名将言行録 / 『名将言行録』加藤清正 三千石から肥後の大国へ
○十六年、肥後國主佐々陸奧守成政死を賜はり、讃岐國主尾藤甚右衞門知定國除せらる。之に依り、知定が武器殘らず、清正に下し賜ひ、讃岐國を領すべきや、肥後にて二十五萬石領すべきや、兎角の遲答を申べきとの議なり、此時清正知行三千石なり、近き內に、秀吉征韓の內意之ある由、淺野長政窃に告げゝれば、清正此先鋒を望まん爲め、御請に有り難き段、骨髓に徹し存奉り候、同くは肥後の國にて、拜領仕度と申ければ、秀吉聞て、大氣者哉出來したり、去らば小西攝津守をも呼び候へとて、兩人に肥後國五十四萬石の所を、二十五萬石清正、二十四萬石行長に賜はり、殘りは兩人に預けられたり。諸人皆餘りに過分の望み哉と言ひたるに、秀吉聞て、老功の佐々陸奧守さへ治め兼ねたる大國を、若輩なる、主計頭が望みしは、如何樣見所ある者なりと言はれけり。清正熊本へ入部の時、羽翼の臣三十七騎あり、此三十七騎の者、其節俄に抱へたるにはあらず、皆三千石の身上にて、內々扶持し置きたる者なり、三千石より二十五萬石に封ぜられしは古今希なる出身なり、清正時に年二十八。
新字:○十六年、肥後国主佐々陸奥守成政死を賜はり、讃岐国主尾藤甚右衛門知定国除せらる。之に依り、知定が武器残らず、清正に下し賜ひ、讃岐国を領すべきや、肥後にて二十五万石領すべきや、兎角の遅答を申べきとの議なり、此時清正知行三千石なり、近き内に、秀吉征韓の内意之ある由、浅野長政窃に告げゝれば、清正此先鋒を望まん為め、御請に有り難き段、骨髄に徹し存奉り候、同くは肥後の国にて、拝領仕度と申ければ、秀吉聞て、大気者哉出来したり、去らば小西摂津守をも呼び候へとて、両人に肥後国五十四万石の所を、二十五万石清正、二十四万石行長に賜はり、残りは両人に預けられたり。諸人皆余りに過分の望み哉と言ひたるに、秀吉聞て、老功の佐々陸奥守さへ治め兼ねたる大国を、若輩なる、主計頭が望みしは、如何様見所ある者なりと言はれけり。清正熊本へ入部の時、羽翼の臣三十七騎あり、此三十七騎の者、其節俄に抱へたるにはあらず、皆三千石の身上にて、内々扶持し置きたる者なり、三千石より二十五万石に封ぜられしは古今希なる出身なり、清正時に年二十八。
書き下し
○十六年、肥後國主佐々陸奧守成政死を賜はり、讃岐國主尾藤甚右衞門知定國除せらる。之に依り、知定が武器殘らず、清正に下し賜ひ、讃岐國を領すべきや、肥後にて二十五萬石領すべきや、兎角の遲答を申べきとの議なり、此時清正知行三千石なり、近き內に、秀吉征韓の內意之ある由、淺野長政窃に告げゝれば、清正此先鋒を望まん爲め、御請に有り難き段、骨髓に徹し存奉り候、同くは肥後の國にて、拜領仕度と申ければ、秀吉聞て、大氣者哉出來したり、去らば小西攝津守をも呼び候へとて、兩人に肥後國五十四萬石の所を、二十五萬石清正、二十四萬石行長に賜はり、殘りは兩人に預けられたり。諸人皆餘りに過分の望み哉と言ひたるに、秀吉聞て、老功の佐々陸奧守さへ治め兼ねたる大國を、若輩なる、主計頭が望みしは、如何樣見所ある者なりと言はれけり。清正熊本へ入部の時、羽翼の臣三十七騎あり、此三十七騎の者、其節俄に抱へたるにはあらず、皆三千石の身上にて、內々扶持し置きたる者なり、三千石より二十五萬石に封ぜられしは古今希なる出身なり、清正時に年二十八。
現代語訳
十六年、肥後の国主佐々陸奥守成政が死を賜り、讃岐の国主尾藤甚右衛門知定が国を除かれました。これによって、知定の武器を残らず清正に下し賜り、「讃岐の国を領するか、肥後で二十五万石を領するか、ともかく遅くなく返答せよ」という議がありました。このとき清正の知行は三千石でした。近いうちに秀吉が朝鮮出兵をする内意があると、浅野長政がひそかに告げたので、清正はその先鋒を望もうと、「ありがたいお言葉、骨髄に徹します。同じことなら、肥後の国で拝領したく存じます」と申しました。秀吉は聞いて、「大気者が現れたものだ。それでは小西摂津守も呼べ」と言って、両人に肥後の国五十四万石のうちを、二十五万石を清正、二十四万石を行長に賜り、残りは両人に預けました。人々はみな「あまりに過分の望みだ」と言いましたが、秀吉は聞いて、「老練な佐々陸奥守でさえ治めかねた大国を、若輩の主計頭が望んだのは、見どころのある者だからだろう」と言われました。清正が熊本へ入部した時、羽翼の臣三十七騎がありました。この三十七騎は、その時に急に召し抱えたのではなく、皆、三千石の身上のうちからひそかに扶持しておいた者でした。三千石から二十五万石に封ぜられたのは古今まれな出世で、清正はこのとき二十八歳でした。
解説

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