名将言行録 / 『名将言行録』加藤清正 律義者に武辺者が多い
○清正、剛の者を得んと欲し、一生の間、目利に心を盡くし、人相までを稽古せしかども、其術を得ず、唯律義者に武邊者多しと言はれけり。 ○清正より搆はれたる浪人、詫言を谷出羽守衞友を頼み、清正へ申入るとて、細川忠興も出合たり。偖挨拶終て後、衞友、彼浪人の搆赦免の儀申出しければ、清正あの如き馬鹿者は捨置れ候へかしと、少々言荒く申せり、衞友短氣なる生質故、大に怒てするく〱と、清正の傍へ寄りて膝を押へ、脇差に手を掛け、如何に某を誰にて候と存ぜられ、唯今の惡言を申され候やと言ひし時、清正去らぬ體にて、又羽州癖が出候、越州少々異見致され然るべくと、靜に言はれけり。又清正の家臣久三郎と曰へる者、或時清正側へ忍び寄り、紐付九尺計り抛げろ、清正仰に倒れて、我等が內冑を見て、久三郎阿房すると言て、笑はれしとぞ。
新字:○清正、剛の者を得んと欲し、一生の間、目利に心を尽くし、人相までを稽古せしかども、其術を得ず、唯律義者に武辺者多しと言はれけり。 ○清正より搆はれたる浪人、詫言を谷出羽守衛友を頼み、清正へ申入るとて、細川忠興も出合たり。偖挨拶終て後、衛友、彼浪人の搆赦免の儀申出しければ、清正あの如き馬鹿者は捨置れ候へかしと、少々言荒く申せり、衛友短気なる生質故、大に怒てするく〱と、清正の傍へ寄りて膝を押へ、脇差に手を掛け、如何に某を誰にて候と存ぜられ、唯今の悪言を申され候やと言ひし時、清正去らぬ体にて、又羽州癖が出候、越州少々異見致され然るべくと、静に言はれけり。又清正の家臣久三郎と曰へる者、或時清正側へ忍び寄り、紐付九尺計り抛げろ、清正仰に倒れて、我等が内冑を見て、久三郎阿房すると言て、笑はれしとぞ。
書き下し
○清正、剛の者を得んと欲し、一生の間、目利に心を盡くし、人相までを稽古せしかども、其術を得ず、唯律義者に武邊者多しと言はれけり。 ○清正より搆はれたる浪人、詫言を谷出羽守衞友を頼み、清正へ申入るとて、細川忠興も出合たり。偖挨拶終て後、衞友、彼浪人の搆赦免の儀申出しければ、清正あの如き馬鹿者は捨置れ候へかしと、少々言荒く申せり、衞友短氣なる生質故、大に怒てするく〱と、清正の傍へ寄りて膝を押へ、脇差に手を掛け、如何に某を誰にて候と存ぜられ、唯今の惡言を申され候やと言ひし時、清正去らぬ體にて、又羽州癖が出候、越州少々異見致され然るべくと、靜に言はれけり。又清正の家臣久三郎と曰へる者、或時清正側へ忍び寄り、紐付九尺計り抛げろ、清正仰に倒れて、我等が內冑を見て、久三郎阿房すると言て、笑はれしとぞ。
現代語訳
清正は、剛の者を得ようと、一生の間、目利きに心を尽くし、人相まで稽古しましたが、その術を得られず、ただ「律義者に武辺者が多い」と言われました。 清正から構いを受けた浪人が、詫びを谷出羽守衛友に頼み、清正へ申し入れるというので、細川忠興も同席しました。挨拶が終わった後、衛友が、その浪人の構いの赦免のことを申し出ると、清正は、「あのような馬鹿者は捨て置かれるがよい」と、少し言い荒く申しました。衛友は短気な性分で、大いに怒って、するすると清正の傍らへ寄り、膝を押さえ、脇差に手を掛け、「いかに、それがしを誰とお思いになり、ただ今の悪言を申されるのか」と言いました。このとき清正は何げない様子で、「また羽州の癖が出ました。越州、少し意見をなさるのがよいでしょう」と静かに言われました。また、清正の家臣の久三郎という者が、あるとき清正の傍らへ忍び寄り、紐付きの九尺ばかりのものを投げかけました。清正は仰向けに倒れて、自分の内冑を見て、「久三郎、馬鹿をする」と言って笑われたということです。
解説

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