名将言行録 / 『名将言行録』加藤清正 並木と栗に託した将来
○清正、肥後白川に一寺を創立し、泰勝院と曰ふ。門前の道一里の間、眞直にして、道幅二十間、雙方に櫻を植られたり。木と木との間も、二十間なり。道幅も木と木との間も、廣過ぎたりと、人皆言たりしが櫻成木の後は、道は五六間と相見え、櫻も枝繁りて、間廣く見えざりけり。又寺の後には、栗の木を植さしむ、後世にならば、餘の木は薪に伐るべし、栗は其實を取り、渡世の助となる故に、伐り絶やすこと有間敷との慮なり。 ○加藤家へ奉公望みの浪人三人あり、一人は仙石角右衞門と曰ふ、二人は其名を失せり、仙石は立身の望なり、一人は屢々の用に立ちし者なれば、今は年老て何の望みもなし小扶持にて心安く一生を送り度とのことなり、又一人は若き者なり、如何樣にも用に立つべき盤に諸人見立たり。三人共に家老庄林隼人を頼み、一々に清正に達しければ、清正之を聞き、仙石は立身の望み、侍の本意なれば、召抱ゆべし、又年寄浪人は、數度用に立ちしこと、我等能く知りたり、併し、今生の望みなく、後生一遍にて、心安く茶を飲み、當家を死所と定めたる義殊の外くつろぎたる者なり、人は死するまで、望みある者は頼母し、何んの望みもなき者は、抱へ置ても入らざるものなれども、若者の見せしめに抱へ置くべし、又一人のことは、其方、申分には、不似合沙汰の限りなり、其故は用にも立つべき由、諸人見立てたる故、抱置くべしと言はゞ、我家の若者共は、皆用に立間敷者なりと見立てたるに似たり、去らば當家の若者共は、其方を恨むることあるべし、我は我家中の若者共は悉く用に立つべき者と存ずるなり、若き時用に立たる者の年衰へたる者にも、高知を吳れて馳走することは、若者共に見及び聞及びて、武道を勵まさん爲めなり。其方杯は、一言も大事なるを、能く分別せよと言はれければ、隼人感服せり。
新字:○清正、肥後白川に一寺を創立し、泰勝院と曰ふ。門前の道一里の間、真直にして、道幅二十間、双方に桜を植られたり。木と木との間も、二十間なり。道幅も木と木との間も、広過ぎたりと、人皆言たりしが桜成木の後は、道は五六間と相見え、桜も枝繁りて、間広く見えざりけり。又寺の後には、栗の木を植さしむ、後世にならば、余の木は薪に伐るべし、栗は其実を取り、渡世の助となる故に、伐り絶やすこと有間敷との慮なり。 ○加藤家へ奉公望みの浪人三人あり、一人は仙石角右衛門と曰ふ、二人は其名を失せり、仙石は立身の望なり、一人は屡々の用に立ちし者なれば、今は年老て何の望みもなし小扶持にて心安く一生を送り度とのことなり、又一人は若き者なり、如何様にも用に立つべき盤に諸人見立たり。三人共に家老庄林隼人を頼み、一々に清正に達しければ、清正之を聞き、仙石は立身の望み、侍の本意なれば、召抱ゆべし、又年寄浪人は、数度用に立ちしこと、我等能く知りたり、併し、今生の望みなく、後生一遍にて、心安く茶を飲み、当家を死所と定めたる義殊の外くつろぎたる者なり、人は死するまで、望みある者は頼母し、何んの望みもなき者は、抱へ置ても入らざるものなれども、若者の見せしめに抱へ置くべし、又一人のことは、其方、申分には、不似合沙汰の限りなり、其故は用にも立つべき由、諸人見立てたる故、抱置くべしと言はゞ、我家の若者共は、皆用に立間敷者なりと見立てたるに似たり、去らば当家の若者共は、其方を恨むることあるべし、我は我家中の若者共は悉く用に立つべき者と存ずるなり、若き時用に立たる者の年衰へたる者にも、高知を呉れて馳走することは、若者共に見及び聞及びて、武道を励まさん為めなり。其方杯は、一言も大事なるを、能く分別せよと言はれければ、隼人感服せり。
書き下し
