名将言行録 / 『名将言行録』加藤清正 倹約と家康への配慮
○清正常に洗濯せし衣類を着し、障子は所々壞れたり所計りを、張替らる。斯る儉約の人なれども、武衞殿浪人の時、合力を庄林隼人に頼みし故、庄林米三百俵遺はさるべくやと申ければ、清正、玄米二千俵遺はすべくと言はれけり。 ○清正嘗て、自ら百姓を指揮し、溝洫を修理せり、時に午刻に及びしかば、何れも中食に就く、中に老農中食の菜に燔鰯を食へる者あり、清正見て汝年は幾くぞと問ひければ、六十有餘と申す。清正、最早六十に及べば、公役にも家僕を出し、身を安佚に爲すべきに、土民の身として、日に魚肉を食ふ、斯く飲食に奢る故、一生體を勞するなり、是口の爲めに、身を苦むるにあらずや、慎むべしと誡められけり。 ○家康、專ら武を偃せ、文を治め、諸大名の武事を講ずることを喜ばず、清正曰く、我深く徳川公の恩を受く、況や公子を以て、女婿と爲す、豈に異心あらんや。然れども、秀頼公、大阪に座まし、吾鎭西に在り、世人疑懼せん、徳川公老いたり、吾其心を安んぜざるべからずと、乃ち歌妓阿國なる者を國に召し、觀棚を造り士庶をして、縱觀せしむ、七日中元士庶に縱し、踏歌せしむ、士庶隊を分ち、演劇す。清正自ら臨觀して、樂みと爲す。又數々散樂を催し、之を視たり。
新字:○清正常に洗濯せし衣類を着し、障子は所々壊れたり所計りを、張替らる。斯る倹約の人なれども、武衛殿浪人の時、合力を庄林隼人に頼みし故、庄林米三百俵遺はさるべくやと申ければ、清正、玄米二千俵遺はすべくと言はれけり。 ○清正嘗て、自ら百姓を指揮し、溝洫を修理せり、時に午刻に及びしかば、何れも中食に就く、中に老農中食の菜に燔鰯を食へる者あり、清正見て汝年は幾くぞと問ひければ、六十有余と申す。清正、最早六十に及べば、公役にも家僕を出し、身を安佚に為すべきに、土民の身として、日に魚肉を食ふ、斯く飲食に奢る故、一生体を労するなり、是口の為めに、身を苦むるにあらずや、慎むべしと誡められけり。 ○家康、専ら武を偃せ、文を治め、諸大名の武事を講ずることを喜ばず、清正曰く、我深く徳川公の恩を受く、況や公子を以て、女婿と為す、豈に異心あらんや。然れども、秀頼公、大阪に座まし、吾鎮西に在り、世人疑懼せん、徳川公老いたり、吾其心を安んぜざるべからずと、乃ち歌妓阿国なる者を国に召し、観棚を造り士庶をして、縦観せしむ、七日中元士庶に縦し、踏歌せしむ、士庶隊を分ち、演劇す。清正自ら臨観して、楽みと為す。又数々散楽を催し、之を視たり。
書き下し
○清正常に洗濯せし衣類を着し、障子は所々壞れたり所計りを、張替らる。斯る儉約の人なれども、武衞殿浪人の時、合力を庄林隼人に頼みし故、庄林米三百俵遺はさるべくやと申ければ、清正、玄米二千俵遺はすべくと言はれけり。 ○清正嘗て、自ら百姓を指揮し、溝洫を修理せり、時に午刻に及びしかば、何れも中食に就く、中に老農中食の菜に燔鰯を食へる者あり、清正見て汝年は幾くぞと問ひければ、六十有餘と申す。清正、最早六十に及べば、公役にも家僕を出し、身を安佚に爲すべきに、土民の身として、日に魚肉を食ふ、斯く飲食に奢る故、一生體を勞するなり、是口の爲めに、身を苦むるにあらずや、慎むべしと誡められけり。 ○家康、專ら武を偃せ、文を治め、諸大名の武事を講ずることを喜ばず、清正曰く、我深く徳川公の恩を受く、況や公子を以て、女婿と爲す、豈に異心あらんや。然れども、秀頼公、大阪に座まし、吾鎭西に在り、世人疑懼せん、徳川公老いたり、吾其心を安んぜざるべからずと、乃ち歌妓阿國なる者を國に召し、觀棚を造り士庶をして、縱觀せしむ、七日中元士庶に縱し、踏歌せしむ、士庶隊を分ち、演劇す。清正自ら臨觀して、樂みと爲す。又數々散樂を催し、之を視たり。
現代語訳
清正は常に洗濯した衣類を着、障子は壊れた所だけを張り替えさせた。このように倹約の人であったが、武衛殿が浪人の時、庄林隼人を通じて援助を頼んだので、庄林が米三百俵を遣わしてはいかがかと申すと、清正は、玄米二千俵を遣わせ、と言った。 清正はかつて自ら百姓を指揮して、溝や水路を修理した。時に正午になり、皆が昼食に就いたが、その中に昼食の菜に焼いた鰯を食べている老農がいた。清正は見て、おまえの年はいくつかと問うと、六十余りと答えた。清正は、もう六十に及べば、公役にも家僕を出して身を安楽にすべきなのに、農民の身として毎日魚肉を食べる。このように飲食に奢るから一生体を労するのだ。これは口のために身を苦しめることではないか。慎むべきだと戒めた。 家康はもっぱら武を伏せ文を治め、諸大名が武事を講ずることを喜ばなかった。清正は言った。私は深く徳川公の恩を受けている。まして公の子を娘婿としている。どうして異心があろうか。しかし、秀頼公は大坂におられ、私は鎮西にいる。世の人は疑い恐れるだろう。徳川公は老いた。私はその心を安んじさせなければならない、と。そこで歌妓の阿国という者を国に召し、観覧の棚を造り、士庶に自由に見物させた。七日間、中元に士庶に踊らせ、士庶は隊を分けて演劇をした。清正は自ら臨んで観覧し、楽しみとした。また度々散楽を催し、これを見た。
解説

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