名将言行録 / 『名将言行録』加藤清正 冑の工夫と正信の三箇条
○加藤家にては、足輕の者具足を着ず、冑計被り、冑の脇立に長さ二尺に、白練一幅の小しなへを兩に二本立てる。清正曰く、他家にては具足を着せ、冑は着ず、或は張拔の笠を被らすると見えたり、身に皮具足を着ても、頭に冑を被らざる時は、怺へ難きものなり。冑を着れば、具足は着ずしても、怺へ善きもなりと。 ○清正自分より家中の侍に至るまで、鞍の後輪に米五合づゝ打替に入れ、并に小筒、一尺計りなるに、玉藥桐劑へ持たせられけり。 ○家康本多正信と、清正と、親く交はりしと云ふことを聞き、正信を召し、汝が心付の如くにして、清正へ異見を云々申すべしと言はる。正信畏り、一日清正の邸に來り、我等儀其御元へ御心易誼在れば、何つぞ折を以て申述度こと之ありしと言ふ。清正、夫は何寄り過分のことなり、如何樣の儀なりとも、御心置なく御申聞け賜はるべしと言ふ、正信、申述度こと三ヶ條之あるなり、先づ第一には只今は以前と違ひ、中國、西國の諸大名、大阪へ着岸せらるれば、其儀直ぐに駿府江戸へ參られし所に、其御元には、先づ大阪表へ御逗留にて、以前の如く秀賴公の御機嫌を伺はれ、其後ならでは、駿府、江戸へ御越之なし、當時は世上も靜謐になりければ、諸大名方、何れも參觀の節、召連られし家來の數減少致せし所に、其御元には以前の如く、多人數召連れらるゝこと、殊の外目立相見ゆるなり、第三には當時諸大名方の中に、其御元の如く、鬚多き方は之なく、殿中惣出仕御列座の時抔は、別けて目立候へば、同くは御剝落し候樣に致度存ずると申ければ、清正聞て、其元の御申聞けし通、我等も心付之あるなり、定めて、人々取沙汰致したるを聞及ばれ、日頃の御因みを以て御申聞け過分のことに存候、去りながら右三ヶ條とも、御心付の如く致すべくとは申難きなり。其仔細は、其方にも存ぜられし通、我等儀は太閤の御時には、肥後半國を領せし所に、去る慶長五年より以後は、小西が跡をも賜はり、肥後の國主と罷成りたる儀は、全く德川家の御厚恩と申すものなり。
新字:○加藤家にては、足軽の者具足を着ず、冑計被り、冑の脇立に長さ二尺に、白練一幅の小しなへを両に二本立てる。清正曰く、他家にては具足を着せ、冑は着ず、或は張抜の笠を被らすると見えたり、身に皮具足を着ても、頭に冑を被らざる時は、怺へ難きものなり。冑を着れば、具足は着ずしても、怺へ善きもなりと。 ○清正自分より家中の侍に至るまで、鞍の後輪に米五合づゝ打替に入れ、并に小筒、一尺計りなるに、玉薬桐剤へ持たせられけり。 ○家康本多正信と、清正と、親く交はりしと云ふことを聞き、正信を召し、汝が心付の如くにして、清正へ異見を云々申すべしと言はる。正信畏り、一日清正の邸に来り、我等儀其御元へ御心易誼在れば、何つぞ折を以て申述度こと之ありしと言ふ。清正、夫は何寄り過分のことなり、如何様の儀なりとも、御心置なく御申聞け賜はるべしと言ふ、正信、申述度こと三ヶ条之あるなり、先づ第一には只今は以前と違ひ、中国、西国の諸大名、大阪へ着岸せらるれば、其儀直ぐに駿府江戸へ参られし所に、其御元には、先づ大阪表へ御逗留にて、以前の如く秀頼公の御機嫌を伺はれ、其後ならでは、駿府、江戸へ御越之なし、当時は世上も静謐になりければ、諸大名方、何れも参観の節、召連られし家来の数減少致せし所に、其御元には以前の如く、多人数召連れらるゝこと、殊の外目立相見ゆるなり、第三には当時諸大名方の中に、其御元の如く、鬚多き方は之なく、殿中惣出仕御列座の時抔は、別けて目立候へば、同くは御剥落し候様に致度存ずると申ければ、清正聞て、其元の御申聞けし通、我等も心付之あるなり、定めて、人々取沙汰致したるを聞及ばれ、日頃の御因みを以て御申聞け過分のことに存候、去りながら右三ヶ条とも、御心付の如く致すべくとは申難きなり。其仔細は、其方にも存ぜられし通、我等儀は太閤の御時には、肥後半国を領せし所に、去る慶長五年より以後は、小西が跡をも賜はり、肥後の国主と罷成りたる儀は、全く徳川家の御厚恩と申すものなり。
