名将言行録 / 『名将言行録』加藤清正 愛宕に祈る忠義と夜の召し
○其翌日家康、板倉勝重を召し、昨日清正が虛空に眼を濺ぎし方角を察するに愛宕山に當れり。如何樣宿願のことありと思ふなり、密々に尋ね見よと言はれければ、勝重乃ち手を廻はし、一尋ねたり。然るに、今度秀賴二條の城にて災害なき樣にとて、一七日愛宕山にて護摩を修せしとぞ。家康、殊の外其精忠を感ぜられけり。 ○清正、熊本在城の時、或夜のことにてありしが、雪隱へ行く、小姓共二三人副行て手水所に控居たり。清正何つも雪隱へ行くに、齒の高き足駄をはきて入りしが、今夜頻りに、足駄の音とん〱と踏み鳴らしける故、小姓共何事やらんと、皆々怪み居ける所に、清正失念したることあり、思ひ出したり、早く庄林隼人を呼びに遣はすべしと言ふ。之に依り庄林へ使を立るに、最早半夜過ぎのことにて庄林も此間より風疾にて取臥し居たりしが、使と共に打連れ亂髮ながら登城せり。清正は、元來痔疾にて、長雪隱にてありし故、未だ雪隱より出ざりし所に庄林參上せりと申す。清正雪隱の中より、汝を呼びしは別儀にあらず、其方の家來に年頃二十歲計りの、何つも茜染の袖なしの單羽織を着たる者あり、彼名は何にと申すと尋ねしかば、庄林、彼は出來助と申て鈍なる者に候へば、草履取に召使候、中々働ある者にて候と申す。清正去ればとよ、其事なり、何つぞや、川尻にて芝居能のありし時、見物に行きしが、其方をも連れ行きしなり、時に某、出來助が小便するを見れば、肌に鎖帷子を着、臑當を掛けたり、今天下漸々治まり、人皆平服になり、兵具の用意も荒增なる所に、下郎には、珍敷心掛者と思ひし故、尋ねんと思ふ中に、物紛にて打延びたりしが、今夜此所にて、能の足踏をして見たるにて、彼川尻のことを思ひ出して、中々尺寸の間も延ばし置くべきにあらず、彼に褒美してこそ、武備の道も達すべきと思ふなれ。熟々思ふに人の死生、世の治亂、身の盛衰、天地の變、計り難きものなり。斯く思ひ居る中に、我死するか、汝死するかするならば、一人闕けても、此事無にならんこと殘念なりと、不圖思ひしより、深更なるが、其方を呼び寄せたり。
新字:○其翌日家康、板倉勝重を召し、昨日清正が虚空に眼を濺ぎし方角を察するに愛宕山に当れり。如何様宿願のことありと思ふなり、密々に尋ね見よと言はれければ、勝重乃ち手を廻はし、一尋ねたり。然るに、今度秀頼二条の城にて災害なき様にとて、一七日愛宕山にて護摩を修せしとぞ。家康、殊の外其精忠を感ぜられけり。 ○清正、熊本在城の時、或夜のことにてありしが、雪隠へ行く、小姓共二三人副行て手水所に控居たり。清正何つも雪隠へ行くに、歯の高き足駄をはきて入りしが、今夜頻りに、足駄の音とん〱と踏み鳴らしける故、小姓共何事やらんと、皆々怪み居ける所に、清正失念したることあり、思ひ出したり、早く庄林隼人を呼びに遣はすべしと言ふ。之に依り庄林へ使を立るに、最早半夜過ぎのことにて庄林も此間より風疾にて取臥し居たりしが、使と共に打連れ乱髪ながら登城せり。清正は、元来痔疾にて、長雪隠にてありし故、未だ雪隠より出ざりし所に庄林参上せりと申す。清正雪隠の中より、汝を呼びしは別儀にあらず、其方の家来に年頃二十歳計りの、何つも茜染の袖なしの単羽織を着たる者あり、彼名は何にと申すと尋ねしかば、庄林、彼は出来助と申て鈍なる者に候へば、草履取に召使候、中々働ある者にて候と申す。清正去ればとよ、其事なり、何つぞや、川尻にて芝居能のありし時、見物に行きしが、其方をも連れ行きしなり、時に某、出来助が小便するを見れば、肌に鎖帷子を着、臑当を掛けたり、今天下漸々治まり、人皆平服になり、兵具の用意も荒增なる所に、下郎には、珍敷心掛者と思ひし故、尋ねんと思ふ中に、物紛にて打延びたりしが、今夜此所にて、能の足踏をして見たるにて、彼川尻のことを思ひ出して、中々尺寸の間も延ばし置くべきにあらず、彼に褒美してこそ、武備の道も達すべきと思ふなれ。熟々思ふに人の死生、世の治乱、身の盛衰、天地の変、計り難きものなり。斯く思ひ居る中に、我死するか、汝死するかするならば、一人闕けても、此事無にならんこと残念なりと、不図思ひしより、深更なるが、其方を呼び寄せたり。
書き下し
