名将言行録 / 『名将言行録』石田三成 洪水と米俵の才覚
○一年霖雨にて、河内堤切れ、國中俄に水になる由を申す、之に依り秀吉自身京橋口まで出て、下知せし程のことなれば、大小名一人として殘る者なく出たり。土俵にて水を防がんとすれども俄に土俵出來ず、雨は彌々强く、水は彌々增さり、兒やせん、角やあるべきと詮議の中に、三成只一騎にて切所に行きしが、頓て乘返し、京橋口の米倉の口を開かせ、切口に行きし下々の者を指留め、此米一俵づゝ切口へ持行くべしと下知しけるに依て、忽ち數千俵を持運ぶ、偖切口を見合はせて、積掛し間、暫時の間に山の如く積重ねて、洪水を堰留たり。雨霽て後、三成又河内の百姓及び、近所の者に土俵を念入れ搗へ、堤の切口に持行き、奉行に斷はり、米俵と積替て取るべし、何程にても土俵搗へ次第に積替よと下知せし故、土民氣を得て、一兩日の間成程念を入れたる土俵にて、堤の切口を築し故元の堤よりは、堅く出來たり。秀吉感稱斜めならず、時人も無雙の才覺と感歎せり。 ○秀吉、嘗て伏見城の庭に井を掘らせ、其土を急に取るべき由を命ぜり、三成、錢を貫差共に井の中へ投げ入れ、奪取にせよと申渡しければ、人夫共大に喜び、爭て瞬息の間に井の土を掘揚げしとぞ。 ○三成性懇懃にして、能く事に堪ふ、當時出頭第一の人にて、日々夜夜の勤怠らず、大風雨の夜抔は、城廻り破損のことを卯の刻には言上せしとぞ。却て普請奉行よりは、己の刻に言上なり。
新字:○一年霖雨にて、河内堤切れ、国中俄に水になる由を申す、之に依り秀吉自身京橋口まで出て、下知せし程のことなれば、大小名一人として残る者なく出たり。土俵にて水を防がんとすれども俄に土俵出来ず、雨は弥々強く、水は弥々增さり、児やせん、角やあるべきと詮議の中に、三成只一騎にて切所に行きしが、頓て乗返し、京橋口の米倉の口を開かせ、切口に行きし下々の者を指留め、此米一俵づゝ切口へ持行くべしと下知しけるに依て、忽ち数千俵を持運ぶ、偖切口を見合はせて、積掛し間、暫時の間に山の如く積重ねて、洪水を堰留たり。雨霽て後、三成又河内の百姓及び、近所の者に土俵を念入れ搗へ、堤の切口に持行き、奉行に断はり、米俵と積替て取るべし、何程にても土俵搗へ次第に積替よと下知せし故、土民気を得て、一両日の間成程念を入れたる土俵にて、堤の切口を築し故元の堤よりは、堅く出来たり。秀吉感称斜めならず、時人も無双の才覚と感嘆せり。 ○秀吉、嘗て伏見城の庭に井を掘らせ、其土を急に取るべき由を命ぜり、三成、銭を貫差共に井の中へ投げ入れ、奪取にせよと申渡しければ、人夫共大に喜び、争て瞬息の間に井の土を掘揚げしとぞ。 ○三成性懇懃にして、能く事に堪ふ、当時出頭第一の人にて、日々夜夜の勤怠らず、大風雨の夜抔は、城廻り破損のことを卯の刻には言上せしとぞ。却て普請奉行よりは、己の刻に言上なり。
書き下し
○一年霖雨にて、河内堤切れ、國中俄に水になる由を申す、之に依り秀吉自身京橋口まで出て、下知せし程のことなれば、大小名一人として殘る者なく出たり。土俵にて水を防がんとすれども俄に土俵出來ず、雨は彌々强く、水は彌々增さり、兒やせん、角やあるべきと詮議の中に、三成只一騎にて切所に行きしが、頓て乘返し、京橋口の米倉の口を開かせ、切口に行きし下々の者を指留め、此米一俵づゝ切口へ持行くべしと下知しけるに依て、忽ち數千俵を持運ぶ、偖切口を見合はせて、積掛し間、暫時の間に山の如く積重ねて、洪水を堰留たり。雨霽て後、三成又河内の百姓及び、近所の者に土俵を念入れ搗へ、堤の切口に持行き、奉行に斷はり、米俵と積替て取るべし、何程にても土俵搗へ次第に積替よと下知せし故、土民氣を得て、一兩日の間成程念を入れたる土俵にて、堤の切口を築し故元の堤よりは、堅く出來たり。秀吉感稱斜めならず、時人も無雙の才覺と感歎せり。 ○秀吉、嘗て伏見城の庭に井を掘らせ、其土を急に取るべき由を命ぜり、三成、錢を貫差共に井の中へ投げ入れ、奪取にせよと申渡しければ、人夫共大に喜び、爭て瞬息の間に井の土を掘揚げしとぞ。 ○三成性懇懃にして、能く事に堪ふ、當時出頭第一の人にて、日々夜夜の勤怠らず、大風雨の夜抔は、城廻り破損のことを卯の刻には言上せしとぞ。却て普請奉行よりは、己の刻に言上なり。
現代語訳
ある年、長雨で河内の堤が切れ、国中がにわかに水になったと申してきた。これにより秀吉自身が京橋口まで出て指図したほどのことなので、大名も小名も一人として残る者なく出た。土俵で水を防ごうとするがにわかに土俵ができず、雨はいよいよ強く、水はいよいよ増し、こうしようかああしようかと詮議している中に、三成はただ一騎で切所に行き、やがて乗り返して、京橋口の米蔵の口を開かせ、切口に行った下々の者を押しとどめ、この米を一俵ずつ切口へ持って行けと命じたので、たちまち数千俵を運んだ。そこで切口を見合わせて積みかけたので、しばらくの間に山のように積み重ねて、洪水を堰き止めた。雨が晴れた後、三成はまた河内の百姓及び近所の者に、土俵を念入りに搗いて、堤の切口に持って行き、奉行に断って米俵と積み替えて取れ、どれだけでも土俵を搗き次第に積み替えよと命じたので、土民は気を得て、一両日の間にいかにも念を入れた土俵で堤の切口を築いたので、元の堤よりは堅くできた。秀吉は感嘆斜めならず、時の人も無双の才覚と感嘆した。 秀吉がかつて伏見城の庭に井戸を掘らせ、その土を急いで取るよう命じた。三成は、銭を貫き差しごと井戸の中へ投げ入れ、奪い取りにせよと申し渡したので、人夫どもは大いに喜び、争って、またたく間に井戸の土を掘り上げたという。 三成は性格が丁寧で、よく事に耐えた。当時、出頭第一の人で、日々夜々の勤めを怠らず、大風雨の夜などは、城廻りの破損のことを、卯の刻には言上したという。かえって普請奉行からは、己の刻に言上した。
解説

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