書き下し
○加藤家にては、足輕の者具足を着ず、冑計被り、冑の脇立に長さ二尺に、白練一幅の小しなへを兩に二本立てる。清正曰く、他家にては具足を着せ、冑は着ず、或は張拔の笠を被らすると見えたり、身に皮具足を着ても、頭に冑を被らざる時は、怺へ難きものなり。冑を着れば、具足は着ずしても、怺へ善きもなりと。 ○清正自分より家中の侍に至るまで、鞍の後輪に米五合づゝ打替に入れ、并に小筒、一尺計りなるに、玉藥桐劑へ持たせられけり。 ○家康本多正信と、清正と、親く交はりしと云ふことを聞き、正信を召し、汝が心付の如くにして、清正へ異見を云々申すべしと言はる。正信畏り、一日清正の邸に來り、我等儀其御元へ御心易誼在れば、何つぞ折を以て申述度こと之ありしと言ふ。清正、夫は何寄り過分のことなり、如何樣の儀なりとも、御心置なく御申聞け賜はるべしと言ふ、正信、申述度こと三ヶ條之あるなり、先づ第一には只今は以前と違ひ、中國、西國の諸大名、大阪へ着岸せらるれば、其儀直ぐに駿府江戸へ參られし所に、其御元には、先づ大阪表へ御逗留にて、以前の如く秀賴公の御機嫌を伺はれ、其後ならでは、駿府、江戸へ御越之なし、當時は世上も靜謐になりければ、諸大名方、何れも參觀の節、召連られし家來の數減少致せし所に、其御元には以前の如く、多人數召連れらるゝこと、殊の外目立相見ゆるなり、第三には當時諸大名方の中に、其御元の如く、鬚多き方は之なく、殿中惣出仕御列座の時抔は、別けて目立候へば、同くは御剝落し候樣に致度存ずると申ければ、清正聞て、其元の御申聞けし通、我等も心付之あるなり、定めて、人々取沙汰致したるを聞及ばれ、日頃の御因みを以て御申聞け過分のことに存候、去りながら右三ヶ條とも、御心付の如く致すべくとは申難きなり。其仔細は、其方にも存ぜられし通、我等儀は太閤の御時には、肥後半國を領せし所に、去る慶長五年より以後は、小西が跡をも賜はり、肥後の國主と罷成りたる儀は、全く德川家の御厚恩と申すものなり。
現代語訳
加藤家では、足軽は具足を着けず、冑だけを被り、冑の脇立に長さ二尺、白練絹一幅の小さな撓の差物を左右に二本立てている。清正は言った。他家では具足を着せて冑は被らせず、あるいは張り抜きの笠を被らせると見える。身に皮の具足を着けても頭に冑を被らなければ、耐え難いものだ。冑を着ければ、具足は着けなくても耐えやすい、と。 清正は自分から家中の侍に至るまで、鞍の後輪に米五合ずつを取り替えて入れ、あわせて長さ一尺ばかりの小筒に、玉薬、桐剤を添えて持たせた。 家康は、本多正信が清正と親しく交わっていると聞き、正信を召して、おまえの心づきのとおりに、清正へ意見を申すようにと言った。正信は畏まり、ある日清正の屋敷に来て、私はあなたと親しくしていただいておりますので、いずれ折をみて申し述べたいことがありましたと言った。清正が、それは何よりありがたいこと、どのようなことでも遠慮なくお聞かせくださいと言うと、正信は、申し述べたいことは三箇条あります、まず第一には、今は以前と違い、中国、西国の諸大名が大坂へ着岸されれば、すぐに駿府、江戸へ参られるところ、あなたはまず大坂にご逗留になり、以前のように秀頼公のご機嫌を伺い、その後でなければ駿府、江戸へお越しにならない。今は世の中も静謐になったので、諸大名はどなたも参勤の際に召し連れる家来の数を減らしているのに、あなたは以前のように多人数を召し連れられ、ことのほか目立って見える。第三には、今の諸大名の中に、あなたのように鬚の多い方はなく、殿中に全員が出仕して列座する時などは特に目立つので、同じことなら剃り落としになるようにしたいと思う、と申した。清正は聞いて、あなたの申されたとおり、私も気づいてはおりました。きっと人々が噂するのをお聞き及びになり、日ごろの親しみからお知らせくださるのは、ありがたいことです。しかしながら三箇条とも、お心づきのとおりにするとは申しかねます。その理由は、あなたもご存じのとおり、私は太閤の御代には肥後半国を領していたが、去る慶長五年以後は小西の跡も賜り、肥後の国主となったのは、まったく徳川家のご厚恩というものです、と言った。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