○清正、肥後白川に一寺を創立し、泰勝院と曰ふ。門前の道一里の間、眞直にして、道幅二十間、雙方に櫻を植られたり。木と木との間も、二十間なり。道幅も木と木との間も、廣過ぎたりと、人皆言たりしが櫻成木の後は、道は五六間と相見え、櫻も枝繁りて、間廣く見えざりけり。又寺の後には、栗の木を植さしむ、後世にならば、餘の木は薪に伐るべし、栗は其實を取り、渡世の助となる故に、伐り絶やすこと有間敷との慮なり。 ○加藤家へ奉公望みの浪人三人あり、一人は仙石角右衞門と曰ふ、二人は其名を失せり、仙石は立身の望なり、一人は屢々の用に立ちし者なれば、今は年老て何の望みもなし小扶持にて心安く一生を送り度とのことなり、又一人は若き者なり、如何樣にも用に立つべき盤に諸人見立たり。三人共に家老庄林隼人を頼み、一々に清正に達しければ、清正之を聞き、仙石は立身の望み、侍の本意なれば、召抱ゆべし、又年寄浪人は、數度用に立ちしこと、我等能く知りたり、併し、今生の望みなく、後生一遍にて、心安く茶を飲み、當家を死所と定めたる義殊の外くつろぎたる者なり、人は死するまで、望みある者は頼母し、何んの望みもなき者は、抱へ置ても入らざるものなれども、若者の見せしめに抱へ置くべし、又一人のことは、其方、申分には、不似合沙汰の限りなり、其故は用にも立つべき由、諸人見立てたる故、抱置くべしと言はゞ、我家の若者共は、皆用に立間敷者なりと見立てたるに似たり、去らば當家の若者共は、其方を恨むることあるべし、我は我家中の若者共は悉く用に立つべき者と存ずるなり、若き時用に立たる者の年衰へたる者にも、高知を吳れて馳走することは、若者共に見及び聞及びて、武道を勵まさん爲めなり。其方杯は、一言も大事なるを、能く分別せよと言はれければ、隼人感服せり。
現代語訳
清正は肥後の白川に一寺を創立し、泰勝院といいました。門前の道は一里の間、まっすぐで、道幅は二十間、両側に桜を植えられました。木と木との間も、二十間でした。道幅も木の間も、広すぎると人は皆言いましたが、桜が成木になった後は、道は五、六間と見え、桜も枝が繁って、間が広くは見えませんでした。また寺の後ろには栗の木を植えさせました。後世になれば、他の木は薪に切るだろうが、栗はその実を取り、暮らしの助けとなるので、切り絶やすことはあるまいという配慮でした。 加藤家へ奉公を望む浪人が三人ありました。一人は仙石角右衛門といい、二人はその名が失われました。仙石は立身の望みで、一人はしばしば役に立った者で、今は年老いて何の望みもなく、小禄で心安く一生を送りたいとのこと、もう一人は若者で、どのようにも役に立つであろうと諸人が見立てた者でした。三人とも家老の庄林隼人を頼み、一人ずつ清正に取り次ぐと、清正はこれを聞き、「仙石は立身の望みがあり、侍の本意だから召し抱えよう。また年寄りの浪人は、何度も役に立ったことを私はよく知っている。しかし今生の望みがなく、後生一遍で、心安く茶を飲み、当家を死に場所と定めた気持ちは、ことのほかくつろいだ者である。人は死ぬまで望みのある者は頼もしく、何の望みもない者は、抱えておいても要らないものだが、若者の見せしめとして抱えておこう。また一人のことは、そなたの申し分には、似つかわしくない沙汰の限りである。なぜなら、役に立つであろうと諸人が見立てているから抱えようと言えば、我が家の若者たちは、皆、役に立たないと見立てたようなものだ。そうなれば当家の若者たちは、そなたを恨むであろう。私は我が家中の若者はことごとく役に立つ者と思っている。若いときに役に立った者の、年衰えた者にも高い知行を与えて馳走することは、若者たちに見聞きさせて、武道を励ませるためである。そなたなどは、一言も大事であるから、よく分別せよ」と言われ、隼人は感服しました。
解説

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