名将言行録 / 『名将言行録』加藤清正 茶碗を割った小姓の沈黙
○清正、一日茶會を催さんとて、名物の茶碗を出し置きけるを、小姓共集まり見るとて、一人の若輩者、過つて割りたり。祕藏せらるゝ器なれば、皆々大いに驚きしが、流石に武功の名高き者共の子なれば、此事決して其科人を申べからず、詮義強く罪せらるゝならば、一同に科を蒙るべしと申合はせける。清正には知らずして、何者か此茶碗を割りたると尋ねらるゝに、一人も言ふ者なし、清正立腹して、茶碗は惜むにあらず、彼者共切腹にても言付られんかと、命を惜みて隱くすよと思はれし故、其日當番の小姓共を残らず、呼出し、汝等は若年とは申ながら、臆病至極の者共哉、武勇の父共が名を汚すは口惜き次第なり、定めて割りたる者は、一人なるべし、申出ざるこそ言語同斷なれと言はれけるに、加藤平三郎とて、十四歲になりしが進み出で、御茶碗を割りし者は、某にも致せ、一人にて之あり候ヘ共、士器に士を替へ給べきに。あらず、去れば當人を隱くし申候旨を申合はせて候へば、假今一命を召れ候とも、誰かは申出ろ人あらん。然る所に、親共の武勇戰功までを仰出さるゝ上は、猶以て申出し難しと言ふ。若輩の者のこと、其上言掛りなれば、清正こしやくなる悴なりと言捨て座を立たれしとぞ。世に聞えたる猛將なれども、武道の本意を悉く辨られし故にこそ。
新字:○清正、一日茶会を催さんとて、名物の茶碗を出し置きけるを、小姓共集まり見るとて、一人の若輩者、過つて割りたり。秘蔵せらるゝ器なれば、皆々大いに驚きしが、流石に武功の名高き者共の子なれば、此事決して其科人を申べからず、詮義強く罪せらるゝならば、一同に科を蒙るべしと申合はせける。清正には知らずして、何者か此茶碗を割りたると尋ねらるゝに、一人も言ふ者なし、清正立腹して、茶碗は惜むにあらず、彼者共切腹にても言付られんかと、命を惜みて隠くすよと思はれし故、其日当番の小姓共を残らず、呼出し、汝等は若年とは申ながら、臆病至極の者共哉、武勇の父共が名を汚すは口惜き次第なり、定めて割りたる者は、一人なるべし、申出ざるこそ言語同断なれと言はれけるに、加藤平三郎とて、十四歳になりしが進み出で、御茶碗を割りし者は、某にも致せ、一人にて之あり候ヘ共、士器に士を替へ給べきに。あらず、去れば当人を隠くし申候旨を申合はせて候へば、仮今一命を召れ候とも、誰かは申出ろ人あらん。然る所に、親共の武勇戦功までを仰出さるゝ上は、猶以て申出し難しと言ふ。若輩の者のこと、其上言掛りなれば、清正こしやくなる悴なりと言捨て座を立たれしとぞ。世に聞えたる猛将なれども、武道の本意を悉く弁られし故にこそ。
書き下し
○清正、一日茶會を催さんとて、名物の茶碗を出し置きけるを、小姓共集まり見るとて、一人の若輩者、過つて割りたり。祕藏せらるゝ器なれば、皆々大いに驚きしが、流石に武功の名高き者共の子なれば、此事決して其科人を申べからず、詮義強く罪せらるゝならば、一同に科を蒙るべしと申合はせける。清正には知らずして、何者か此茶碗を割りたると尋ねらるゝに、一人も言ふ者なし、清正立腹して、茶碗は惜むにあらず、彼者共切腹にても言付られんかと、命を惜みて隱くすよと思はれし故、其日當番の小姓共を残らず、呼出し、汝等は若年とは申ながら、臆病至極の者共哉、武勇の父共が名を汚すは口惜き次第なり、定めて割りたる者は、一人なるべし、申出ざるこそ言語同斷なれと言はれけるに、加藤平三郎とて、十四歲になりしが進み出で、御茶碗を割りし者は、某にも致せ、一人にて之あり候ヘ共、士器に士を替へ給べきに。あらず、去れば當人を隱くし申候旨を申合はせて候へば、假今一命を召れ候とも、誰かは申出ろ人あらん。然る所に、親共の武勇戰功までを仰出さるゝ上は、猶以て申出し難しと言ふ。若輩の者のこと、其上言掛りなれば、清正こしやくなる悴なりと言捨て座を立たれしとぞ。世に聞えたる猛將なれども、武道の本意を悉く辨られし故にこそ。
