名将言行録 / 『名将言行録』石田三成 島左近に禄の半分を
○秀吉、三成に水口二萬石與へられける後、三成に人數多く抱へたるらんと問はれしに、三成、島左近一人召抱へ候と申す。秀吉夫は世に聞ゆる者なり。汝が許に小祿にて如何で奉公すべきと言はれしかば、三成、祿の半を分ち、一萬石與へ候と申す。秀吉聞て、君臣の祿相同じと云ふこと古より聞きも傳へず、如何樣にも、其志ならではよも汝には仕へじ、勇々敷も計らひたるもの哉と、深く感ぜられたり。後三成、佐和山を賜はりたる時、友之に加增を與ふべき由言けれども、友之曰く、祿更に不足にも候はず、他の人々に賜はり候へと辭しけり。 ○島友之、初め三成を便り、仕を秀吉に求む。三成、友之が願は肯ひながら、先づ上客として厚く之を遇し、後竟に家人と爲せり。時人治部少に過ぎたるものが二つある、島の左近に、佐和山の城と言あへり。三成士を好む、斯の如くなれば、當時多士の稱あり。 ○三成曰く、犬猫にも虎の班あり、然れども人寶とせざるは、虎にあらざればなり。智惠ありて粉飾する故、犬猫にも虎になる紛れものあり、是人の見違ふる所なりと。 ○三成、常に曰く、奉公人は主人より賜はる物を遣ひ、合はせて殘すべからず、殘すは盜人なり、又遣ひ過ぐして借錢するは愚人なりと。
新字:○秀吉、三成に水口二万石与へられける後、三成に人数多く抱へたるらんと問はれしに、三成、島左近一人召抱へ候と申す。秀吉夫は世に聞ゆる者なり。汝が許に小禄にて如何で奉公すべきと言はれしかば、三成、禄の半を分ち、一万石与へ候と申す。秀吉聞て、君臣の禄相同じと云ふこと古より聞きも伝へず、如何様にも、其志ならではよも汝には仕へじ、勇々敷も計らひたるもの哉と、深く感ぜられたり。後三成、佐和山を賜はりたる時、友之に加增を与ふべき由言けれども、友之曰く、禄更に不足にも候はず、他の人々に賜はり候へと辞しけり。 ○島友之、初め三成を便り、仕を秀吉に求む。三成、友之が願は肯ひながら、先づ上客として厚く之を遇し、後竟に家人と為せり。時人治部少に過ぎたるものが二つある、島の左近に、佐和山の城と言あへり。三成士を好む、斯の如くなれば、当時多士の称あり。 ○三成曰く、犬猫にも虎の班あり、然れども人宝とせざるは、虎にあらざればなり。智恵ありて粉飾する故、犬猫にも虎になる紛れものあり、是人の見違ふる所なりと。 ○三成、常に曰く、奉公人は主人より賜はる物を遣ひ、合はせて残すべからず、残すは盗人なり、又遣ひ過ぐして借銭するは愚人なりと。
書き下し
○秀吉、三成に水口二萬石與へられける後、三成に人數多く抱へたるらんと問はれしに、三成、島左近一人召抱へ候と申す。秀吉夫は世に聞ゆる者なり。汝が許に小祿にて如何で奉公すべきと言はれしかば、三成、祿の半を分ち、一萬石與へ候と申す。秀吉聞て、君臣の祿相同じと云ふこと古より聞きも傳へず、如何樣にも、其志ならではよも汝には仕へじ、勇々敷も計らひたるもの哉と、深く感ぜられたり。後三成、佐和山を賜はりたる時、友之に加增を與ふべき由言けれども、友之曰く、祿更に不足にも候はず、他の人々に賜はり候へと辭しけり。 ○島友之、初め三成を便り、仕を秀吉に求む。三成、友之が願は肯ひながら、先づ上客として厚く之を遇し、後竟に家人と爲せり。時人治部少に過ぎたるものが二つある、島の左近に、佐和山の城と言あへり。三成士を好む、斯の如くなれば、當時多士の稱あり。 ○三成曰く、犬猫にも虎の班あり、然れども人寶とせざるは、虎にあらざればなり。智惠ありて粉飾する故、犬猫にも虎になる紛れものあり、是人の見違ふる所なりと。 ○三成、常に曰く、奉公人は主人より賜はる物を遣ひ、合はせて殘すべからず、殘すは盜人なり、又遣ひ過ぐして借錢するは愚人なりと。