名将言行録・『名将言行録』加藤清正 参観と髭を譲らぬ返答然しながら、如何樣大身にはなればとて、大阪着岸の節は、此まで、秀賴公の御機嫌を伺ひしを、今更相止め、大阪を素通りに致したるとあらば、武士の本意に背きたることゝ思へば、相止め難きことに候、次に參觀の節、家來を減少致す樣にとあるは、我等の勝手と云ひ、家中の爲め旁々以て左樣に致度は存ずれども、西國の大名共は、何んぞ御用之ある節は、召寄せらるべく間、夫までは、國元に休息罷在る樣にと仰出され抔、之ある上ならば格別、箇樣に參觀交代を仰付らるゝとのことなれば、存ぜられ候通、我等知行所肥後の國は、海陸遙に相隔り居れば、國元の人數は、急用に相立兼ね申すべし、左すれば少しなりとも、手元に有合たる人數を以て、相應の御奉公をも申上べくとの心掛ならば、人數を減少致すことは相成兼ぬるなり。次に我等面に生へ候むだ鬚剝落しさつぱり致しなば、氣味能かるべしとは、朝夕存ぜざるにては之なけれども、若き時分、此鬚面に頰當を致し、冑の緒をしめたる時の快さ、只今以て忘れ難し、如何に治まりたる代なりとも是又剝兼ぬるなり、其元御申聞けのこと、一つも用ひ申さゞる段、如何と存ぜらるべく候へ共、御聞分け給はり度と言はれけり。正信もあきれはてゝ歸り、其段斯くと申しゝかば、家康聞て、清正と曰ふ者かと、計り言はれて、笑はれしとぞ。
-
名将言行録・『名将言行録』加藤清正 家康の出陣を諫める○家康、會津に向はんとて備定あり、清正偶々伏見に在り、山岡道阿彌を以て申けるは、今度關東への御發行如何なり、何にとなれば內府の御身にて、自ら手を碎き、合戰し給はんこと無用の至りなり、今幸ひ人數を召連れ居れり、先づ某及び、細川、福島、加藤、黑田、池田を遣はさるべし、若し覺束なく思召すに於ては、隣國のことなれば、伊達を加へらるべし。猶も心許なく思召候はゞ、其時御進發宜しからん、其理如何となれば、石田及び、奉行共、上杉を讒言し、謀叛と稱し餌にかひ、內府公を釣出し、東國へ下し跡にてゆる〱と謀るべしとの巧み、鏡に移るが如しと。家康返答に、委細の懇志祝着之に過ぎず、去りながら我弓箭の家に生れて、偖樣の所を忽かせにせば、武門の名を汚すぞかし、清正は武勇と云ひ、智謀と云ひ、天下に隱れなし、其上我と內緣あれば、帝都を守護の爲め伏見に留置度候へ共、九州の內心許なく候、急ぎ歸城ありて、能きに計らひ給ふべしとのことにて、熊本に歸城せり。
-
名将言行録・『名将言行録』加藤清正 三千石から肥後の大国へ○十六年、肥後國主佐々陸奧守成政死を賜はり、讃岐國主尾藤甚右衞門知定國除せらる。之に依り、知定が武器殘らず、清正に下し賜ひ、讃岐國を領すべきや、肥後にて二十五萬石領すべきや、兎角の遲答を申べきとの議なり、此時清正知行三千石なり、近き內に、秀吉征韓の內意之ある由、淺野長政窃に告げゝれば、清正此先鋒を望まん爲め、御請に有り難き段、骨髓に徹し存奉り候、同くは肥後の國にて、拜領仕度と申ければ、秀吉聞て、大氣者哉出來したり、去らば小西攝津守をも呼び候へとて、兩人に肥後國五十四萬石の所を、二十五萬石清正、二十四萬石行長に賜はり、殘りは兩人に預けられたり。諸人皆餘りに過分の望み哉と言ひたるに、秀吉聞て、老功の佐々陸奧守さへ治め兼ねたる大國を、若輩なる、主計頭が望みしは、如何樣見所ある者なりと言はれけり。清正熊本へ入部の時、羽翼の臣三十七騎あり、此三十七騎の者、其節俄に抱へたるにはあらず、皆三千石の身上にて、內々扶持し置きたる者なり、三千石より二十五萬石に封ぜられしは古今希なる出身なり、清正時に年二十八。
