名将言行録 / 『名将言行録』加藤清正 刺客を臆病と叱って召す
○清正肥後入部の後、一日放鷹に出づ。木陰より誰とも知らぬ大の男走出で、刀を拔て駕籠の眞中を突通す、清正宵の酒に草臥れ、後ろに寄掛り睡眠して居たりし故、身に當らず、駕籠側の者、右の男を搦取る、清正駕籠を据ゑ、何者なれば狼藉なりと尋ねしに、某は所もなく名字もなく、親も子もなく、國右衞門と申者なりと答ふ、子細を嚴しく糺すに、元來棄子にて人となりし故、親兄弟を問へども知らず、一門加藤清正の爲めに亡されたりと云傳ふ計りなり、然らば一度清正を討つて、仇を報ぜんと年來狙ひ廻れども御威勢に壓されて空く月日を送れり、此節を幸に一太刀と思ひ込みけれども、御運に負けて本意を遂げず、無念千萬、言語同斷なり、早や首を刎らるべしと言ふ。清正、聞て天晴肝に毛の生たる曲者哉、汝が一命を助くべし、一念を飜し清正が家來になれと言ふ、國右衞門曰く、忝き仰なれども、御請罷成らず候、其故は一旦御恩を存じ、御奉公仕るとも、數年存込たる念力なれば、逆心を存すべきは必定に候、然らば、早く死を賜はれと望む、其時清正大聲揚げ、兩眼に角を立、己今までは、大剛の者と思ひしに、卑怯千萬の臆病者なりと叱ければ、國右衞門齒噛を爲し臆病とは是非なきことゝ立上る。清正曰く、汝最前一命を捨てずや、實に一命を捨たらば舊染の念は殘すべからず。捨てざる所を臆病とは言ふなり、と瞋て申しゝ時、國右衞門落涙し、有り難き御一言に、乍ち一念晴候、則ち御家來に罷成り御恩を報ずべしと言ふ。清正喜び駕籠より下り是より徒歩にて行くべし、國右衞門刀持てと、腰物を渡し、終日放鷹し、其後彌々側を離れず、段々祿を與へ懇に召使ふ、國右衞門其恩に感じ、蔚山の城にて戰死せり。
新字:○清正肥後入部の後、一日放鷹に出づ。木陰より誰とも知らぬ大の男走出で、刀を抜て駕籠の真中を突通す、清正宵の酒に草臥れ、後ろに寄掛り睡眠して居たりし故、身に当らず、駕籠側の者、右の男を搦取る、清正駕籠を据ゑ、何者なれば狼藉なりと尋ねしに、某は所もなく名字もなく、親も子もなく、国右衛門と申者なりと答ふ、子細を厳しく糺すに、元来棄子にて人となりし故、親兄弟を問へども知らず、一門加藤清正の為めに亡されたりと云伝ふ計りなり、然らば一度清正を討つて、仇を報ぜんと年来狙ひ廻れども御威勢に圧されて空く月日を送れり、此節を幸に一太刀と思ひ込みけれども、御運に負けて本意を遂げず、無念千万、言語同断なり、早や首を刎らるべしと言ふ。清正、聞て天晴肝に毛の生たる曲者哉、汝が一命を助くべし、一念を翻し清正が家来になれと言ふ、国右衛門曰く、忝き仰なれども、御請罷成らず候、其故は一旦御恩を存じ、御奉公仕るとも、数年存込たる念力なれば、逆心を存すべきは必定に候、然らば、早く死を賜はれと望む、其時清正大声揚げ、両眼に角を立、己今までは、大剛の者と思ひしに、卑怯千万の臆病者なりと叱ければ、国右衛門歯噛を為し臆病とは是非なきことゝ立上る。清正曰く、汝最前一命を捨てずや、実に一命を捨たらば旧染の念は残すべからず。捨てざる所を臆病とは言ふなり、と瞋て申しゝ時、国右衛門落涙し、有り難き御一言に、乍ち一念晴候、則ち御家来に罷成り御恩を報ずべしと言ふ。清正喜び駕籠より下り是より徒歩にて行くべし、国右衛門刀持てと、腰物を渡し、終日放鷹し、其後弥々側を離れず、段々禄を与へ懇に召使ふ、国右衛門其恩に感じ、蔚山の城にて戦死せり。
書き下し
