名将言行録 / 『名将言行録』加藤清正 譲る心と先に立つ勇
彈正右衞門兵衞清忠の子、虎之助と稱す。後從四位下に敍し侍從兼肥後守に任ず。肥後七十二萬石に封ぜられ、熊本城に住す。慶長十六年六月二十四日卒、年五十一。 ○天正九年、秀吉因幡、鳥取を攻めし時、蜂須賀家政を遣はし形勢を覘はしむ。清正之に從ふ、清正曰く、城東の林莽恐くは伏兵あらん、君何ぞ衆を率ゐて往かざる、家政從はず、旣にして伏兵起ろ、清正弓を腰より取り、左右馳射し、敵進むこと能はず、乃ち馬より下り刀を揮ひ、家政と奮戰して、各首二級を獲て還る。秀吉喜びて曰く、清正少なりと雖も、懇懃に、氣雄なり、家政殆んど及ばずと、黃金一鎰を賜はり、秩百石を加ふ。 ○十一年、秀吉、瀧川一益を攻め、龜山を圍む、士卒爭ひ城に登る、城兵近江新七、士衆を勵まし、銃を發し拒戰す。木村十三郎鎗を擧て之を刺んとす、清正旁より馳至り、新七の肩を縱す、十三郎大に怒り其腹を貫く、新七斃る、清正顧みて、我先きに刺すと雖も、之を斃す者は予なりと言て其頭を取らず、秀吉其能く讓るを嘉みし、各賞あり。
新字:弾正右衛門兵衛清忠の子、虎之助と称す。後従四位下に叙し侍従兼肥後守に任ず。肥後七十二万石に封ぜられ、熊本城に住す。慶長十六年六月二十四日卒、年五十一。 ○天正九年、秀吉因幡、鳥取を攻めし時、蜂須賀家政を遣はし形勢を覘はしむ。清正之に従ふ、清正曰く、城東の林莽恐くは伏兵あらん、君何ぞ衆を率ゐて往かざる、家政従はず、既にして伏兵起ろ、清正弓を腰より取り、左右馳射し、敵進むこと能はず、乃ち馬より下り刀を揮ひ、家政と奮戦して、各首二級を獲て還る。秀吉喜びて曰く、清正少なりと雖も、懇懃に、気雄なり、家政殆んど及ばずと、黄金一鎰を賜はり、秩百石を加ふ。 ○十一年、秀吉、滝川一益を攻め、亀山を囲む、士卒争ひ城に登る、城兵近江新七、士衆を励まし、銃を発し拒戦す。木村十三郎鎗を挙て之を刺んとす、清正旁より馳至り、新七の肩を縦す、十三郎大に怒り其腹を貫く、新七斃る、清正顧みて、我先きに刺すと雖も、之を斃す者は予なりと言て其頭を取らず、秀吉其能く譲るを嘉みし、各賞あり。
書き下し
彈正右衞門兵衞清忠の子、虎之助と稱す。後從四位下に敍し侍從兼肥後守に任ず。肥後七十二萬石に封ぜられ、熊本城に住す。慶長十六年六月二十四日卒、年五十一。 ○天正九年、秀吉因幡、鳥取を攻めし時、蜂須賀家政を遣はし形勢を覘はしむ。清正之に從ふ、清正曰く、城東の林莽恐くは伏兵あらん、君何ぞ衆を率ゐて往かざる、家政從はず、旣にして伏兵起ろ、清正弓を腰より取り、左右馳射し、敵進むこと能はず、乃ち馬より下り刀を揮ひ、家政と奮戰して、各首二級を獲て還る。秀吉喜びて曰く、清正少なりと雖も、懇懃に、氣雄なり、家政殆んど及ばずと、黃金一鎰を賜はり、秩百石を加ふ。 ○十一年、秀吉、瀧川一益を攻め、龜山を圍む、士卒爭ひ城に登る、城兵近江新七、士衆を勵まし、銃を發し拒戰す。木村十三郎鎗を擧て之を刺んとす、清正旁より馳至り、新七の肩を縱す、十三郎大に怒り其腹を貫く、新七斃る、清正顧みて、我先きに刺すと雖も、之を斃す者は予なりと言て其頭を取らず、秀吉其能く讓るを嘉みし、各賞あり。
現代語訳
弾正右衛門兵衛清忠の子で、虎之助と称しました。のちに従四位下に叙せられ、侍従兼肥後守に任ぜられました。肥後七十二万石に封ぜられ、熊本城に住みました。慶長十六年六月二十四日に亡くなり、年は五十一でした。 天正九年、秀吉が因幡の鳥取を攻めたとき、蜂須賀家政を遣わして形勢を探らせました。清正はこれに従い、「城の東の林や草むらに、おそらく伏兵がいるでしょう。あなたはなぜ兵を率いて行かないのですか」と言いましたが、家政は従いません。やがて伏兵が起こると、清正は弓を腰から取って左右に馳せ射て、敵を進ませず、すぐに馬から下りて刀を振るい、家政と奮戦して、それぞれ首二つを獲て帰りました。秀吉は喜んで、「清正は小さいけれども、ていねいで気概が雄々しい。家政はほとんど及ばない」と言い、黄金一鎰を賜り、禄百石を加えました。 十一年、秀吉が滝川一益を攻めて亀山を囲みました。士卒は争って城に登り、城兵の近江新七が兵を励まし、鉄砲を放って防ぎ戦いました。木村十三郎が槍を挙げて新七を刺そうとすると、清正が傍らから駆けつけ、新七の肩を突き放しました。十三郎は大いに怒り、その腹を貫いて、新七は倒れました。清正は振り返り、「私が先に刺したが、倒したのはあなただ」と言って、その首を取りませんでした。秀吉はそのよく譲るのをよしとし、それぞれに賞がありました。
解説

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