名将言行録 / 『名将言行録』石田三成 荻葭の運上と軍役
○秀吉、中國三ヶ國の主となりし時、家臣に普く加增を賜はる、時に三成にも五百石の新恩を賜ひ、且つ汝望む所あらば申すべしと言はれければ、三成、宇治、淀の兩岸に生ずる荻、葭年年繁茂致し候へ共、土民之を盜み取候、若し之を賜はらんには、今賜はる所の五百石を返上し、別に一萬石の軍賦を辨さんと申ければ、秀吉之を許されたり。三成大に喜び沿川數十里の民に命じ、町毎に、價錢幾くと定め、之を刈取らしむ。此頃信長、丹波の波多野右衞門太夫秀治を攻められし時、秀吉を以て先鋒の大將と定めらる。時に三成は團扇九曜に、金の吹貫付たる旗を眞先に持たせ、武具、馬具、美麗によろひたる武者、金の吹貫皆一樣に腰印として數百騎纏ひ、隊後より靜々と押來る。秀吉怪み、使を馳せ之を問ふに、三成なり、秀吉、儕は宇治、淀川の運上萬石に及ぶ故、今度の軍役勤むるなりと思はれ、深く三成が才略を感ぜられけり。
新字:○秀吉、中国三ヶ国の主となりし時、家臣に普く加增を賜はる、時に三成にも五百石の新恩を賜ひ、且つ汝望む所あらば申すべしと言はれければ、三成、宇治、淀の両岸に生ずる荻、葭年年繁茂致し候へ共、土民之を盗み取候、若し之を賜はらんには、今賜はる所の五百石を返上し、別に一万石の軍賦を弁さんと申ければ、秀吉之を許されたり。三成大に喜び沿川数十里の民に命じ、町毎に、価銭幾くと定め、之を刈取らしむ。此頃信長、丹波の波多野右衛門太夫秀治を攻められし時、秀吉を以て先鋒の大将と定めらる。時に三成は団扇九曜に、金の吹貫付たる旗を真先に持たせ、武具、馬具、美麗によろひたる武者、金の吹貫皆一様に腰印として数百騎纏ひ、隊後より静々と押来る。秀吉怪み、使を馳せ之を問ふに、三成なり、秀吉、儕は宇治、淀川の運上万石に及ぶ故、今度の軍役勤むるなりと思はれ、深く三成が才略を感ぜられけり。
書き下し
○秀吉、中國三ヶ國の主となりし時、家臣に普く加增を賜はる、時に三成にも五百石の新恩を賜ひ、且つ汝望む所あらば申すべしと言はれければ、三成、宇治、淀の兩岸に生ずる荻、葭年年繁茂致し候へ共、土民之を盜み取候、若し之を賜はらんには、今賜はる所の五百石を返上し、別に一萬石の軍賦を辨さんと申ければ、秀吉之を許されたり。三成大に喜び沿川數十里の民に命じ、町毎に、價錢幾くと定め、之を刈取らしむ。此頃信長、丹波の波多野右衞門太夫秀治を攻められし時、秀吉を以て先鋒の大將と定めらる。時に三成は團扇九曜に、金の吹貫付たる旗を眞先に持たせ、武具、馬具、美麗によろひたる武者、金の吹貫皆一樣に腰印として數百騎纏ひ、隊後より靜々と押來る。秀吉怪み、使を馳せ之を問ふに、三成なり、秀吉、儕は宇治、淀川の運上萬石に及ぶ故、今度の軍役勤むるなりと思はれ、深く三成が才略を感ぜられけり。
現代語訳
秀吉が中国三か国の主となった時、家臣に広く加増を与えた。時に三成にも五百石の新恩を賜り、かつ、おまえに望むところがあれば申せと言われたので、三成は、宇治、淀の両岸に生える荻や葭が、毎年繁茂しますが、土民がこれを盗み取っております。もしこれを賜るなら、今賜る五百石を返上し、別に一万石の軍役を弁じましょうと申すと、秀吉はこれを許した。三成は大いに喜び、沿川数十里の民に命じ、町ごとに価銭をいくらと定めて、これを刈り取らせた。このころ信長が、丹波の波多野右衛門太夫秀治を攻められた時、秀吉を先鋒の大将と定められた。その時、三成は団扇九曜の紋に金の吹貫を付けた旗を真っ先に持たせ、武具、馬具を美麗に装った武者、金の吹貫を皆一様に腰印として数百騎を従え、隊の後ろから静かに押して来た。秀吉は怪しみ、使いを馳せて問わせると、三成であった。秀吉は、おまえは宇治、淀川の運上が万石に及ぶので、今度の軍役を勤めるのだなと思い、深く三成の才略に感じられた。
解説

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