名将言行録 / 『名将言行録』加藤清正 金の熨斗と一番功の裁き
○清正の士或時の城乘に、金の熨斗付の大小を差して、塀を越ゆるに後ろより尻を押上る者あり、我を押上るよと思ひ乘上り、後に見れば熨斗付の鞘を切廻はして、金を取られたり。人皆油斷なりと沙汰す。清正聞て、城乘を心として、後を顧みざるは勇士なり、但し金の熨斗付を差したるは、若輩の故なり、戰場へ左樣の美麗なるものをば用ひざることを知らずと覺ゆ、末頼母敷若者なりと言はれけり。又或陣に野陣にて貴辨當を使ふに、或小姓腰兵糧を帶びず、其伯父燒食を與ふ、清正之を見て、少年の華奢風流も時に寄れり、陣中にて兵糧を持ざるは、武備に怠れり、過代に馬を取上べしとて、乘馬を取上げ、伯父若年の者に心を付けて、敎ふべきに、武備勵ましめざる科愆に同じとて、是も馬を取上られたり。 ○清正、宇多尾の城を攻し時、武功の次第を分けしに、庄林隼人一番、森本義太夫二番と定めらる。時に、義太夫立腹して、庄林は首一つも取らず、某は二つを得たり、然るに心得ぬ御計らひ哉と呟き、斯る目の明かざる主人に仕へて益なし、と旣に其座を立たんとす。時に清正之を見て、庄林は首一つも得ざれども、某が箭先を助けて、自分の功を立てず、其方は首二つを得たれども、某が見るを待て、後に捨たり、是自分の功を立て、忠を第二とするものなり、爰を以て庄林第一にして、汝を第二に稱するものなりと言はれしかば、儀太夫義理に服しけり。
新字:○清正の士或時の城乗に、金の熨斗付の大小を差して、塀を越ゆるに後ろより尻を押上る者あり、我を押上るよと思ひ乗上り、後に見れば熨斗付の鞘を切廻はして、金を取られたり。人皆油断なりと沙汰す。清正聞て、城乗を心として、後を顧みざるは勇士なり、但し金の熨斗付を差したるは、若輩の故なり、戦場へ左様の美麗なるものをば用ひざることを知らずと覚ゆ、末頼母敷若者なりと言はれけり。又或陣に野陣にて貴弁当を使ふに、或小姓腰兵糧を帯びず、其伯父焼食を与ふ、清正之を見て、少年の華奢風流も時に寄れり、陣中にて兵糧を持ざるは、武備に怠れり、過代に馬を取上べしとて、乗馬を取上げ、伯父若年の者に心を付けて、教ふべきに、武備励ましめざる科愆に同じとて、是も馬を取上られたり。 ○清正、宇多尾の城を攻し時、武功の次第を分けしに、庄林隼人一番、森本義太夫二番と定めらる。時に、義太夫立腹して、庄林は首一つも取らず、某は二つを得たり、然るに心得ぬ御計らひ哉と呟き、斯る目の明かざる主人に仕へて益なし、と既に其座を立たんとす。時に清正之を見て、庄林は首一つも得ざれども、某が箭先を助けて、自分の功を立てず、其方は首二つを得たれども、某が見るを待て、後に捨たり、是自分の功を立て、忠を第二とするものなり、爰を以て庄林第一にして、汝を第二に称するものなりと言はれしかば、儀太夫義理に服しけり。
書き下し
○清正の士或時の城乘に、金の熨斗付の大小を差して、塀を越ゆるに後ろより尻を押上る者あり、我を押上るよと思ひ乘上り、後に見れば熨斗付の鞘を切廻はして、金を取られたり。人皆油斷なりと沙汰す。清正聞て、城乘を心として、後を顧みざるは勇士なり、但し金の熨斗付を差したるは、若輩の故なり、戰場へ左樣の美麗なるものをば用ひざることを知らずと覺ゆ、末頼母敷若者なりと言はれけり。又或陣に野陣にて貴辨當を使ふに、或小姓腰兵糧を帶びず、其伯父燒食を與ふ、清正之を見て、少年の華奢風流も時に寄れり、陣中にて兵糧を持ざるは、武備に怠れり、過代に馬を取上べしとて、乘馬を取上げ、伯父若年の者に心を付けて、敎ふべきに、武備勵ましめざる科愆に同じとて、是も馬を取上られたり。 ○清正、宇多尾の城を攻し時、武功の次第を分けしに、庄林隼人一番、森本義太夫二番と定めらる。時に、義太夫立腹して、庄林は首一つも取らず、某は二つを得たり、然るに心得ぬ御計らひ哉と呟き、斯る目の明かざる主人に仕へて益なし、と旣に其座を立たんとす。時に清正之を見て、庄林は首一つも得ざれども、某が箭先を助けて、自分の功を立てず、其方は首二つを得たれども、某が見るを待て、後に捨たり、是自分の功を立て、忠を第二とするものなり、爰を以て庄林第一にして、汝を第二に稱するものなりと言はれしかば、儀太夫義理に服しけり。
現代語訳
清正の家臣がある時、城乗りの際に金の熨斗付の大小を差して塀を越えようとすると、後ろから尻を押し上げる者があった。自分を押し上げてくれるのだと思って乗り越え、後で見ると、熨斗付の鞘が切り取られ、金を盗まれていた。人は皆、油断だと噂した。清正はこれを聞いて、城乗りに心を向けて後ろを顧みないのは勇士である。ただ、金の熨斗付を差していたのは若さゆえだ。戦場へそのような美麗なものを用いないことを知らないのだろう。先が頼もしい若者だと言った。また、ある陣の野営で貴人の弁当を使う時、ある小姓が腰兵糧を身につけておらず、その伯父が焼飯を与えた。清正はこれを見て、少年の華奢や風流もときによる、陣中で兵糧を持たないのは武備を怠っている、罰として馬を取り上げよと言って乗馬を取り上げた。伯父も、若い者に気を付けて教えるべきなのに武備を励まさせなかった咎は同じだと言って、これも馬を取り上げられた。 清正が宇多尾の城を攻めた時、武功の順位を分けたところ、庄林隼人を一番、森本義太夫を二番と定めた。その時、義太夫は腹を立て、庄林は首一つも取らず、自分は二つ取ったのに、納得のいかない裁きだとつぶやき、こんな目の利かない主人に仕えても益はないと言って、すでにその座を立とうとした。清正はこれを見て、庄林は首一つも取らなかったが、私の矢先を助けて自分の功を立てなかった。その方は首を二つ取ったが、私が見るのを待って、後で捨てた。これは自分の功を立て、忠を二の次にするものだ。それゆえ庄林を第一とし、汝を第二と称するのだと言ったので、義太夫は道理に服した。
解説

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