名将言行録 / 『名将言行録』福島正則 豊臣家へ諫めの書
○十九年三月、大阪より前田利長に贈りし書に、豐臣家御年、既に盛に成らせ給ひぬ、須く早く大阪に參り輔け參らせらるべき所なり。今城中に在る所の兵粮七萬石、又正則等が年頃儲し三萬石、其餘金銀資貨、軍の料乏しからずと載せたり。此年九月、大阪の役起りし時、正則を始めとして、加藤肥後守忠廣等が大阪に在りし米穀、悉く大阪に參らす、同十月、正則、秀賴母子を諫むるの書に曰く、此度大佛修造のことに付て、兩御所恨み給ふべき御結構是只事とも覺えず、偏に御家運の傾かせ給ふべき時至りぬ。只須く御母子の御心を改められ御愆を謝し申るれんが爲め、御母上をして駿府江戸の間に參らせ置るべき所なり、正則、年來關東の御恩蒙る身と成りて、二心を思はず、妻子又關東に在り、今諫め參らするに從はせ給はざらんには、正則天下の軍勢に先立て馳向ひ、速かに御勢を打破て參らせん、其時に至りて悔ませ給ふとも、其甲斐あるべからず、御家運の目出度渡らせ給はんも、左なからんも、御計ひにこそよるべけれ、と載せたり。
新字:○十九年三月、大阪より前田利長に贈りし書に、豊臣家御年、既に盛に成らせ給ひぬ、須く早く大阪に参り輔け参らせらるべき所なり。今城中に在る所の兵粮七万石、又正則等が年頃儲し三万石、其余金銀資貨、軍の料乏しからずと載せたり。此年九月、大阪の役起りし時、正則を始めとして、加藤肥後守忠広等が大阪に在りし米穀、悉く大阪に参らす、同十月、正則、秀頼母子を諫むるの書に曰く、此度大仏修造のことに付て、両御所恨み給ふべき御結構是只事とも覚えず、偏に御家運の傾かせ給ふべき時至りぬ。只須く御母子の御心を改められ御愆を謝し申るれんが為め、御母上をして駿府江戸の間に参らせ置るべき所なり、正則、年来関東の御恩蒙る身と成りて、二心を思はず、妻子又関東に在り、今諫め参らするに従はせ給はざらんには、正則天下の軍勢に先立て馳向ひ、速かに御勢を打破て参らせん、其時に至りて悔ませ給ふとも、其甲斐あるべからず、御家運の目出度渡らせ給はんも、左なからんも、御計ひにこそよるべけれ、と載せたり。
書き下し
○十九年三月、大阪より前田利長に贈りし書に、豐臣家御年、既に盛に成らせ給ひぬ、須く早く大阪に參り輔け參らせらるべき所なり。今城中に在る所の兵粮七萬石、又正則等が年頃儲し三萬石、其餘金銀資貨、軍の料乏しからずと載せたり。此年九月、大阪の役起りし時、正則を始めとして、加藤肥後守忠廣等が大阪に在りし米穀、悉く大阪に參らす、同十月、正則、秀賴母子を諫むるの書に曰く、此度大佛修造のことに付て、兩御所恨み給ふべき御結構是只事とも覺えず、偏に御家運の傾かせ給ふべき時至りぬ。只須く御母子の御心を改められ御愆を謝し申るれんが爲め、御母上をして駿府江戸の間に參らせ置るべき所なり、正則、年來關東の御恩蒙る身と成りて、二心を思はず、妻子又關東に在り、今諫め參らするに從はせ給はざらんには、正則天下の軍勢に先立て馳向ひ、速かに御勢を打破て參らせん、其時に至りて悔ませ給ふとも、其甲斐あるべからず、御家運の目出度渡らせ給はんも、左なからんも、御計ひにこそよるべけれ、と載せたり。
現代語訳
十九年三月、大坂から前田利長に贈った書に、豊臣家はお年もすでに盛んになられ、早く大坂に参上してお助けすべきところだ。いま城中にある兵糧は七万石、また正則らが年ごろ蓄えた三万石、そのほか金銀や資財もあり、軍の費えには事欠かないと記してあった。この年の九月、大坂の役が起こったとき、正則をはじめとして、加藤肥後守忠広らが大坂に置いていた米穀は、ことごとく大坂へ差し出された。同十月、正則が秀頼母子を諫める書に言う。この度、大仏修造のことについて、両御所が恨まれるようなご措置は、ただ事とは思えず、ひとえに御家運が傾く時が至ったのである。ただ、御母子の御心を改められ、過ちを謝し申されるために、御母上を駿府、江戸の間にお参りさせ置かれるべきところだ。正則は、長年関東の御恩を蒙る身となって、二心を思わず、妻子もまた関東にある。いま諫め申し上げるのに従われないなら、正則は天下の軍勢に先立って馳せ向かい、速やかにお勢を打ち破り申そう。そのときに至って悔やまれても、その甲斐はあるまい。御家運のめでたく続かれるも、そうでないも、ご計らいによるのである、と記してあった。
解説

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名将言行録・『名将言行録』福島正則 小山で最初に旗を挙げる○此時上方又亂れぬと聞えければ、家康諸將を悉く小山の陣に召し、上方又亂れぬと聞ゆ。人々の室悉く大阪に在り、家康此事を思ふだに心苦し、況や人々の心思ひ知られぬ。抑々弓箭執る身の習、今日味方と見えしも、明日は敵とならんこと珍しからず。去らば、今人々の敵に組せられんにも、家康如何で恨を殘すべき、家康若し勝軍したらん後、人々の見參に入らん時、今までの好み忘るべからず、疾く〳〵是より引返して、大阪に歸らるべしと言はる。諸將未だ申出す言葉もなかりし所に、正則一人進み出で、上方の軍起りしこと、風聞に及ぶ所、大阪の奉行等、秀賴公の仰を蒙りて、天下の軍勢を催すとこそ承はれ、秀賴公、御歳僅八歳にこそ成らせ給へば、如何で斯る御結構やあるべき、是偏に石田三成が謀にて、天下を知らんずる條疑ふべからず、人々の心如何にもあれ、正則に於ては、關東の御味方として、彼兇徒等を誅伐せんと申ければ、諸將皆其言に從ふ。家康喜ばるゝこと淺からず。 ○此時、家康諸將を會し、先づ景勝を攻むべきや、又關西へ攻上るべきやと、其意見を問はる。正則、景勝が叛逆も必竟石田より事起りし上は、先づ、上方の賊徒を亡され然るべきなり。德川殿、諸將を率るて攻上り給はば、正則に於ては、居城清洲を避け渡し奉り、貯へ置く所の兵糧を諸軍勢に配分し、先陣たらん由、望み申ければ、群議之に落著し、清洲、吉田は上方の手先なればとて、魁首は正則、次に池田輝政と議定せられ、正則には黑の駿馬を賜はれり。