名将言行録 / 『名将言行録』加藤清正 足軽を庇った元包
○清正の家臣、南條元包が足輕九郎治と曰ふ者、清正の足輕と喧嘩し二人を挿て伏せ、敗々に打擲せり。清正怒り、元包に足輕を殺せと言はる〻に、元包承引せず、清正、元包に、其足輕を召連れ、罷出よとありければ、元包同道して出たり。清正大に怒り、某が下知に違背すること、心得難しと言はる。元包、足輕の者とても、武勇の者を召抱へ君の御用に立つべきと思ひしに、一人の爲めに兩人打擲に逢ひし者を、不便に思召し、私の足輕計りを殺すべしとの御下知こそ、心得難く候と申ければ、清正忽ち機嫌を直し、足輕の方を見て、奴が目指し、用に立べきものなり、隨分目を掛て召使ふべしと言はれ、事濟みたり。 ○清正、嘗て老臣三人を召て、何某は小童ながら、救し難き非儀あり暮て後密に誅すべしと命ぜり。三老打寄て曰く、是式のことは、誰々に命ぜられて足りなん、我等に仰せらる〻程のことにあらず、左れども、仰を蒙りては止むを得ずとて、小童を誅しけり。斯て程歷て後、清正秋の月さやかなる夜、舞を舞させけるが、藤原仲光が滿仲の幼子を裂せよとありし時、己が子を殺して、君の子を助け、後に滿仲の勘氣を申直しける所を縛ふを見、甚だ感じ哀なること哉、古人は斯の如きこともありけり、總て主人の命には聞くべきことのありなんものにこそと、獨言して歎息せしを、老臣傳聞て慙恥し、何つぞやの仰は、深き思召のありけることを、計り知らざりけるこそ、口惜かりけれと、何れも後悔せしとぞ。
新字:○清正の家臣、南条元包が足軽九郎治と曰ふ者、清正の足軽と喧嘩し二人を挿て伏せ、敗々に打擲せり。清正怒り、元包に足軽を殺せと言はる〻に、元包承引せず、清正、元包に、其足軽を召連れ、罷出よとありければ、元包同道して出たり。清正大に怒り、某が下知に違背すること、心得難しと言はる。元包、足軽の者とても、武勇の者を召抱へ君の御用に立つべきと思ひしに、一人の為めに両人打擲に逢ひし者を、不便に思召し、私の足軽計りを殺すべしとの御下知こそ、心得難く候と申ければ、清正忽ち機嫌を直し、足軽の方を見て、奴が目指し、用に立べきものなり、随分目を掛て召使ふべしと言はれ、事済みたり。 ○清正、嘗て老臣三人を召て、何某は小童ながら、救し難き非儀あり暮て後密に誅すべしと命ぜり。三老打寄て曰く、是式のことは、誰々に命ぜられて足りなん、我等に仰せらる〻程のことにあらず、左れども、仰を蒙りては止むを得ずとて、小童を誅しけり。斯て程歴て後、清正秋の月さやかなる夜、舞を舞させけるが、藤原仲光が満仲の幼子を裂せよとありし時、己が子を殺して、君の子を助け、後に満仲の勘気を申直しける所を縛ふを見、甚だ感じ哀なること哉、古人は斯の如きこともありけり、総て主人の命には聞くべきことのありなんものにこそと、独言して嘆息せしを、老臣伝聞て慚恥し、何つぞやの仰は、深き思召のありけることを、計り知らざりけるこそ、口惜かりけれと、何れも後悔せしとぞ。
書き下し
○清正の家臣、南條元包が足輕九郎治と曰ふ者、清正の足輕と喧嘩し二人を挿て伏せ、敗々に打擲せり。清正怒り、元包に足輕を殺せと言はる〻に、元包承引せず、清正、元包に、其足輕を召連れ、罷出よとありければ、元包同道して出たり。清正大に怒り、某が下知に違背すること、心得難しと言はる。元包、足輕の者とても、武勇の者を召抱へ君の御用に立つべきと思ひしに、一人の爲めに兩人打擲に逢ひし者を、不便に思召し、私の足輕計りを殺すべしとの御下知こそ、心得難く候と申ければ、清正忽ち機嫌を直し、足輕の方を見て、奴が目指し、用に立べきものなり、隨分目を掛て召使ふべしと言はれ、事濟みたり。 ○清正、嘗て老臣三人を召て、何某は小童ながら、救し難き非儀あり暮て後密に誅すべしと命ぜり。三老打寄て曰く、是式のことは、誰々に命ぜられて足りなん、我等に仰せらる〻程のことにあらず、左れども、仰を蒙りては止むを得ずとて、小童を誅しけり。斯て程歷て後、清正秋の月さやかなる夜、舞を舞させけるが、藤原仲光が滿仲の幼子を裂せよとありし時、己が子を殺して、君の子を助け、後に滿仲の勘氣を申直しける所を縛ふを見、甚だ感じ哀なること哉、古人は斯の如きこともありけり、總て主人の命には聞くべきことのありなんものにこそと、獨言して歎息せしを、老臣傳聞て慙恥し、何つぞやの仰は、深き思召のありけることを、計り知らざりけるこそ、口惜かりけれと、何れも後悔せしとぞ。
現代語訳
清正の家臣、南条元包の足軽で九郎治という者が、清正の足軽と喧嘩をして、二人を組み伏せ、さんざんに打擲しました。清正は怒り、元包に、「その足軽を殺せ」と言いました。元包は承知しません。清正は、元包に、「その足軽を召し連れて罷り出よ」と言ったので、元包は同道して出ました。清正は大いに怒り、「私の下知に違背するとは、心得がたい」と言いました。元包は、「足軽とはいえ、武勇の者を召し抱えて君の御用に立てようと思いましたのに、一人のために二人が打擲に遭ったのを、不憫に思われるどころか、私の足軽だけを殺せとの御下知こそ、心得がたく存じます」と申しました。清正はたちまち機嫌を直し、足軽の方を見て、「奴の目つきは役に立つものだ。ずいぶん目を掛けて召し使え」と言われ、事は済みました。 清正は、かつて老臣三人を召して、「何某は小童ながら、救いがたい非儀がある。日が暮れてから密かに誅せよ」と命じました。三老は打ち寄って、「これほどのことは、誰々に命じられれば足りること、我らに仰せられるほどのことではない。けれども仰せを受けては止むを得ない」と言って、小童を誅しました。やがて時が経って、清正は、秋の月のさやかな夜、舞を舞わせましたが、藤原仲光が満仲の幼子を裂けと命ぜられたとき、自分の子を殺して君の子を助け、のちに満仲の勘気を申し直したという場面を舞うのを見て、「たいへん感じ入り、あわれなことよ。古人にはこのようなこともあった。総じて主人の命令には、聞くべきことがあるものだ」と、独り言を言って嘆息したのを、老臣が伝え聞いて恥じ入り、「いつぞやの仰せには、深いお考えがあったのを、計り知らなかったとは口惜しい」と、皆が後悔したということです。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
名将言行録・『名将言行録』加藤清正 律義者に武辺者が多い○清正、剛の者を得んと欲し、一生の間、目利に心を盡くし、人相までを稽古せしかども、其術を得ず、唯律義者に武邊者多しと言はれけり。 ○清正より搆はれたる浪人、詫言を谷出羽守衞友を頼み、清正へ申入るとて、細川忠興も出合たり。偖挨拶終て後、衞友、彼浪人の搆赦免の儀申出しければ、清正あの如き馬鹿者は捨置れ候へかしと、少々言荒く申せり、衞友短氣なる生質故、大に怒てするく〱と、清正の傍へ寄りて膝を押へ、脇差に手を掛け、如何に某を誰にて候と存ぜられ、唯今の惡言を申され候やと言ひし時、清正去らぬ體にて、又羽州癖が出候、越州少々異見致され然るべくと、靜に言はれけり。又清正の家臣久三郎と曰へる者、或時清正側へ忍び寄り、紐付九尺計り抛げろ、清正仰に倒れて、我等が內冑を見て、久三郎阿房すると言て、笑はれしとぞ。
