名将言行録 / 『名将言行録』加藤清正 明の使者を一蹴する
○文祿二年正月、明將宋應昌等議して曰く、秀吉の將帥皆王城に萃まりしに、獨り加藤清正孤軍を以て咸鏡に在り、聲問通ぜず、虛喝して取るべきなりとありて、辨士の馮仲纓をして、譯を以て清正に說かしめて曰く、和故なく韓を攻む、韓、急を明に告げり。爰を以て明皇帝大に怒り、大兵を遣はし、韓を求め、平壤を復し、開城を復し遂に國都を復し、宇喜田、小西を擒にし、盡く其兵を逐へり。又琉球、暹羅の諸國をして、和境を厭せしむ、然るに足下猶韓を守り、誰の爲めにせんと欲するや、皇帝足下の高義を聞き、使臣をして、爲めに之を報告せしむ。足下の計を爲すに、速に韓の王子を返し、軍を收め、和に歸るに若くはなし。否らずんば、則ち明軍四十萬韓兵を驅りて東し、直ちに安邊に萃まらば、足下明に服せんと欲すと雖も、得んやと。清正之を聞き、侍史をして、答て曰く、清正國命を奉じて戰ふことを知り、明命を聽て、和することを知らざるなり。歸り明主に語れ、我に敵甲凋兵あり、近頃事なきを苦しむ、貴國來り伐つ、旣に命を聞けり、且つ咸鏡の途險阨にして、騎比行すべからず、卒列を爲すを得ず。兵の來る日に一二萬のみ。吾迎て之を擊つに、日に一萬を殺さば、四十日にして之を殲さん、日に二萬を殺さば二十日にして之を殲さん、旣に殲して後ち、西を指し遼を渡り、燕を破り、大駕を海東に奉じ而る後、清正以て復命すべしと。仲纓大に恐愕して遁走せり。
新字:○文禄二年正月、明将宋応昌等議して曰く、秀吉の将帥皆王城に萃まりしに、独り加藤清正孤軍を以て咸鏡に在り、声問通ぜず、虚喝して取るべきなりとありて、弁士の馮仲纓をして、訳を以て清正に説かしめて曰く、和故なく韓を攻む、韓、急を明に告げり。爰を以て明皇帝大に怒り、大兵を遣はし、韓を求め、平壤を復し、開城を復し遂に国都を復し、宇喜田、小西を擒にし、尽く其兵を逐へり。又琉球、暹羅の諸国をして、和境を厭せしむ、然るに足下猶韓を守り、誰の為めにせんと欲するや、皇帝足下の高義を聞き、使臣をして、為めに之を報告せしむ。足下の計を為すに、速に韓の王子を返し、軍を収め、和に帰るに若くはなし。否らずんば、則ち明軍四十万韓兵を駆りて東し、直ちに安辺に萃まらば、足下明に服せんと欲すと雖も、得んやと。清正之を聞き、侍史をして、答て曰く、清正国命を奉じて戦ふことを知り、明命を聴て、和することを知らざるなり。帰り明主に語れ、我に敵甲凋兵あり、近頃事なきを苦しむ、貴国来り伐つ、既に命を聞けり、且つ咸鏡の途険阨にして、騎比行すべからず、卒列を為すを得ず。兵の来る日に一二万のみ。吾迎て之を撃つに、日に一万を殺さば、四十日にして之を殲さん、日に二万を殺さば二十日にして之を殲さん、既に殲して後ち、西を指し遼を渡り、燕を破り、大駕を海東に奉じ而る後、清正以て復命すべしと。仲纓大に恐愕して遁走せり。
書き下し
○文祿二年正月、明將宋應昌等議して曰く、秀吉の將帥皆王城に萃まりしに、獨り加藤清正孤軍を以て咸鏡に在り、聲問通ぜず、虛喝して取るべきなりとありて、辨士の馮仲纓をして、譯を以て清正に說かしめて曰く、和故なく韓を攻む、韓、急を明に告げり。爰を以て明皇帝大に怒り、大兵を遣はし、韓を求め、平壤を復し、開城を復し遂に國都を復し、宇喜田、小西を擒にし、盡く其兵を逐へり。又琉球、暹羅の諸國をして、和境を厭せしむ、然るに足下猶韓を守り、誰の爲めにせんと欲するや、皇帝足下の高義を聞き、使臣をして、爲めに之を報告せしむ。足下の計を爲すに、速に韓の王子を返し、軍を收め、和に歸るに若くはなし。否らずんば、則ち明軍四十萬韓兵を驅りて東し、直ちに安邊に萃まらば、足下明に服せんと欲すと雖も、得んやと。清正之を聞き、侍史をして、答て曰く、清正國命を奉じて戰ふことを知り、明命を聽て、和することを知らざるなり。歸り明主に語れ、我に敵甲凋兵あり、近頃事なきを苦しむ、貴國來り伐つ、旣に命を聞けり、且つ咸鏡の途險阨にして、騎比行すべからず、卒列を爲すを得ず。兵の來る日に一二萬のみ。吾迎て之を擊つに、日に一萬を殺さば、四十日にして之を殲さん、日に二萬を殺さば二十日にして之を殲さん、旣に殲して後ち、西を指し遼を渡り、燕を破り、大駕を海東に奉じ而る後、清正以て復命すべしと。仲纓大に恐愕して遁走せり。
