名将言行録 / 『名将言行録』加藤清正 恩賜に涙する家臣
今夜は大儀なり、疾々歸りて、出來助に、此由申聞かせ、其上相應に取立遣はすべし、然し傍輩の姤もあるなれば、高知は無用たるべし、且つ其方家內の者何事やらんと氣遣て待居るべければ、疾々酒をあつくして、飲み歸れと、懇に申され、麥の干鹽の肴にて酒賜はりしかば、庄林は唯主の恩に感じ、思はず淚を濺ぎ、殿にも先づ御休み候へと申けるにぞ、清正も寢所に入りにける。庄林近習に向て、殿には長御雪隱のことなれば、風疾に侵され給はぬ樣に、心を付られ候へと申し、家に歸り、出來助を呼出し、清正の恩賜の程を委細に申聞せ、其上六十石に取立て近習に申付しかば、出來助、有難さ骨髓に徹し、是より彌彌忠勤を勵み、度々比類なき働せしとぞ。 ○清正の妻は、家康の養女なり、此腹に男女の子出生ありけれども奧に入りては、常に用心し、少しの間にても、刀を放さず、膝の元にのみ置きしを、皆々不審しける。或時五條の局と曰へる老女、表に御座す時にこそ、御腰物も入申べけれ、奧へ入らせ給ひては、何の御用心も入らぬことなるに、斯く御氣遣の御樣子は、如何なる故にやと申ければ、清正笑て、女の知るべきことにあらず、表には、身に替はり命に代はる家來共多くして、晝夜の守護怠りなく勤番する故、假令裸體にて居たればとて、左のみ恥昂くことはあらじ、奧は女計りのことなれば、斯ぐこそ用心するなれと言はれけり。此事傳聞たる士共、有り難きことに思ひけり。
新字:今夜は大儀なり、疾々帰りて、出来助に、此由申聞かせ、其上相応に取立遣はすべし、然し傍輩の姤もあるなれば、高知は無用たるべし、且つ其方家内の者何事やらんと気遣て待居るべければ、疾々酒をあつくして、飲み帰れと、懇に申され、麦の干塩の肴にて酒賜はりしかば、庄林は唯主の恩に感じ、思はず涙を濺ぎ、殿にも先づ御休み候へと申けるにぞ、清正も寝所に入りにける。庄林近習に向て、殿には長御雪隠のことなれば、風疾に侵され給はぬ様に、心を付られ候へと申し、家に帰り、出来助を呼出し、清正の恩賜の程を委細に申聞せ、其上六十石に取立て近習に申付しかば、出来助、有難さ骨髄に徹し、是より弥弥忠勤を励み、度々比類なき働せしとぞ。 ○清正の妻は、家康の養女なり、此腹に男女の子出生ありけれども奥に入りては、常に用心し、少しの間にても、刀を放さず、膝の元にのみ置きしを、皆々不審しける。或時五条の局と曰へる老女、表に御座す時にこそ、御腰物も入申べけれ、奥へ入らせ給ひては、何の御用心も入らぬことなるに、斯く御気遣の御様子は、如何なる故にやと申ければ、清正笑て、女の知るべきことにあらず、表には、身に替はり命に代はる家来共多くして、昼夜の守護怠りなく勤番する故、仮令裸体にて居たればとて、左のみ恥昂くことはあらじ、奥は女計りのことなれば、斯ぐこそ用心するなれと言はれけり。此事伝聞たる士共、有り難きことに思ひけり。
書き下し
今夜は大儀なり、疾々歸りて、出來助に、此由申聞かせ、其上相應に取立遣はすべし、然し傍輩の姤もあるなれば、高知は無用たるべし、且つ其方家內の者何事やらんと氣遣て待居るべければ、疾々酒をあつくして、飲み歸れと、懇に申され、麥の干鹽の肴にて酒賜はりしかば、庄林は唯主の恩に感じ、思はず淚を濺ぎ、殿にも先づ御休み候へと申けるにぞ、清正も寢所に入りにける。庄林近習に向て、殿には長御雪隱のことなれば、風疾に侵され給はぬ樣に、心を付られ候へと申し、家に歸り、出來助を呼出し、清正の恩賜の程を委細に申聞せ、其上六十石に取立て近習に申付しかば、出來助、有難さ骨髓に徹し、是より彌彌忠勤を勵み、度々比類なき働せしとぞ。 ○清正の妻は、家康の養女なり、此腹に男女の子出生ありけれども奧に入りては、常に用心し、少しの間にても、刀を放さず、膝の元にのみ置きしを、皆々不審しける。或時五條の局と曰へる老女、表に御座す時にこそ、御腰物も入申べけれ、奧へ入らせ給ひては、何の御用心も入らぬことなるに、斯く御氣遣の御樣子は、如何なる故にやと申ければ、清正笑て、女の知るべきことにあらず、表には、身に替はり命に代はる家來共多くして、晝夜の守護怠りなく勤番する故、假令裸體にて居たればとて、左のみ恥昂くことはあらじ、奧は女計りのことなれば、斯ぐこそ用心するなれと言はれけり。此事傳聞たる士共、有り難きことに思ひけり。