-
名将言行録・『名将言行録』加藤清正 だまされた飯田直景○飯田覺兵衞直景は、武功の士なり、初めは角と云ふ字なりしに、秀吉、覺の字に書替させられし程の者なり、直景曰く、我一生主計頭にだまされたり、初めて軍に出て功名しける時、朋輩多く鳥銃に中りて死したり、危きことよ、早や是までにて、武士の仕へは致す間敷と思ひたるに、歸ろや否、主計頭、時を移さず、今日の働、神妙言はん方なしとて、刀を賜はりき。斯の如く毎度其場を去つては後悔すれども、主計頭、其時を移さず陣羽織、或は感狀を與へ、人々も皆羨みて褒め立たりし故、夫に牽れて止むことを得ず、麾を取り、侍大將と言はれしは、主計頭にだまされて、本意を失ひたるなりと。加藤氏亡て後、京に引籠り再び仕を求めずして居たる時、語りけるとぞ。 ○清正の臣、木村又藏、膂力絶倫なり。大阪の輔臣、秀頼の爲めに一勇夫を選み、之が師と爲さんと欲す。衆又藏を推す、又藏之を聞て曰く、吾生平誓ひ、二君に仕へず、征韓の行、母氏と訣る、亦此言を以て其意を安んず、今我君に後る、而て東大阪に食す、是二君に事るなりと、肚を割て死す。聞く者又藏の志を哀み、而て清正の善く士を養ふを偉なりとす。 ○加藤氏亡びて後ち、熊本は細川氏の治城たり。往年、城墻風雨の爲めに壞らる、將に其柱を易んとす、其柱に隱々に文字あり曰く、是良材得易からざるなり、城外某澤中に沈め置けり。後世之を易る者は取りて用ふべしとなり、依て人を遣はし、其澤を探るに、卽ち材木果して山積其深慮斯の如し。
-
名将言行録・『名将言行録』加藤清正 金の熨斗と一番功の裁き○清正の士或時の城乘に、金の熨斗付の大小を差して、塀を越ゆるに後ろより尻を押上る者あり、我を押上るよと思ひ乘上り、後に見れば熨斗付の鞘を切廻はして、金を取られたり。人皆油斷なりと沙汰す。清正聞て、城乘を心として、後を顧みざるは勇士なり、但し金の熨斗付を差したるは、若輩の故なり、戰場へ左樣の美麗なるものをば用ひざることを知らずと覺ゆ、末頼母敷若者なりと言はれけり。又或陣に野陣にて貴辨當を使ふに、或小姓腰兵糧を帶びず、其伯父燒食を與ふ、清正之を見て、少年の華奢風流も時に寄れり、陣中にて兵糧を持ざるは、武備に怠れり、過代に馬を取上べしとて、乘馬を取上げ、伯父若年の者に心を付けて、敎ふべきに、武備勵ましめざる科愆に同じとて、是も馬を取上られたり。 ○清正、宇多尾の城を攻し時、武功の次第を分けしに、庄林隼人一番、森本義太夫二番と定めらる。時に、義太夫立腹して、庄林は首一つも取らず、某は二つを得たり、然るに心得ぬ御計らひ哉と呟き、斯る目の明かざる主人に仕へて益なし、と旣に其座を立たんとす。時に清正之を見て、庄林は首一つも得ざれども、某が箭先を助けて、自分の功を立てず、其方は首二つを得たれども、某が見るを待て、後に捨たり、是自分の功を立て、忠を第二とするものなり、爰を以て庄林第一にして、汝を第二に稱するものなりと言はれしかば、儀太夫義理に服しけり。
-