現代語訳
文禄二年正月、明の将である宋応昌らが議して言いました。「秀吉の将帥は皆、王城に集まっているのに、ひとり加藤清正だけが孤軍で咸鏡にいて、音信も通じない。虚勢で脅せば取れるだろう」。そこで弁士の馮仲纓に、通訳を通して清正に説かせました。「和(日本)はいわれなく朝鮮を攻め、朝鮮は急を明に告げた。これによって明の皇帝は大いに怒り、大兵を遣わして朝鮮を救い、平壌を回復し、開城を回復し、ついに国都を回復し、宇喜多、小西を捕らえ、ことごとくその兵を追い払った。また琉球、暹羅の諸国に、和の国境を押さえさせている。それなのに足下はなお朝鮮を守って、誰のためにしようというのか。皇帝は足下の高義を聞き、使臣にこのことを報告させた。足下のために計るなら、速やかに朝鮮の王子を返し、軍を収めて和に帰るのが一番だ。そうでなければ、明軍四十万が朝鮮兵を駆り立てて東し、まっすぐ安辺に集まるだろう。足下は明に服しようとしても、できるだろうか」。清正はこれを聞き、書記に答えさせて言いました。「清正は国命を奉じて戦うことは知っているが、明の命を聞いて和することは知らない。帰って明の主に語れ。我が方には敵に備えた甲と疲れていない兵があり、近ごろ事がなくて苦しんでいる。貴国が来て伐つと言うなら、すでに命は聞いた。また咸鏡の道は険しく狭く、騎馬は並んで進めず、兵は列を作ることができない。兵の来る日は一、二万にすぎないだろう。私が迎えて撃ち、日に一万を殺せば四十日で殲滅し、日に二万を殺せば二十日で殲滅する。殲滅したのち、西に向かい遼を渡り、燕(北京)を破り、大駕を海東に奉じて、その後に清正が復命しよう」。仲纓は大いに恐れ驚いて、逃げ去りました。
解説

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孫子・行軍篇斥沢を絶つには、惟だ亟やかに去りて留まること無かれ。若し軍を斥沢の中に交うれば、必ず水草に依りて衆樹を背にす。此れ斥沢に処るの軍なり。平陸には易きに処りて、右に高きを背にし、前は死し後は生く。此れ平陸に処るの軍なり。凡そ此の四軍の利は、黄帝の四帝に勝ちし所以なり。
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『長短経』地形又た六地有り。通有り、挂有り、支有り、隘有り、険有り、遠有り〔六地の名なり〕。我以て往くべく、彼以て来たるべきを、通と曰う〔俱に平陵に在りて、往来通利なるを謂うなり〕。通地に居りては、先ず其の高陽に処り、糧道を利し、以て戦えば則ち利あり〔寧ろ人を致すも、人に致されず。已に先ず高地に処り、分かちて帰来の路に屯守を為し、敵をして已が糧道を絶たしめざるなり〕。以て往くべく、以て反り難きを、挂と曰う〔挂は相挂牽するなり〕。挂形に曰く、敵備え無くんば、出でて之に勝て。敵備え有らば、出でて勝たずして、以て反り難く、利あらず〔敵備え無くして之を攻むれば、勝つこと可なり。備え有りて之に勝つことを得ざれば、則ち還反し難きなり〕。
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『長短経』地形疾く戦えば則ち存し、疾からざれば則ち亡ぶ者を、死地と為す〔前に高山有り、後ろに大水有り。進めば則ち得ず、退けば復た碍有り、又た糧乏絶す。故に死地と為す。死地に在る者は、当に士卒の尚お飽き、強志殊死なるに及ぶべし。故に以て俱に死すべし。故に経に曰く、死地は、吾将に之に示すに活きざるを以てせんとす、と〕。
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李衛公問対・卷下太宗曰く、「太公云ふ、『歩兵を以て車騎と戦ふ者は、必ず丘墓・険阻に依る』と。又『孫子』に云ふ、『天隙の地、丘墓・故城は、兵処るべからず』と。如何。」靖曰く、
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孫子・地形篇孫子曰く、凡そ地形には通なる者、掛なる者、支なる者、隘なる者、険なる者、遠なる者あり。我も以て往くべく、彼も以て来たるべきを、通と曰う。通形には、先ず高陽に居り、糧道を利にして、以て戦えば則ち利あり。