現代語訳
今夜は大儀であった。早々に帰って、出来助にこのことを申し聞かせ、そのうえで相応に取り立ててやるがよい。ただし同僚の妬みもあるだろうから、高い知行は無用である。また、おまえの家内の者が何事かと気遣って待っているだろうから、早々に酒を熱くして飲んで帰れ」と、ていねいに申され、麦と干塩の肴で酒を賜りました。庄林はただ主の恩に感じ、思わず涙をそそぎ、「殿にもまず御休みくださいませ」と申しました。清正も寝所に入りました。庄林は近習に向かって、「殿は長雪隠のことですから、風邪に侵されぬように、気をつけられよ」と申し、家に帰り、出来助を呼び出し、清正の恩賜の次第を詳しく申し聞かせ、そのうえ六十石に取り立てて近習を申し付けました。出来助は、ありがたさが骨髄に徹し、これからいよいよ忠勤に励み、たびたび比類ない働きをしたということです。 清正の妻は家康の養女でした。この腹に男女の子が生まれましたが、奥に入っても、常に用心し、少しの間も刀を放さず、膝元にだけ置いていたので、皆が不審に思っていました。あるとき五条の局という老女が、「表にいらっしゃるときにこそ、お腰物も入りましょうが、奥にお入りになっては、何の用心も要らないはずです。このように気遣いのご様子なのは、どのような理由ですか」と申しました。清正は笑って、「女の知るべきことではない。表には、身に替わり命に代わる家来どもが多く、昼夜の守護を怠りなく勤番するから、たとえ裸でいても、さほど恥ずかしいことはあるまい。奥は女ばかりのことだから、このように用心するのだ」と言われました。この事を伝え聞いた士たちは、ありがたいことと思いました。
解説

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名将言行録・『名将言行録』加藤清正 倹約と家康への配慮○清正常に洗濯せし衣類を着し、障子は所々壞れたり所計りを、張替らる。斯る儉約の人なれども、武衞殿浪人の時、合力を庄林隼人に頼みし故、庄林米三百俵遺はさるべくやと申ければ、清正、玄米二千俵遺はすべくと言はれけり。 ○清正嘗て、自ら百姓を指揮し、溝洫を修理せり、時に午刻に及びしかば、何れも中食に就く、中に老農中食の菜に燔鰯を食へる者あり、清正見て汝年は幾くぞと問ひければ、六十有餘と申す。清正、最早六十に及べば、公役にも家僕を出し、身を安佚に爲すべきに、土民の身として、日に魚肉を食ふ、斯く飲食に奢る故、一生體を勞するなり、是口の爲めに、身を苦むるにあらずや、慎むべしと誡められけり。 ○家康、專ら武を偃せ、文を治め、諸大名の武事を講ずることを喜ばず、清正曰く、我深く徳川公の恩を受く、況や公子を以て、女婿と爲す、豈に異心あらんや。然れども、秀頼公、大阪に座まし、吾鎭西に在り、世人疑懼せん、徳川公老いたり、吾其心を安んぜざるべからずと、乃ち歌妓阿國なる者を國に召し、觀棚を造り士庶をして、縱觀せしむ、七日中元士庶に縱し、踏歌せしむ、士庶隊を分ち、演劇す。清正自ら臨觀して、樂みと爲す。又數々散樂を催し、之を視たり。
