名将言行録 / 『名将言行録』加藤清正 清正の治水と築城
○清正、士民を愛養し、大に惠政を敷く、又築城の術に精しく、水利を妙諳せり、興作ある毎に、馬に跨り、出て鞭を揚げ指揮す。其規畫する所の溝渠堤防、百世易ふべからず、民其仁に懷き、其勇智に服せり。死後祠を建て之を祀ると云ふ。江戸城本丸の富士見櫓の石垣は、將軍家光の好みにて、清正が熊本城の石垣の通りなりと。
新字:○清正、士民を愛養し、大に恵政を敷く、又築城の術に精しく、水利を妙諳せり、興作ある毎に、馬に跨り、出て鞭を揚げ指揮す。其規画する所の溝渠堤防、百世易ふべからず、民其仁に懐き、其勇智に服せり。死後祠を建て之を祀ると云ふ。江戸城本丸の富士見櫓の石垣は、将軍家光の好みにて、清正が熊本城の石垣の通りなりと。
書き下し
○清正、士民を愛養し、大に惠政を敷く、又築城の術に精しく、水利を妙諳せり、興作ある毎に、馬に跨り、出て鞭を揚げ指揮す。其規畫する所の溝渠堤防、百世易ふべからず、民其仁に懷き、其勇智に服せり。死後祠を建て之を祀ると云ふ。江戸城本丸の富士見櫓の石垣は、將軍家光の好みにて、清正が熊本城の石垣の通りなりと。
現代語訳
清正は士民を愛し養い、大いに恵みある政を行い、また築城の術に詳しく、水利にも通じていた。工事を起こすたびに、馬にまたがり、出て鞭を揚げて指揮した。その計画した溝や堤防は百世にわたって変えることができず、民はその仁を慕い、その勇と智に服した。死後、祠を建ててこれを祀るという。江戸城本丸の富士見櫓の石垣は、将軍家光の好みで、清正が築いた熊本城の石垣の通りであるという。
解説

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