-
名将言行録・『名将言行録』加藤清正 不仲の相手を迎えに行く○清正、小西行長と中惡しゝ、秀吉薨じ、諸將皆還り、行長獨り去ること能はず、清正諸將を勵まし反り行長を迎ふ。行長泣て曰く、思はざりき、君の義愛に至らんとは、願くは前憾を釋んと、清正笑て、我國の爲めにして、貴殿の爲めにせず、且つ貴殿は三成に善くして、吾に善きこと能はず、と言はれけり。 ○清正、朝鮮より歸り、或日夜話の時、森本儀太夫、飯田角兵衞、庄林隼人抔、朝鮮在陣中、何事に付ても武功になるべき道筋を見覺えたるやと尋ね、別に是ぞ珍敷と存することなし、但し三ヶ條心得にもなるべきこと之あると申す。清正、我等も三ヶ條あり、去らば面々入札に書て其心を知るべきと。主從四人面々に之を書き見合はせけるに各一致にてありしとぞ。其三條知るものなし。或人曰く、兩山の谷間に蘆の茂りたる處あり、其山上を押通るに、敵三人向ふの山上にて、馬をきり〱と輪乘してありけり。偖は相圖にてこそあるらめとて、蘆の中を探せしに、果して伏兵ありけりと、其三ヶ條の一なりと、殘る二條は知らずと云ふ。
-
名将言行録・『名将言行録』加藤清正 譲る心と先に立つ勇彈正右衞門兵衞清忠の子、虎之助と稱す。後從四位下に敍し侍從兼肥後守に任ず。肥後七十二萬石に封ぜられ、熊本城に住す。慶長十六年六月二十四日卒、年五十一。 ○天正九年、秀吉因幡、鳥取を攻めし時、蜂須賀家政を遣はし形勢を覘はしむ。清正之に從ふ、清正曰く、城東の林莽恐くは伏兵あらん、君何ぞ衆を率ゐて往かざる、家政從はず、旣にして伏兵起ろ、清正弓を腰より取り、左右馳射し、敵進むこと能はず、乃ち馬より下り刀を揮ひ、家政と奮戰して、各首二級を獲て還る。秀吉喜びて曰く、清正少なりと雖も、懇懃に、氣雄なり、家政殆んど及ばずと、黃金一鎰を賜はり、秩百石を加ふ。 ○十一年、秀吉、瀧川一益を攻め、龜山を圍む、士卒爭ひ城に登る、城兵近江新七、士衆を勵まし、銃を發し拒戰す。木村十三郎鎗を擧て之を刺んとす、清正旁より馳至り、新七の肩を縱す、十三郎大に怒り其腹を貫く、新七斃る、清正顧みて、我先きに刺すと雖も、之を斃す者は予なりと言て其頭を取らず、秀吉其能く讓るを嘉みし、各賞あり。
-
名将言行録・『名将言行録』加藤清正 だまされた飯田直景○飯田覺兵衞直景は、武功の士なり、初めは角と云ふ字なりしに、秀吉、覺の字に書替させられし程の者なり、直景曰く、我一生主計頭にだまされたり、初めて軍に出て功名しける時、朋輩多く鳥銃に中りて死したり、危きことよ、早や是までにて、武士の仕へは致す間敷と思ひたるに、歸ろや否、主計頭、時を移さず、今日の働、神妙言はん方なしとて、刀を賜はりき。斯の如く毎度其場を去つては後悔すれども、主計頭、其時を移さず陣羽織、或は感狀を與へ、人々も皆羨みて褒め立たりし故、夫に牽れて止むことを得ず、麾を取り、侍大將と言はれしは、主計頭にだまされて、本意を失ひたるなりと。加藤氏亡て後、京に引籠り再び仕を求めずして居たる時、語りけるとぞ。 ○清正の臣、木村又藏、膂力絶倫なり。大阪の輔臣、秀頼の爲めに一勇夫を選み、之が師と爲さんと欲す。衆又藏を推す、又藏之を聞て曰く、吾生平誓ひ、二君に仕へず、征韓の行、母氏と訣る、亦此言を以て其意を安んず、今我君に後る、而て東大阪に食す、是二君に事るなりと、肚を割て死す。聞く者又藏の志を哀み、而て清正の善く士を養ふを偉なりとす。 ○加藤氏亡びて後ち、熊本は細川氏の治城たり。往年、城墻風雨の爲めに壞らる、將に其柱を易んとす、其柱に隱々に文字あり曰く、是良材得易からざるなり、城外某澤中に沈め置けり。後世之を易る者は取りて用ふべしとなり、依て人を遣はし、其澤を探るに、卽ち材木果して山積其深慮斯の如し。