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名将言行録・『名将言行録』加藤清正 愛宕に祈る忠義と夜の召し○其翌日家康、板倉勝重を召し、昨日清正が虛空に眼を濺ぎし方角を察するに愛宕山に當れり。如何樣宿願のことありと思ふなり、密々に尋ね見よと言はれければ、勝重乃ち手を廻はし、一尋ねたり。然るに、今度秀賴二條の城にて災害なき樣にとて、一七日愛宕山にて護摩を修せしとぞ。家康、殊の外其精忠を感ぜられけり。 ○清正、熊本在城の時、或夜のことにてありしが、雪隱へ行く、小姓共二三人副行て手水所に控居たり。清正何つも雪隱へ行くに、齒の高き足駄をはきて入りしが、今夜頻りに、足駄の音とん〱と踏み鳴らしける故、小姓共何事やらんと、皆々怪み居ける所に、清正失念したることあり、思ひ出したり、早く庄林隼人を呼びに遣はすべしと言ふ。之に依り庄林へ使を立るに、最早半夜過ぎのことにて庄林も此間より風疾にて取臥し居たりしが、使と共に打連れ亂髮ながら登城せり。清正は、元來痔疾にて、長雪隱にてありし故、未だ雪隱より出ざりし所に庄林參上せりと申す。清正雪隱の中より、汝を呼びしは別儀にあらず、其方の家來に年頃二十歲計りの、何つも茜染の袖なしの單羽織を着たる者あり、彼名は何にと申すと尋ねしかば、庄林、彼は出來助と申て鈍なる者に候へば、草履取に召使候、中々働ある者にて候と申す。清正去ればとよ、其事なり、何つぞや、川尻にて芝居能のありし時、見物に行きしが、其方をも連れ行きしなり、時に某、出來助が小便するを見れば、肌に鎖帷子を着、臑當を掛けたり、今天下漸々治まり、人皆平服になり、兵具の用意も荒增なる所に、下郎には、珍敷心掛者と思ひし故、尋ねんと思ふ中に、物紛にて打延びたりしが、今夜此所にて、能の足踏をして見たるにて、彼川尻のことを思ひ出して、中々尺寸の間も延ばし置くべきにあらず、彼に褒美してこそ、武備の道も達すべきと思ふなれ。熟々思ふに人の死生、世の治亂、身の盛衰、天地の變、計り難きものなり。斯く思ひ居る中に、我死するか、汝死するかするならば、一人闕けても、此事無にならんこと殘念なりと、不圖思ひしより、深更なるが、其方を呼び寄せたり。
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名将言行録・『名将言行録』加藤清正 金の熨斗と一番功の裁き○清正の士或時の城乘に、金の熨斗付の大小を差して、塀を越ゆるに後ろより尻を押上る者あり、我を押上るよと思ひ乘上り、後に見れば熨斗付の鞘を切廻はして、金を取られたり。人皆油斷なりと沙汰す。清正聞て、城乘を心として、後を顧みざるは勇士なり、但し金の熨斗付を差したるは、若輩の故なり、戰場へ左樣の美麗なるものをば用ひざることを知らずと覺ゆ、末頼母敷若者なりと言はれけり。又或陣に野陣にて貴辨當を使ふに、或小姓腰兵糧を帶びず、其伯父燒食を與ふ、清正之を見て、少年の華奢風流も時に寄れり、陣中にて兵糧を持ざるは、武備に怠れり、過代に馬を取上べしとて、乘馬を取上げ、伯父若年の者に心を付けて、敎ふべきに、武備勵ましめざる科愆に同じとて、是も馬を取上られたり。 ○清正、宇多尾の城を攻し時、武功の次第を分けしに、庄林隼人一番、森本義太夫二番と定めらる。時に、義太夫立腹して、庄林は首一つも取らず、某は二つを得たり、然るに心得ぬ御計らひ哉と呟き、斯る目の明かざる主人に仕へて益なし、と旣に其座を立たんとす。時に清正之を見て、庄林は首一つも得ざれども、某が箭先を助けて、自分の功を立てず、其方は首二つを得たれども、某が見るを待て、後に捨たり、是自分の功を立て、忠を第二とするものなり、爰を以て庄林第一にして、汝を第二に稱するものなりと言はれしかば、儀太夫義理に服しけり。