現代語訳
秀吉が三成に水口二万石を与えた後、三成に人数は多く抱えたであろうと問うと、三成は、島左近一人を召し抱えましたと申した。秀吉は、それは世に聞こえた者だ、おまえのところで小禄で、どうして奉公するだろうと言うと、三成は、禄の半分を分け、一万石与えましたと申した。秀吉は聞いて、君臣の禄が同じということは古来聞いたこともない、よほどその志でなければ、決してそなたには仕えまい、勇ましくも計らったものだと、深く感心された。のち三成が佐和山を賜った時、友之に加増を与えようと言ったが、友之は、禄はまったく不足でもございません、他の人々にお与えくださいと辞した。 島友之は、初め三成を頼り、仕官を秀吉に求めた。三成は友之の願いは聞き入れながら、まず上客として厚くもてなし、のちついに家人とした。当時の人は、治部少に過ぎたるものが二つある、島の左近に佐和山の城、と言い合った。三成が士を好むことはこのようであったので、当時多士の評判があった。 三成は言った。犬猫にも虎の斑がある。けれども人が宝としないのは、虎ではないからだ。知恵があって飾り立てるので、犬猫にも虎に紛れるものがある。これは人の見違えるところだ、と。 三成はつねに言った。奉公人は主人から賜る物を使い、合わせて残してはならない。残すのは盗人である。また使い過ぎて借金するのは愚か者である、と。
解説

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名将言行録・『名将言行録』石田三成 時ならぬ桃と検地○或年の十月、毛利輝元より、盛りの如くなる桃を三成に便りて、秀吉に獻ず。三成見て、時分と云ひ、見事さ之に越したるはなし、去りながら、時ならざる物なれば、自然召土られ、御毒にも中り申に於ては、毛利殿の御氣遣もあるべし、只何にても、時節の物を御獻上ありて然るべしとて、差戻せり。時人其言に服せり。 ○小田原平ぎて後、秀吉、三成等をして、諸國を檢地せしめらる、之に依て國の風俗、地の肥瘠、人口の多少に至るまで、悉く之を知れり。凡そ武士の外刀を帶するを禁じ、農商の兵器を收め、之を以て、大阪、伏見兩城の忍返を鑄造せり。秀吉其才略を稱せり。 ○三成、幼より學を好み、諸藝に熟達せり。藤原肅を重んじ、戸田内記をして、之を聘せしむ、肅往んと欲して果さず、肅猥りに徵聘に應ぜず、然るに三成の招に應ぜんとせしは、其禮を以て招くを以てなり。 ○秀吉夜話の時、我若し死したらば、誰か又天下を治むる者あらん、苦しからざる間、汝等思ふ所を有りの儘に申べしと言はれければ、何れも御意の上は辭するに及ばずとて、各所存を言ふ、或は前田利家と曰ふ者あり、或又毛利輝元と曰ふ者あり、此の二人の中たるべしと申けれども、秀吉、否汝等の所存は尤もなれども、夫れ愚敷見立なり、此後は德川家康より外は治むべき人なし。然しながら、家康は律義なる人なれば、如何あるべきや、若し然らずんば、石田治部少めたるべし、治部少めは天下にはゞかる程の智慧を持たる奴なりと言はれけり。