名将言行録・『名将言行録』加藤清正 譲る心と先に立つ勇彈正右衞門兵衞清忠の子、虎之助と稱す。後從四位下に敍し侍從兼肥後守に任ず。肥後七十二萬石に封ぜられ、熊本城に住す。慶長十六年六月二十四日卒、年五十一。 ○天正九年、秀吉因幡、鳥取を攻めし時、蜂須賀家政を遣はし形勢を覘はしむ。清正之に從ふ、清正曰く、城東の林莽恐くは伏兵あらん、君何ぞ衆を率ゐて往かざる、家政從はず、旣にして伏兵起ろ、清正弓を腰より取り、左右馳射し、敵進むこと能はず、乃ち馬より下り刀を揮ひ、家政と奮戰して、各首二級を獲て還る。秀吉喜びて曰く、清正少なりと雖も、懇懃に、氣雄なり、家政殆んど及ばずと、黃金一鎰を賜はり、秩百石を加ふ。 ○十一年、秀吉、瀧川一益を攻め、龜山を圍む、士卒爭ひ城に登る、城兵近江新七、士衆を勵まし、銃を發し拒戰す。木村十三郎鎗を擧て之を刺んとす、清正旁より馳至り、新七の肩を縱す、十三郎大に怒り其腹を貫く、新七斃る、清正顧みて、我先きに刺すと雖も、之を斃す者は予なりと言て其頭を取らず、秀吉其能く讓るを嘉みし、各賞あり。
-
名将言行録・『名将言行録』加藤清正 刺客を臆病と叱って召す○清正肥後入部の後、一日放鷹に出づ。木陰より誰とも知らぬ大の男走出で、刀を拔て駕籠の眞中を突通す、清正宵の酒に草臥れ、後ろに寄掛り睡眠して居たりし故、身に當らず、駕籠側の者、右の男を搦取る、清正駕籠を据ゑ、何者なれば狼藉なりと尋ねしに、某は所もなく名字もなく、親も子もなく、國右衞門と申者なりと答ふ、子細を嚴しく糺すに、元來棄子にて人となりし故、親兄弟を問へども知らず、一門加藤清正の爲めに亡されたりと云傳ふ計りなり、然らば一度清正を討つて、仇を報ぜんと年來狙ひ廻れども御威勢に壓されて空く月日を送れり、此節を幸に一太刀と思ひ込みけれども、御運に負けて本意を遂げず、無念千萬、言語同斷なり、早や首を刎らるべしと言ふ。清正、聞て天晴肝に毛の生たる曲者哉、汝が一命を助くべし、一念を飜し清正が家來になれと言ふ、國右衞門曰く、忝き仰なれども、御請罷成らず候、其故は一旦御恩を存じ、御奉公仕るとも、數年存込たる念力なれば、逆心を存すべきは必定に候、然らば、早く死を賜はれと望む、其時清正大聲揚げ、兩眼に角を立、己今までは、大剛の者と思ひしに、卑怯千萬の臆病者なりと叱ければ、國右衞門齒噛を爲し臆病とは是非なきことゝ立上る。清正曰く、汝最前一命を捨てずや、實に一命を捨たらば舊染の念は殘すべからず。捨てざる所を臆病とは言ふなり、と瞋て申しゝ時、國右衞門落涙し、有り難き御一言に、乍ち一念晴候、則ち御家來に罷成り御恩を報ずべしと言ふ。清正喜び駕籠より下り是より徒歩にて行くべし、國右衞門刀持てと、腰物を渡し、終日放鷹し、其後彌々側を離れず、段々祿を與へ懇に召使ふ、國右衞門其恩に感じ、蔚山の城にて戰死せり。
-
名将言行録・『名将言行録』加藤清正 不仲の相手を迎えに行く○清正、小西行長と中惡しゝ、秀吉薨じ、諸將皆還り、行長獨り去ること能はず、清正諸將を勵まし反り行長を迎ふ。行長泣て曰く、思はざりき、君の義愛に至らんとは、願くは前憾を釋んと、清正笑て、我國の爲めにして、貴殿の爲めにせず、且つ貴殿は三成に善くして、吾に善きこと能はず、と言はれけり。 ○清正、朝鮮より歸り、或日夜話の時、森本儀太夫、飯田角兵衞、庄林隼人抔、朝鮮在陣中、何事に付ても武功になるべき道筋を見覺えたるやと尋ね、別に是ぞ珍敷と存することなし、但し三ヶ條心得にもなるべきこと之あると申す。清正、我等も三ヶ條あり、去らば面々入札に書て其心を知るべきと。主從四人面々に之を書き見合はせけるに各一致にてありしとぞ。其三條知るものなし。或人曰く、兩山の谷間に蘆の茂りたる處あり、其山上を押通るに、敵三人向ふの山上にて、馬をきり〱と輪乘してありけり。偖は相圖にてこそあるらめとて、蘆の中を探せしに、果して伏兵ありけりと、其三ヶ條の一なりと、殘る二條は知らずと云ふ。