名将言行録 / 『名将言行録』加藤清正 旧友の城へ完全武装で入る
○釜山海より二十日路程の所、日本勢持固め、七八里、或は十里程置て城を構へ、之を絆の城と曰ふ、戶田民部少輔高政は、密陽の城に居り、清正は全州に居れり。然る所に、日本より御用ありとて召歸さる、清正全州より釜山浦へ出で歸朝せんとて打立る、全州より五日目は密陽に着陣の日割なり、高政は舊友なれば、是を喜び城を掃除して馳走の用意懇し、頓て當日になりければ、高政家老眞鍋五郎右衞門、神谷平右衞門の兩人途中まで迎に出だす、午後に兩人密陽の城より、四里程迎ひに出たり。其頃は東西二十日、南北十日路が程は、大半治まり、二十里三十里の間は、敵なければ、迎ひの兩人革羽織革袴にて出たり。然るに清正人數は何れも物具して箪食付け旗指物押張り、鳥銃にも火繩に火を付たり。小姓とても、鐵面頬までして、中々巍敷體なり、妙法の旗押立、磨きの鳥銃五百挺眞先に押立たり。清正は溜塗の具足に金の蛇の目を書き、銀の長帽子の冑の緒をしめ、頬當脛盾膝盾飯簞まで付け、銀の九本馬藺の馬印を自身背に指し、月毛の馬に白泡食はせて來られたり。迎の兩使路を避け、畑中に下馬して居る。清正之を見て、民部よりの迎の使者か御太儀なり、口上聞くに及ばず、追付け夫に着陣致すべし、殊の外垢付小姓共も汚れ候へば、風呂を仰付らるべく下々にも澤山湯を浴せ賜はり候へ、此由先へ戻られ、民部へ宜く申さるべしと高聲に言はるゝに付、迎ひの兩使承はり候とありて、馬に打乘り、先きに歸り、其由を申す、猪清正程なく着陣なり、高政屏電門より迎に出で見れば、大馬印を指し、中々巍敷體なり。條涯にて、高政が小姓兩人寄りて、清正が馬卽を取て、旗籬に立る。清正條へ止ると、高政小姓共寄りて草鞍を解き驕當を取る時に、清正腰に付けたる緋羅子の袋を解き座敷に投入らるゝに、疃と音して落る。
新字:○釜山海より二十日路程の所、日本勢持固め、七八里、或は十里程置て城を構へ、之を絆の城と曰ふ、戸田民部少輔高政は、密陽の城に居り、清正は全州に居れり。然る所に、日本より御用ありとて召帰さる、清正全州より釜山浦へ出で帰朝せんとて打立る、全州より五日目は密陽に着陣の日割なり、高政は旧友なれば、是を喜び城を掃除して馳走の用意懇し、頓て当日になりければ、高政家老真鍋五郎右衛門、神谷平右衛門の両人途中まで迎に出だす、午後に両人密陽の城より、四里程迎ひに出たり。其頃は東西二十日、南北十日路が程は、大半治まり、二十里三十里の間は、敵なければ、迎ひの両人革羽織革袴にて出たり。然るに清正人数は何れも物具して箪食付け旗指物押張り、鳥銃にも火縄に火を付たり。小姓とても、鉄面頬までして、中々巍敷体なり、妙法の旗押立、磨きの鳥銃五百挺真先に押立たり。清正は溜塗の具足に金の蛇の目を書き、銀の長帽子の冑の緒をしめ、頬当脛盾膝盾飯箪まで付け、銀の九本馬藺の馬印を自身背に指し、月毛の馬に白泡食はせて来られたり。迎の両使路を避け、畑中に下馬して居る。清正之を見て、民部よりの迎の使者か御太儀なり、口上聞くに及ばず、追付け夫に着陣致すべし、殊の外垢付小姓共も汚れ候へば、風呂を仰付らるべく下々にも沢山湯を浴せ賜はり候へ、此由先へ戻られ、民部へ宜く申さるべしと高声に言はるゝに付、迎ひの両使承はり候とありて、馬に打乗り、先きに帰り、其由を申す、猪清正程なく着陣なり、高政屏電門より迎に出で見れば、大馬印を指し、中々巍敷体なり。条涯にて、高政が小姓両人寄りて、清正が馬即を取て、旗籬に立る。清正条へ止ると、高政小姓共寄りて草鞍を解き驕当を取る時に、清正腰に付けたる緋羅子の袋を解き座敷に投入らるゝに、疃と音して落る。
書き下し