○清正肥後入部の後、一日放鷹に出づ。木陰より誰とも知らぬ大の男走出で、刀を拔て駕籠の眞中を突通す、清正宵の酒に草臥れ、後ろに寄掛り睡眠して居たりし故、身に當らず、駕籠側の者、右の男を搦取る、清正駕籠を据ゑ、何者なれば狼藉なりと尋ねしに、某は所もなく名字もなく、親も子もなく、國右衞門と申者なりと答ふ、子細を嚴しく糺すに、元來棄子にて人となりし故、親兄弟を問へども知らず、一門加藤清正の爲めに亡されたりと云傳ふ計りなり、然らば一度清正を討つて、仇を報ぜんと年來狙ひ廻れども御威勢に壓されて空く月日を送れり、此節を幸に一太刀と思ひ込みけれども、御運に負けて本意を遂げず、無念千萬、言語同斷なり、早や首を刎らるべしと言ふ。清正、聞て天晴肝に毛の生たる曲者哉、汝が一命を助くべし、一念を飜し清正が家來になれと言ふ、國右衞門曰く、忝き仰なれども、御請罷成らず候、其故は一旦御恩を存じ、御奉公仕るとも、數年存込たる念力なれば、逆心を存すべきは必定に候、然らば、早く死を賜はれと望む、其時清正大聲揚げ、兩眼に角を立、己今までは、大剛の者と思ひしに、卑怯千萬の臆病者なりと叱ければ、國右衞門齒噛を爲し臆病とは是非なきことゝ立上る。清正曰く、汝最前一命を捨てずや、實に一命を捨たらば舊染の念は殘すべからず。捨てざる所を臆病とは言ふなり、と瞋て申しゝ時、國右衞門落涙し、有り難き御一言に、乍ち一念晴候、則ち御家來に罷成り御恩を報ずべしと言ふ。清正喜び駕籠より下り是より徒歩にて行くべし、國右衞門刀持てと、腰物を渡し、終日放鷹し、其後彌々側を離れず、段々祿を與へ懇に召使ふ、國右衞門其恩に感じ、蔚山の城にて戰死せり。
現代語訳
清正が肥後に入部したのち、ある日、鷹狩りに出ました。木陰から誰とも知れない大男が走り出て、刀を抜いて駕籠の真ん中を突き通しました。清正は前夜の酒に疲れ、後ろに寄り掛かって眠っていたので、身には当たりません。駕籠のそばの者が、その男を取り押さえました。清正は駕籠を据えさせ、「何者か、狼藉である」と尋ねると、「私は所もなく、名字もなく、親も子もなく、国右衛門という者です」と答えます。事情を厳しく問いただすと、もともと捨て子として育ったので、親兄弟を問われても知らず、ただ一門が加藤清正のために滅ぼされたと言い伝えるばかりだ、それならば一度清正を討って仇を報じようと、長年狙い回ったが、御威勢に圧されて空しく月日を送った、この機会を幸いに一太刀と思い込んだが、お運に負けて本意を遂げられず、無念千万、言語道断だ、早く首を刎ねられよ、と言います。清正は聞いて、「あっぱれ、肝に毛の生えた曲者だ。おまえの命を助けよう。一念を翻して、清正の家来になれ」と言いました。国右衛門は、「かたじけない仰せですが、お受けできません。そのわけは、一度は御恩を感じて御奉公しても、数年思い込んだ念力ですから、逆心を抱くのは必定です。それならば早く死を賜りたい」と望みます。その時、清正は大声を上げ、両目を怒らせ、「おまえを今までは大剛の者と思っていたが、卑怯千万の臆病者だ」と叱りました。国右衛門は歯噛みして、「臆病とは是非もない」と立ち上がります。清正は、「おまえは先ほど、命を捨てなかったか。まことに命を捨てたなら、古い恨みは残らないはずだ。捨てきれないところを臆病というのだ」と、怒って言いました。そのとき国右衛門は落涙して、「ありがたいお言葉に、たちまち一念が晴れました。ただちにお家来となり、御恩に報いましょう」と言いました。清正は喜んで駕籠から下り、「ここからは徒歩で行こう。国右衛門、刀を持て」と腰の刀を渡し、終日、鷹狩りをし、その後はいよいよ側を離れず、段々と禄を与えて丁寧に召し使いました。国右衛門はその恩に感じて、蔚山の城で戦死しました。
解説

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