名将言行録 / 『名将言行録』福島正則 小山で最初に旗を挙げる
○此時上方又亂れぬと聞えければ、家康諸將を悉く小山の陣に召し、上方又亂れぬと聞ゆ。人々の室悉く大阪に在り、家康此事を思ふだに心苦し、況や人々の心思ひ知られぬ。抑々弓箭執る身の習、今日味方と見えしも、明日は敵とならんこと珍しからず。去らば、今人々の敵に組せられんにも、家康如何で恨を殘すべき、家康若し勝軍したらん後、人々の見參に入らん時、今までの好み忘るべからず、疾く〳〵是より引返して、大阪に歸らるべしと言はる。諸將未だ申出す言葉もなかりし所に、正則一人進み出で、上方の軍起りしこと、風聞に及ぶ所、大阪の奉行等、秀賴公の仰を蒙りて、天下の軍勢を催すとこそ承はれ、秀賴公、御歳僅八歳にこそ成らせ給へば、如何で斯る御結構やあるべき、是偏に石田三成が謀にて、天下を知らんずる條疑ふべからず、人々の心如何にもあれ、正則に於ては、關東の御味方として、彼兇徒等を誅伐せんと申ければ、諸將皆其言に從ふ。家康喜ばるゝこと淺からず。 ○此時、家康諸將を會し、先づ景勝を攻むべきや、又關西へ攻上るべきやと、其意見を問はる。正則、景勝が叛逆も必竟石田より事起りし上は、先づ、上方の賊徒を亡され然るべきなり。德川殿、諸將を率るて攻上り給はば、正則に於ては、居城清洲を避け渡し奉り、貯へ置く所の兵糧を諸軍勢に配分し、先陣たらん由、望み申ければ、群議之に落著し、清洲、吉田は上方の手先なればとて、魁首は正則、次に池田輝政と議定せられ、正則には黑の駿馬を賜はれり。
新字:○此時上方又乱れぬと聞えければ、家康諸将を悉く小山の陣に召し、上方又乱れぬと聞ゆ。人々の室悉く大阪に在り、家康此事を思ふだに心苦し、況や人々の心思ひ知られぬ。抑々弓箭執る身の習、今日味方と見えしも、明日は敵とならんこと珍しからず。去らば、今人々の敵に組せられんにも、家康如何で恨を残すべき、家康若し勝軍したらん後、人々の見参に入らん時、今までの好み忘るべからず、疾く〳〵是より引返して、大阪に帰らるべしと言はる。諸将未だ申出す言葉もなかりし所に、正則一人進み出で、上方の軍起りしこと、風聞に及ぶ所、大阪の奉行等、秀頼公の仰を蒙りて、天下の軍勢を催すとこそ承はれ、秀頼公、御歳僅八歳にこそ成らせ給へば、如何で斯る御結構やあるべき、是偏に石田三成が謀にて、天下を知らんずる条疑ふべからず、人々の心如何にもあれ、正則に於ては、関東の御味方として、彼兇徒等を誅伐せんと申ければ、諸将皆其言に従ふ。家康喜ばるゝこと浅からず。 ○此時、家康諸将を会し、先づ景勝を攻むべきや、又関西へ攻上るべきやと、其意見を問はる。正則、景勝が叛逆も必竟石田より事起りし上は、先づ、上方の賊徒を亡され然るべきなり。徳川殿、諸将を率るて攻上り給はば、正則に於ては、居城清洲を避け渡し奉り、貯へ置く所の兵糧を諸軍勢に配分し、先陣たらん由、望み申ければ、群議之に落著し、清洲、吉田は上方の手先なればとて、魁首は正則、次に池田輝政と議定せられ、正則には黒の駿馬を賜はれり。
書き下し
○此時上方又亂れぬと聞えければ、家康諸將を悉く小山の陣に召し、上方又亂れぬと聞ゆ。人々の室悉く大阪に在り、家康此事を思ふだに心苦し、況や人々の心思ひ知られぬ。抑々弓箭執る身の習、今日味方と見えしも、明日は敵とならんこと珍しからず。去らば、今人々の敵に組せられんにも、家康如何で恨を殘すべき、家康若し勝軍したらん後、人々の見參に入らん時、今までの好み忘るべからず、疾く〳〵是より引返して、大阪に歸らるべしと言はる。諸將未だ申出す言葉もなかりし所に、正則一人進み出で、上方の軍起りしこと、風聞に及ぶ所、大阪の奉行等、秀賴公の仰を蒙りて、天下の軍勢を催すとこそ承はれ、秀賴公、御歳僅八歳にこそ成らせ給へば、如何で斯る御結構やあるべき、是偏に石田三成が謀にて、天下を知らんずる條疑ふべからず、人々の心如何にもあれ、正則に於ては、關東の御味方として、彼兇徒等を誅伐せんと申ければ、諸將皆其言に從ふ。家康喜ばるゝこと淺からず。 ○此時、家康諸將を會し、先づ景勝を攻むべきや、又關西へ攻上るべきやと、其意見を問はる。正則、景勝が叛逆も必竟石田より事起りし上は、先づ、上方の賊徒を亡され然るべきなり。德川殿、諸將を率るて攻上り給はば、正則に於ては、居城清洲を避け渡し奉り、貯へ置く所の兵糧を諸軍勢に配分し、先陣たらん由、望み申ければ、群議之に落著し、清洲、吉田は上方の手先なればとて、魁首は正則、次に池田輝政と議定せられ、正則には黑の駿馬を賜はれり。
現代語訳
このとき、上方でまた乱が起きたと聞こえたので、家康は諸将をことごとく小山の陣に召し、上方でまた乱が起きたと聞く。人々の妻子はみな大坂にいる。家康はこのことを思うだけでも心苦しいのに、まして人々の心中が思いやられる。そもそも弓矢を執る身の習いとして、今日味方に見えた者が、明日は敵となることも珍しくない。それならば、いま人々が敵方に組したとしても、家康はどうして恨みを残そう。家康がもし勝ち軍をしたら、人々の見参に入るとき、今までの好誼を忘れることはない。早くここから引き返して、大坂へ帰られよ、と言われた。諸将がまだ申し出る言葉もなかったところに、正則が一人進み出て言った。上方で軍が起こったことは風聞に及んでいる。大坂の奉行らは、秀頼公の仰せを受けて、天下の軍勢を催すと承る。しかし秀頼公はわずか八歳であられるから、どうしてこのようなお取り計らいがあろうか。これはひとえに石田三成の謀で、天下を取ろうとするものであることは疑いない。人々の心はどうであれ、正則においては、関東のお味方として、あの兇徒どもを誅伐しよう、と申したので、諸将はみなその言葉に従った。家康が喜ばれたことは浅くなかった。 このとき、家康が諸将を集め、まず景勝を攻めるべきか、それとも関西へ攻め上るべきかと、その意見を問われた。正則は言った。景勝の叛逆も、結局は石田から事が起こったものである以上、まず上方の賊徒を滅ぼすのがよい。徳川殿が諸将を率いて攻め上られるなら、正則は居城の清洲を明け渡し、貯えている兵糧を諸軍勢に配分して、先陣となりたい、と望み申し出たので、群議はこれに落ち着き、清洲、吉田は上方の手先であるから、先陣の筆頭は正則、次に池田輝政と取り決められ、正則には黒の駿馬が賜られた。
解説

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