○其翌日家康、板倉勝重を召し、昨日清正が虛空に眼を濺ぎし方角を察するに愛宕山に當れり。如何樣宿願のことありと思ふなり、密々に尋ね見よと言はれければ、勝重乃ち手を廻はし、一尋ねたり。然るに、今度秀賴二條の城にて災害なき樣にとて、一七日愛宕山にて護摩を修せしとぞ。家康、殊の外其精忠を感ぜられけり。 ○清正、熊本在城の時、或夜のことにてありしが、雪隱へ行く、小姓共二三人副行て手水所に控居たり。清正何つも雪隱へ行くに、齒の高き足駄をはきて入りしが、今夜頻りに、足駄の音とん〱と踏み鳴らしける故、小姓共何事やらんと、皆々怪み居ける所に、清正失念したることあり、思ひ出したり、早く庄林隼人を呼びに遣はすべしと言ふ。之に依り庄林へ使を立るに、最早半夜過ぎのことにて庄林も此間より風疾にて取臥し居たりしが、使と共に打連れ亂髮ながら登城せり。清正は、元來痔疾にて、長雪隱にてありし故、未だ雪隱より出ざりし所に庄林參上せりと申す。清正雪隱の中より、汝を呼びしは別儀にあらず、其方の家來に年頃二十歲計りの、何つも茜染の袖なしの單羽織を着たる者あり、彼名は何にと申すと尋ねしかば、庄林、彼は出來助と申て鈍なる者に候へば、草履取に召使候、中々働ある者にて候と申す。清正去ればとよ、其事なり、何つぞや、川尻にて芝居能のありし時、見物に行きしが、其方をも連れ行きしなり、時に某、出來助が小便するを見れば、肌に鎖帷子を着、臑當を掛けたり、今天下漸々治まり、人皆平服になり、兵具の用意も荒增なる所に、下郎には、珍敷心掛者と思ひし故、尋ねんと思ふ中に、物紛にて打延びたりしが、今夜此所にて、能の足踏をして見たるにて、彼川尻のことを思ひ出して、中々尺寸の間も延ばし置くべきにあらず、彼に褒美してこそ、武備の道も達すべきと思ふなれ。熟々思ふに人の死生、世の治亂、身の盛衰、天地の變、計り難きものなり。斯く思ひ居る中に、我死するか、汝死するかするならば、一人闕けても、此事無にならんこと殘念なりと、不圖思ひしより、深更なるが、其方を呼び寄せたり。
現代語訳
その翌日、家康は板倉勝重を召して、「昨日、清正が虚空に目を注いだ方角を察するに、愛宕山に当たる。どのような宿願のことがあると思われる。密々に尋ねてみよ」と言われました。勝重はすぐに手を回して一度尋ねました。すると、「今度、秀頼が二条の城で災害がないようにと、一七日、愛宕山で護摩を修していた」ということでした。家康は、ことのほかその精忠に感心されました。 清正が熊本に在城していたとき、ある夜のことでした。雪隠へ行き、小姓ども二、三人が付き添って手水所に控えていました。清正はいつも雪隠へ行くとき、歯の高い足駄をはいて入りましたが、今夜はしきりに足駄の音をとんとんと踏み鳴らすので、小姓どもは何事かと、皆怪しんでいました。すると清正が、「失念したことがある。思い出した。早く庄林隼人を呼びにやれ」と言います。これによって庄林へ使いを立てると、もう夜半過ぎのことで、庄林もこの間から風邪の病で臥していましたが、使いとともに乱れ髪のまま登城しました。清正は、もともと痔疾で、長雪隠でしたので、まだ雪隠から出ないうちに、庄林が参上したと申し上げました。清正は雪隠の中から、「おまえを呼んだのは別儀ではない。おまえの家来に、年のころ二十歳ばかりの、いつも茜染の袖なしの単羽織を着た者がある。その名は何というか」と尋ねました。庄林は、「あれは出来助と申して、鈍な者ですので、草履取りに召し使っております。なかなか働きのある者でございます」と申しました。清正は、「そうそう、そのことだ。いつぞや、川尻で芝居能があったとき、見物に行ったが、おまえをも連れて行った。そのとき私が出来助の小便するのを見ると、肌に鎖帷子を着て、臑当を掛けていた。今、天下がようやく治まり、人は皆平服になり、兵具の用意もおおよそなくなった中で、下郎にしては珍しい心がけの者と思ったから、尋ねようと思ううちに、取り紛れて延びてしまったが、今夜ここで能の足踏みをしてみたので、あの川尻のことを思い出した。なかなか寸時も延ばし置くべきではない。彼に褒美を与えてこそ、武備の道も通ずると思うのだ。つくづく思うに、人の死生、世の治乱、身の盛衰、天地の変は、計りがたいものだ。こう思ううちに、私が死ぬか、おまえが死ぬかして、一人でも欠ければ、このことが無になるのが残念だと、ふと思ったので、深夜ではあるが、おまえを呼び寄せたのだ。
解説

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