名将言行録 / 『名将言行録』福島正則 老尼への恩返し
○正則、清洲より廣島へ轉封の時、生駒、澤井等當國先方の士に別を告げ、且つ曰く、我等市松とて未だ若き時、工匠の爲めに飴を運びし其隙、甚目寺の釋迦堂の老尼が所に休らひしに、老尼厚く世話し、食を與へ、茶を飮ませ弄せり。我之を忘れず、其後食糧を施し其恩を謝す、今我他所に移らば、老尼便なく思ふべし。貴殿等宜しく老尼を眷顧し賜はりなば、身に取り、何事の幸か之に過ぎ候べきとありければ、諸士何れも承諾し、年々米を贈りしとぞ。 ○嚴島の社に、平清盛寄附の法華經あり、裝飾美麗を盡せり。正則が安藝に守たるの初め、其漸く破損に及ぶを痛み、黑漆蒔繪の辛櫃を寄附しけり。
新字:○正則、清洲より広島へ転封の時、生駒、沢井等当国先方の士に別を告げ、且つ曰く、我等市松とて未だ若き時、工匠の為めに飴を運びし其隙、甚目寺の釈迦堂の老尼が所に休らひしに、老尼厚く世話し、食を与へ、茶を飲ませ弄せり。我之を忘れず、其後食糧を施し其恩を謝す、今我他所に移らば、老尼便なく思ふべし。貴殿等宜しく老尼を眷顧し賜はりなば、身に取り、何事の幸か之に過ぎ候べきとありければ、諸士何れも承諾し、年々米を贈りしとぞ。 ○厳島の社に、平清盛寄附の法華経あり、装飾美麗を尽せり。正則が安芸に守たるの初め、其漸く破損に及ぶを痛み、黒漆蒔絵の辛櫃を寄附しけり。
書き下し
○正則、清洲より廣島へ轉封の時、生駒、澤井等當國先方の士に別を告げ、且つ曰く、我等市松とて未だ若き時、工匠の爲めに飴を運びし其隙、甚目寺の釋迦堂の老尼が所に休らひしに、老尼厚く世話し、食を與へ、茶を飮ませ弄せり。我之を忘れず、其後食糧を施し其恩を謝す、今我他所に移らば、老尼便なく思ふべし。貴殿等宜しく老尼を眷顧し賜はりなば、身に取り、何事の幸か之に過ぎ候べきとありければ、諸士何れも承諾し、年々米を贈りしとぞ。 ○嚴島の社に、平清盛寄附の法華經あり、裝飾美麗を盡せり。正則が安藝に守たるの初め、其漸く破損に及ぶを痛み、黑漆蒔繪の辛櫃を寄附しけり。
現代語訳
正則が清洲から広島へ転封するとき、生駒、沢井らの当国の先方の士に別れを告げ、さらに言った。我らがまだ市松といって若かったころ、工匠のために飴を運んだ、その合間に、甚目寺の釈迦堂の老尼のところで休んだことがあるが、老尼は厚く世話をし、食事を与え、茶を飲ませて相手をしてくれた。我はこれを忘れず、その後、食糧を施してその恩に謝した。いま我が他所に移れば、老尼は不憫であろう。貴殿らがこの老尼を気にかけてくださるなら、身にとって、これ以上の幸いはない、と。諸士はいずれも承諾し、毎年米を贈ったという。 厳島の社には、平清盛が寄付した法華経があり、装飾の美しさを尽くしていた。正則が安芸の守となった初めに、その経がようやく破損に及ぶことを痛み、黒漆蒔絵の辛櫃を寄付した。
解説

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