現代語訳
清正が一日、茶会を催そうとして、名物の茶碗を出し置いていたのを、小姓どもが集まって見るうち、一人の若輩者が誤って割りました。秘蔵されている器だったので、皆たいそう驚きましたが、さすがに武功で名高い者たちの子なので、「このことは決して、その科人を申し出てはならない。詮議が強く、罪せられるなら、一同が科を被ろう」と申し合わせました。清正はそれを知らずに、「何者がこの茶碗を割ったのか」と尋ねましたが、一人も言う者がありません。清正は立腹して、「茶碗は惜しむわけではない。あの者たちは、切腹でも言い付けられるかと、命を惜しんで隠すのだ」と思われたので、その日の当番の小姓を残らず呼び出して、「おまえたちは若年とはいいながら、臆病至極の者どもだ。武勇の父たちの名を汚すのは口惜しい次第である。きっと割った者は一人であろう。申し出ないのは言語道断である」と言いました。すると加藤平三郎といって十四歳になる者が、進み出て、「御茶碗を割った者は、私にも誰にもせよ、一人でございます。けれども、士器に士を替えるべきではありません。そこで当人を隠し申すと申し合わせましたので、たとえ一命を召されても、誰が申し出る人がありましょうか。そうなると、親たちの武勇戦功までを仰せ出される上は、なおさら申し出がたいのです」と言いました。若輩の者のこと、そのうえ言いがかりなので、清正は「こしゃくなせがれ」と言い捨てて座を立たれたということです。世に聞こえた猛将でありながら、武道の本意をことごとく弁えておられたからこそでしょう。
解説

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名将言行録・『名将言行録』加藤清正 足軽を庇った元包○清正の家臣、南條元包が足輕九郎治と曰ふ者、清正の足輕と喧嘩し二人を挿て伏せ、敗々に打擲せり。清正怒り、元包に足輕を殺せと言はる〻に、元包承引せず、清正、元包に、其足輕を召連れ、罷出よとありければ、元包同道して出たり。清正大に怒り、某が下知に違背すること、心得難しと言はる。元包、足輕の者とても、武勇の者を召抱へ君の御用に立つべきと思ひしに、一人の爲めに兩人打擲に逢ひし者を、不便に思召し、私の足輕計りを殺すべしとの御下知こそ、心得難く候と申ければ、清正忽ち機嫌を直し、足輕の方を見て、奴が目指し、用に立べきものなり、隨分目を掛て召使ふべしと言はれ、事濟みたり。 ○清正、嘗て老臣三人を召て、何某は小童ながら、救し難き非儀あり暮て後密に誅すべしと命ぜり。三老打寄て曰く、是式のことは、誰々に命ぜられて足りなん、我等に仰せらる〻程のことにあらず、左れども、仰を蒙りては止むを得ずとて、小童を誅しけり。斯て程歷て後、清正秋の月さやかなる夜、舞を舞させけるが、藤原仲光が滿仲の幼子を裂せよとありし時、己が子を殺して、君の子を助け、後に滿仲の勘氣を申直しける所を縛ふを見、甚だ感じ哀なること哉、古人は斯の如きこともありけり、總て主人の命には聞くべきことのありなんものにこそと、獨言して歎息せしを、老臣傳聞て慙恥し、何つぞやの仰は、深き思召のありけることを、計り知らざりけるこそ、口惜かりけれと、何れも後悔せしとぞ。
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