名将言行録 / 『名将言行録』石田三成 柿を断った最期
○三成、斬らるゝの日、途中にて湯を乞ひしに、折節其邊になかりしかば、警固せし者、湯は只今求め難し、喉乾かば、爰に甘干の柿あり是を食はれよと言ふ。三成聞て、夫は痰の毒なり、食す間敷と言ふ。聞く人大に笑て、只今首を刎らるゝ人の毒斷するこそ笑しけれと言ひしを、三成聞て、汝等如き者の心には尤もなり、大義を思ふ者は、假令首を刎らるゝ朝までも、命を大切にして、何卒本意を達せんと思ふものなりと言はれけり。頓て六條の河原に行きしに、顏色平生の如くにして、死に就きしとぞ。 ○三成は、五奉行の一人なり。勇智兼備の聞え、世以て賞美せり。諸大名の取次、天下の法政を司りし故、威權赫奕として肩を比ぶる人なし、かゝりければ、佐和山落城の後は、さぞ華麗ならんと、人々思ひたるに、豈に圖らんや居所は皆荒壁にて上塗せしはなく、屋中は多く板張の儘にて居館の障子襖は反古紙を用ひ、庭中も樹木抔植たる物好なく、手水鉢杯粗末なる石のさまなりしかば、皆々案外にてありしなり、又城中を改むるに、金銀は少しもなかりしとぞ。 ○徳川光圀曰く、三成は惡からざる者なり、人各爲其主と云ふ義にて、事を行ふ者は敵なりとも惡むべからず。君臣共に能々心得べきことなりと。
新字:○三成、斬らるゝの日、途中にて湯を乞ひしに、折節其辺になかりしかば、警固せし者、湯は只今求め難し、喉乾かば、爰に甘干の柿あり是を食はれよと言ふ。三成聞て、夫は痰の毒なり、食す間敷と言ふ。聞く人大に笑て、只今首を刎らるゝ人の毒断するこそ笑しけれと言ひしを、三成聞て、汝等如き者の心には尤もなり、大義を思ふ者は、仮令首を刎らるゝ朝までも、命を大切にして、何卒本意を達せんと思ふものなりと言はれけり。頓て六条の河原に行きしに、顔色平生の如くにして、死に就きしとぞ。 ○三成は、五奉行の一人なり。勇智兼備の聞え、世以て賞美せり。諸大名の取次、天下の法政を司りし故、威権赫奕として肩を比ぶる人なし、かゝりければ、佐和山落城の後は、さぞ華麗ならんと、人々思ひたるに、豈に図らんや居所は皆荒壁にて上塗せしはなく、屋中は多く板張の儘にて居館の障子襖は反古紙を用ひ、庭中も樹木抔植たる物好なく、手水鉢杯粗末なる石のさまなりしかば、皆々案外にてありしなり、又城中を改むるに、金銀は少しもなかりしとぞ。 ○徳川光圀曰く、三成は悪からざる者なり、人各為其主と云ふ義にて、事を行ふ者は敵なりとも悪むべからず。君臣共に能々心得べきことなりと。
書き下し
○三成、斬らるゝの日、途中にて湯を乞ひしに、折節其邊になかりしかば、警固せし者、湯は只今求め難し、喉乾かば、爰に甘干の柿あり是を食はれよと言ふ。三成聞て、夫は痰の毒なり、食す間敷と言ふ。聞く人大に笑て、只今首を刎らるゝ人の毒斷するこそ笑しけれと言ひしを、三成聞て、汝等如き者の心には尤もなり、大義を思ふ者は、假令首を刎らるゝ朝までも、命を大切にして、何卒本意を達せんと思ふものなりと言はれけり。頓て六條の河原に行きしに、顏色平生の如くにして、死に就きしとぞ。 ○三成は、五奉行の一人なり。勇智兼備の聞え、世以て賞美せり。諸大名の取次、天下の法政を司りし故、威權赫奕として肩を比ぶる人なし、かゝりければ、佐和山落城の後は、さぞ華麗ならんと、人々思ひたるに、豈に圖らんや居所は皆荒壁にて上塗せしはなく、屋中は多く板張の儘にて居館の障子襖は反古紙を用ひ、庭中も樹木抔植たる物好なく、手水鉢杯粗末なる石のさまなりしかば、皆々案外にてありしなり、又城中を改むるに、金銀は少しもなかりしとぞ。 ○徳川光圀曰く、三成は惡からざる者なり、人各爲其主と云ふ義にて、事を行ふ者は敵なりとも惡むべからず。君臣共に能々心得べきことなりと。
現代語訳
三成は斬られる日、途中で湯を乞うたが、折しもそのあたりになかったので、警固の者が、湯はただ今求めがたい。喉が渇くなら、ここに甘干しの柿がある、これを食べられよと言った。三成は聞いて、それは痰の毒だ、食べまいと言う。聞く人は大いに笑い、ただ今首を刎ねられる人が毒を断つとはおかしいと言ったのを、三成は聞いて、おまえたちのような者の心にはもっともだ。大義を思う者は、たとえ首を刎ねられる朝までも、命を大切にして、なんとか本意を達しようと思うものだと言われた。やがて六条河原に行ったが、顔色は平生のようで、死に就いたという。 三成は、五奉行の一人である。勇智兼備の聞こえあり、世は賞美した。諸大名の取次ぎ、天下の法政をつかさどったので、威権は赫奕として、肩を比べる人がなかった。そうであるから、佐和山落城の後は、さぞ華麗であろうと人々は思ったのに、はからずも、居所はみな荒壁で上塗りしたところはなく、屋内は多く板張りのままで、居館の障子や襖は反古紙を用い、庭にも樹木などを植える凝りようはなく、手水鉢などは粗末な石のさまであったので、皆案外であった。また城中を改めたところ、金銀は少しもなかったという。 徳川光圀は言った。三成は悪くない者である。人は各々その主のためにするという義で、事を行う者は、敵であっても憎んではならない。君臣ともによくよく心得るべきことである、と。
解説

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