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名将言行録・『名将言行録』加藤清正 譲る心と先に立つ勇彈正右衞門兵衞清忠の子、虎之助と稱す。後從四位下に敍し侍從兼肥後守に任ず。肥後七十二萬石に封ぜられ、熊本城に住す。慶長十六年六月二十四日卒、年五十一。 ○天正九年、秀吉因幡、鳥取を攻めし時、蜂須賀家政を遣はし形勢を覘はしむ。清正之に從ふ、清正曰く、城東の林莽恐くは伏兵あらん、君何ぞ衆を率ゐて往かざる、家政從はず、旣にして伏兵起ろ、清正弓を腰より取り、左右馳射し、敵進むこと能はず、乃ち馬より下り刀を揮ひ、家政と奮戰して、各首二級を獲て還る。秀吉喜びて曰く、清正少なりと雖も、懇懃に、氣雄なり、家政殆んど及ばずと、黃金一鎰を賜はり、秩百石を加ふ。 ○十一年、秀吉、瀧川一益を攻め、龜山を圍む、士卒爭ひ城に登る、城兵近江新七、士衆を勵まし、銃を發し拒戰す。木村十三郎鎗を擧て之を刺んとす、清正旁より馳至り、新七の肩を縱す、十三郎大に怒り其腹を貫く、新七斃る、清正顧みて、我先きに刺すと雖も、之を斃す者は予なりと言て其頭を取らず、秀吉其能く讓るを嘉みし、各賞あり。
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名将言行録・『名将言行録』加藤清正 使うところは器に従う○清正の中備吉村又市、釜山海に於て群賊と戰ひ、旣に日暮に及ぶ。清正人數を引揚げずば危かるべし、誰をか遣はすべしと、其邊を見廻はすに、庄林隼人遙の末に屆たるを呼び、之に人數を引揚げしむ。隼人承はり、采幣取つて兩陣の間に乘入り、難なく引揚げて歸る。此時森本儀太夫傍に在りけるが涙を流して、怒れる色あり。清正其體を怪みて故を問ふ。森本、君臣を見給ふこと庄林に若かず、是武士の恥辱に候、庄林と、臣と同く君に從て白刄を踏みしが、庄林に劣らざることは君の眼前に御覽ぜし所なり。庄林、君の傍に在りて、臣居らずば恨み申べきことなし。臣近く謁在りしに、御詞も掛られず、遙の末なる庄林を召て、命ぜられしこと、年來も斯くこそ優劣を分ち給ひしことを、疾く知らざるも、愚昧の至りに候と申ければ、清正笑て、汝等は均く予が股肱腹心なり。使ふ所は其器に從ふのみ。今汝を遣はさば、必ず敵に馳合て力鬪すべき勇敢の氣あり。左すれば人數を害ふべし。庄林が如きは、今見よ、難なく引揚げて歸るべし。若し剛敵堅陣ならば、汝に命じて之に當らしめん、倍々の兵なりとも恐るゝに足らず。群を拔き衆を越え、擊て之を敗ること、別人は及ぶべからず。是汝が長ずる所なりと言はれければ、森本、君さ思召候へば面目あるに似たりとて、止みぬ。
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名将言行録・『名将言行録』加藤清正 だまされた飯田直景○飯田覺兵衞直景は、武功の士なり、初めは角と云ふ字なりしに、秀吉、覺の字に書替させられし程の者なり、直景曰く、我一生主計頭にだまされたり、初めて軍に出て功名しける時、朋輩多く鳥銃に中りて死したり、危きことよ、早や是までにて、武士の仕へは致す間敷と思ひたるに、歸ろや否、主計頭、時を移さず、今日の働、神妙言はん方なしとて、刀を賜はりき。斯の如く毎度其場を去つては後悔すれども、主計頭、其時を移さず陣羽織、或は感狀を與へ、人々も皆羨みて褒め立たりし故、夫に牽れて止むことを得ず、麾を取り、侍大將と言はれしは、主計頭にだまされて、本意を失ひたるなりと。加藤氏亡て後、京に引籠り再び仕を求めずして居たる時、語りけるとぞ。 ○清正の臣、木村又藏、膂力絶倫なり。大阪の輔臣、秀頼の爲めに一勇夫を選み、之が師と爲さんと欲す。衆又藏を推す、又藏之を聞て曰く、吾生平誓ひ、二君に仕へず、征韓の行、母氏と訣る、亦此言を以て其意を安んず、今我君に後る、而て東大阪に食す、是二君に事るなりと、肚を割て死す。聞く者又藏の志を哀み、而て清正の善く士を養ふを偉なりとす。 ○加藤氏亡びて後ち、熊本は細川氏の治城たり。往年、城墻風雨の爲めに壞らる、將に其柱を易んとす、其柱に隱々に文字あり曰く、是良材得易からざるなり、城外某澤中に沈め置けり。後世之を易る者は取りて用ふべしとなり、依て人を遣はし、其澤を探るに、卽ち材木果して山積其深慮斯の如し。