、虎之助と稱す。後從四位下に敍し侍從兼肥後守に任ず。肥後七十二萬石に封ぜられ、熊本城に住す。慶長十六年六月二十四日卒、年五十一。 ○天正九年、秀吉因幡、鳥取を攻めし時、蜂須賀家政を遣はし形勢を覘はしむ。清正之に從ふ、清正曰く、城東の林莽恐くは伏兵あらん、君何ぞ衆を率ゐて往かざる、家政從はず、旣にして伏兵起ろ、清正弓を腰より取り、左右馳射し、敵進むこと能はず、乃ち馬より下り刀を揮ひ、家政と奮戰して、各首二級を獲て還る。秀吉喜びて曰く、清正少なりと雖も、懇懃に、氣雄なり、家政殆んど及ばずと、黃金一鎰を賜はり、秩百石を加ふ。 ○十一年、秀吉、瀧川一益を攻め、龜山を圍む、士卒爭ひ城に登る、城兵近江新七、士衆を勵まし、銃を發し拒戰す。木村十三郎鎗を擧て之を刺んとす、清正旁より馳至り、新七の肩を縱す、十三郎大に怒り其腹を貫く、新七斃る、清正顧みて、我先きに刺すと雖も、之を斃す者は予なりと言て其頭を取らず、秀吉其能く讓るを嘉みし、各賞あり。
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名将言行録・『名将言行録』加藤清正 評・朝鮮出兵の武功小田原征伐の時も、從軍しなかつたから、國内戰ではたいした武功はないのである。たゞ、肥後の殘り半國を領してゐた小西行長の一揆退治に加勢して、天草島の猛將木山彈正を十文字槍でかけ倒した位である。この時、十文字槍が折れて、片鎌槍になつたと云ひ、いな最初から、片鎌槍であつたと云ふ兩說である。が、後說が正しい、のであつて、十文字槍が折れたとしても、十文字槍が便利だと思へば、代品はいくらでもあるのだから、折れた槍をそのまゝ片鎌槍で使ふなんて、そんな馬鹿な話はあるわけはない。ことに、折れるやうな槍は、そのまゝ捨てるのが常識である。 清正の武功は、主として朝鮮出兵の時に、立てられたものである。會寧府で、兩王子を擒にして、しかもこれを優遇して、日本武將の襟度を見せたり、蔚山籠城で、頑張つて遂に明軍を擊退して、日本の武威を輝してゐる。 然し、明や朝鮮で清正のことを鬼上官と、云つたなどと云ふのは、怪しいのであつて、日本では鬼は怖しいものになつてゐるが、支那では鬼は幽鬼のことで、鬼と云ふことは、武將の武勇を現はす言葉ではないからである。 清正が、秀頼守護に相當忠實であつたことは事實であり、清正在世中は、家康が大阪城に手を着けなかつたのも、清正を憚つたものと考へられるが、しかし清正が爾後二三十年生きてゐたとしても、豐家の命脈が、續いたかどうかは疑問である。
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名将言行録・『名将言行録』福島正則 評・正則の不覚と家臣の見事さ○大閤取立ての大名中、剛強を以て聞えた武將である。よく士心を得て、その旗下に剛強の士を多く集めたことを見ても、攻城野戰の大將としては、申分ないが、しかし、うまく德川のために操られて、使ふだけは使はれて、德川の天下が安定すると、手がるに改易されたのでは、あまりにダラシがない。蒲生にしろ、兩加藤にしろ、第二世になつて廢絶したのだが、福島だけは當人の在世中に、取り潰されたのだから、正則自身の不覺と云ふ外はない。當時、大阪城を見殺しにしたと云ふ非難も相當受けたらしい。當時、正則が乾坤一擲の氣持で、大阪へ入城したら、家康も相當手古ずつたに相違なく、形勢の推移に依つては、再び天下の大變となつて、豐臣家が再興されたかも分らない。また、たとひ敗れたとして、正則の武名は眞田幸村に數倍して、後世に傳はつただらう。大閤は、あまりにその家臣を大名に取り立て過ぎた。大名に取り立て、封土やそれ等を多く持たすと、やはり一身一家のことを考へ出すものだと云ふ批判があるのも、正則などの場合を云ふのであらう。正則が、大阪城を見殺しにしたゝめ、暗に天下の非難を蒙むると、德川の方はそれに乘じて取り潰しにかゝるのだから、敵はない。改易の時の家臣の態度が、見事であつた事は、正則として唯一の慰めであつたに違ひない。 家臣の中、可兒吉則、福島治金、大崎長行、吉村宣光などは、いづれも當時天下に聞えた侍大將であつた。その中可兒吉長だけを、載せて置く。
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名将言行録・『名将言行録』加藤清正 倹約と家康への配慮○清正常に洗濯せし衣類を着し、障子は所々壞れたり所計りを、張替らる。斯る儉約の人なれども、武衞殿浪人の時、合力を庄林隼人に頼みし故、庄林米三百俵遺はさるべくやと申ければ、清正、玄米二千俵遺はすべくと言はれけり。 ○清正嘗て、自ら百姓を指揮し、溝洫を修理せり、時に午刻に及びしかば、何れも中食に就く、中に老農中食の菜に燔鰯を食へる者あり、清正見て汝年は幾くぞと問ひければ、六十有餘と申す。清正、最早六十に及べば、公役にも家僕を出し、身を安佚に爲すべきに、土民の身として、日に魚肉を食ふ、斯く飲食に奢る故、一生體を勞するなり、是口の爲めに、身を苦むるにあらずや、慎むべしと誡められけり。 ○家康、專ら武を偃せ、文を治め、諸大名の武事を講ずることを喜ばず、清正曰く、我深く徳川公の恩を受く、況や公子を以て、女婿と爲す、豈に異心あらんや。然れども、秀頼公、大阪に座まし、吾鎭西に在り、世人疑懼せん、徳川公老いたり、吾其心を安んぜざるべからずと、乃ち歌妓阿國なる者を國に召し、觀棚を造り士庶をして、縱觀せしむ、七日中元士庶に縱し、踏歌せしむ、士庶隊を分ち、演劇す。清正自ら臨觀して、樂みと爲す。又數々散樂を催し、之を視たり。