○釜山海より二十日路程の所、日本勢持固め、七八里、或は十里程置て城を構へ、之を絆の城と曰ふ、戶田民部少輔高政は、密陽の城に居り、清正は全州に居れり。然る所に、日本より御用ありとて召歸さる、清正全州より釜山浦へ出で歸朝せんとて打立る、全州より五日目は密陽に着陣の日割なり、高政は舊友なれば、是を喜び城を掃除して馳走の用意懇し、頓て當日になりければ、高政家老眞鍋五郎右衞門、神谷平右衞門の兩人途中まで迎に出だす、午後に兩人密陽の城より、四里程迎ひに出たり。其頃は東西二十日、南北十日路が程は、大半治まり、二十里三十里の間は、敵なければ、迎ひの兩人革羽織革袴にて出たり。然るに清正人數は何れも物具して箪食付け旗指物押張り、鳥銃にも火繩に火を付たり。小姓とても、鐵面頬までして、中々巍敷體なり、妙法の旗押立、磨きの鳥銃五百挺眞先に押立たり。清正は溜塗の具足に金の蛇の目を書き、銀の長帽子の冑の緒をしめ、頬當脛盾膝盾飯簞まで付け、銀の九本馬藺の馬印を自身背に指し、月毛の馬に白泡食はせて來られたり。迎の兩使路を避け、畑中に下馬して居る。清正之を見て、民部よりの迎の使者か御太儀なり、口上聞くに及ばず、追付け夫に着陣致すべし、殊の外垢付小姓共も汚れ候へば、風呂を仰付らるべく下々にも澤山湯を浴せ賜はり候へ、此由先へ戻られ、民部へ宜く申さるべしと高聲に言はるゝに付、迎ひの兩使承はり候とありて、馬に打乘り、先きに歸り、其由を申す、猪清正程なく着陣なり、高政屏電門より迎に出で見れば、大馬印を指し、中々巍敷體なり。條涯にて、高政が小姓兩人寄りて、清正が馬卽を取て、旗籬に立る。清正條へ止ると、高政小姓共寄りて草鞍を解き驕當を取る時に、清正腰に付けたる緋羅子の袋を解き座敷に投入らるゝに、疃と音して落る。
現代語訳
釜山の海から二十日路ほどの所に、日本の軍勢が持ち固め、七、八里から十里ほどの間を置いて城を構えていました。これを絆の城といいました。戸田民部少輔高政は密陽の城にいて、清正は全州にいました。そのうち、日本から御用があるといって召し帰されることになり、清正は全州から釜山浦へ出て帰国しようと出発しました。全州から五日目に密陽に着陣する日割りでした。高政は旧友なので、これを喜び、城を掃除して馳走の用意を丁寧にしました。やがて当日になると、高政の家老の真鍋五郎右衛門と神谷平右衛門の両人を、途中まで迎えに出しました。午後、両人は密陽の城から四里ほど迎えに出ました。そのころは東西二十日、南北十日の路程のあたりは、大半が治まり、二十里、三十里の間は敵がなかったので、迎えの両人は革羽織に革袴で出ました。ところが清正の人数は、いずれも武具を着け、弁当を付け、旗指物を押し張り、鳥銃にも火縄に火を付けていました。小姓でさえも鉄の面頬をつけ、たいそう厳めしい様子で、妙法の旗を押し立て、磨いた鳥銃五百挺を真っ先に押し立てていました。清正は溜塗の具足に金の蛇の目を描き、銀の長烏帽子形の兜の緒を締め、頬当、脛当、膝当、飯簞までつけ、銀の九本馬藺の馬印を自ら背に差し、月毛の馬に白い泡をくわせて来られました。迎えの両使は道を避け、畑の中で下馬していました。清正はこれを見て、「民部からの迎えの使者か、ご苦労である。口上は聞くまでもない。追っ付け着陣する。ことのほか垢が付いて小姓どもも汚れているので、風呂をお命じいただきたい。下々にもたくさん湯を浴びさせてほしい。このことを先に戻って、民部によろしく申されよ」と高い声で言われたので、迎えの両使は承って、馬に乗り、先に帰り、その旨を申しました。まもなく清正が着陣しました。高政は屏風門から迎えに出て見ると、大馬印を差し、たいそう厳めしい様子でした。縁側で、高政の小姓二人が寄って、清正の馬の口を取って、旗柵に立てました。清正が縁側に止まると、高政の小姓たちが寄って草鞋を解き、籠手を取るとき、清正は腰に付けた緋羅紗の袋を解き、座敷に投げ入れると、どすんと音がして落ちました。
解説

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