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名将言行録・『名将言行録』石田三成 荻葭の運上と軍役○秀吉、中國三ヶ國の主となりし時、家臣に普く加增を賜はる、時に三成にも五百石の新恩を賜ひ、且つ汝望む所あらば申すべしと言はれければ、三成、宇治、淀の兩岸に生ずる荻、葭年年繁茂致し候へ共、土民之を盜み取候、若し之を賜はらんには、今賜はる所の五百石を返上し、別に一萬石の軍賦を辨さんと申ければ、秀吉之を許されたり。三成大に喜び沿川數十里の民に命じ、町毎に、價錢幾くと定め、之を刈取らしむ。此頃信長、丹波の波多野右衞門太夫秀治を攻められし時、秀吉を以て先鋒の大將と定めらる。時に三成は團扇九曜に、金の吹貫付たる旗を眞先に持たせ、武具、馬具、美麗によろひたる武者、金の吹貫皆一樣に腰印として數百騎纏ひ、隊後より靜々と押來る。秀吉怪み、使を馳せ之を問ふに、三成なり、秀吉、儕は宇治、淀川の運上萬石に及ぶ故、今度の軍役勤むるなりと思はれ、深く三成が才略を感ぜられけり。
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名将言行録・『名将言行録』石田三成 洪水と米俵の才覚○一年霖雨にて、河内堤切れ、國中俄に水になる由を申す、之に依り秀吉自身京橋口まで出て、下知せし程のことなれば、大小名一人として殘る者なく出たり。土俵にて水を防がんとすれども俄に土俵出來ず、雨は彌々强く、水は彌々增さり、兒やせん、角やあるべきと詮議の中に、三成只一騎にて切所に行きしが、頓て乘返し、京橋口の米倉の口を開かせ、切口に行きし下々の者を指留め、此米一俵づゝ切口へ持行くべしと下知しけるに依て、忽ち數千俵を持運ぶ、偖切口を見合はせて、積掛し間、暫時の間に山の如く積重ねて、洪水を堰留たり。雨霽て後、三成又河内の百姓及び、近所の者に土俵を念入れ搗へ、堤の切口に持行き、奉行に斷はり、米俵と積替て取るべし、何程にても土俵搗へ次第に積替よと下知せし故、土民氣を得て、一兩日の間成程念を入れたる土俵にて、堤の切口を築し故元の堤よりは、堅く出來たり。秀吉感稱斜めならず、時人も無雙の才覺と感歎せり。 ○秀吉、嘗て伏見城の庭に井を掘らせ、其土を急に取るべき由を命ぜり、三成、錢を貫差共に井の中へ投げ入れ、奪取にせよと申渡しければ、人夫共大に喜び、爭て瞬息の間に井の土を掘揚げしとぞ。 ○三成性懇懃にして、能く事に堪ふ、當時出頭第一の人にて、日々夜夜の勤怠らず、大風雨の夜抔は、城廻り破損のことを卯の刻には言上せしとぞ。却て普請奉行よりは、己の刻に言上なり。
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名将言行録・『名将言行録』石田三成 朝鮮の指揮と頭巾○秀吉、病に臥し、三成を召し、吾微恙の間、朝鮮の沙汰に倦みたり、汝那古耶に下向して、大事は格別、尋常の軍事は吾に達するに及ばず宜く指揮すべき由命ぜらる。三成頻りに之に辭す。秀吉曰く、吾倚々其器を撰むに、其任に堪へたる者、汝に究まれり。且つ後來は汝を以て鎭西の探題たらしめんと欲す、敢て辭すること勿れと。三成則ち領掌し、五月伏見を發しけり。 ○大阪城中にて、三成頭巾を着しながら、火にあたりし時、家康の通らるゝ道筋なれば、淺野長政、三成に向ひ、只今内府通らるゝに、去るなめげの樣しては惡しからんと、三度まで、申しゝに、三成知らぬ顏して、空嘯きて居たり。長政餘りのことに思ひ、其頭巾を取て、火中に投げけれども、三成怒れる氣色もなし。是三成此頃より、既に後日の一大事を思ひ立ありしかば、斯る細事には、心を留めざりしなり。此事後に家康聽かれ、儲々危かりしことよ、若し其折三成が怒て長政と切合ふならば、我又長政を見放すことは成間敷と、言はれしとぞ。
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