名将言行録 / 『名将言行録』福島正則 家老が選んだ家の存続
○之に依り丹波石見、正勝の前に出て、丹波曰く、今度大阪に與力せられなば、其勢を以て大阪に服歸する者多からん、大阪方勝利ならんには、福島家の繁榮は勿論なり、又大阪方打負け自害すとも、武名後昆に傳はらん、關東に一味したりとも、定めて本意とは思はれじ、且つ世間の誹も口惜かるべし、石見は如何思はれしやとありければ、石見之を聞き、尤もなり、去れども、目前に父公を捨殺し給はんこと、天命の絶する所、人情の惡む所なり、天下の大軍を引受け、大阪方の勝利ならんこと、主の道、將の能を比するに千に一利もあるべからず、然らば即ち時勢を慮り家を立、身を存せんこそ宜しかるべけれ、と言ければ、石見が議に任せて、關東にぞ興しける。 ○太阪參役、正則江戸に在り、城堅固にて落難しと注進ありければ、正則聞き、要害宜き城に、名ある浪人共籠りし故と言ふ。又頓て落去に及ぶべしとありければ、正則城は持手貴手に寄れば、覺悟の前よと言ふ、又扱に成り、無事に濟むと申すとの注進を聞や否や、氣を打ち南無三寶、去ればこそして、城は取られたると言はれけり。 ○正則曰く、馬上にて鎗を以て人を突く時は、不圖落馬することあり、馬に突せたるが宜しと。又曰く、馬は小なるが宜し、具足著て大馬に乘り惡きものなり。又鎗を短くすべからず、廣場足入船軍杯には、一寸も長くしたきものなりと。
新字:○之に依り丹波石見、正勝の前に出て、丹波曰く、今度大阪に与力せられなば、其勢を以て大阪に服帰する者多からん、大阪方勝利ならんには、福島家の繁栄は勿論なり、又大阪方打負け自害すとも、武名後昆に伝はらん、関東に一味したりとも、定めて本意とは思はれじ、且つ世間の誹も口惜かるべし、石見は如何思はれしやとありければ、石見之を聞き、尤もなり、去れども、目前に父公を捨殺し給はんこと、天命の絶する所、人情の悪む所なり、天下の大軍を引受け、大阪方の勝利ならんこと、主の道、将の能を比するに千に一利もあるべからず、然らば即ち時勢を慮り家を立、身を存せんこそ宜しかるべけれ、と言ければ、石見が議に任せて、関東にぞ興しける。 ○太阪参役、正則江戸に在り、城堅固にて落難しと注進ありければ、正則聞き、要害宜き城に、名ある浪人共籠りし故と言ふ。又頓て落去に及ぶべしとありければ、正則城は持手貴手に寄れば、覚悟の前よと言ふ、又扱に成り、無事に済むと申すとの注進を聞や否や、気を打ち南無三宝、去ればこそして、城は取られたると言はれけり。 ○正則曰く、馬上にて鎗を以て人を突く時は、不図落馬することあり、馬に突せたるが宜しと。又曰く、馬は小なるが宜し、具足著て大馬に乗り悪きものなり。又鎗を短くすべからず、広場足入船軍杯には、一寸も長くしたきものなりと。
書き下し
○之に依り丹波石見、正勝の前に出て、丹波曰く、今度大阪に與力せられなば、其勢を以て大阪に服歸する者多からん、大阪方勝利ならんには、福島家の繁榮は勿論なり、又大阪方打負け自害すとも、武名後昆に傳はらん、關東に一味したりとも、定めて本意とは思はれじ、且つ世間の誹も口惜かるべし、石見は如何思はれしやとありければ、石見之を聞き、尤もなり、去れども、目前に父公を捨殺し給はんこと、天命の絶する所、人情の惡む所なり、天下の大軍を引受け、大阪方の勝利ならんこと、主の道、將の能を比するに千に一利もあるべからず、然らば即ち時勢を慮り家を立、身を存せんこそ宜しかるべけれ、と言ければ、石見が議に任せて、關東にぞ興しける。 ○太阪參役、正則江戸に在り、城堅固にて落難しと注進ありければ、正則聞き、要害宜き城に、名ある浪人共籠りし故と言ふ。又頓て落去に及ぶべしとありければ、正則城は持手貴手に寄れば、覺悟の前よと言ふ、又扱に成り、無事に濟むと申すとの注進を聞や否や、氣を打ち南無三寶、去ればこそして、城は取られたると言はれけり。 ○正則曰く、馬上にて鎗を以て人を突く時は、不圖落馬することあり、馬に突せたるが宜しと。又曰く、馬は小なるが宜し、具足著て大馬に乘り惡きものなり。又鎗を短くすべからず、廣場足入船軍杯には、一寸も長くしたきものなりと。
現代語訳
これを受けて、丹波と石見は正勝の前に出た。丹波が言った。今度大坂に与力されれば、その勢いで大坂に服する者は多いでしょう。大坂方が勝利するなら、福島家の繁栄は言うまでもありません。また大坂方が負けて自害しても、武名は後世に伝わるでしょう。関東に一味しても、きっと本意とは思われますまい。そのうえ世間の非難も口惜しいでしょう。石見はどう思われますか、と言うと、石見は、もっともです。しかし、目の前で父君を捨て殺しになさることは、天命の絶えるところ、人情の憎むところです。天下の大軍を引き受けて、大坂方が勝利することは、主の道、将の能を比べて、千に一つの利もありますまい。そうであれば、時勢を考え、家を立て、身を保たれるのが良いでしょう、と言ったので、石見の議に任せて、関東に与することにした。 大坂の役のとき、正則は江戸にいたが、城が堅固で落ちにくいと注進があると、正則は聞いて、要害のよい城に、名のある浪人たちが籠もったからだ、と言った。また、まもなく落城に及ぶだろうとの注進があると、正則は、城は持ち手と攻め手によるものだ、覚悟のうちだ、と言った。さらに和議となり、無事に済んだとの注進を聞くやいなや、はっと気づいて、南無三宝、それこそ、城は取られたのだ、と言った。 正則は言った。馬上で槍で人を突くときは、ふと落馬することがある。馬に突かせるのがよい。また、馬は小さいのがよい。具足をつけて大馬に乗るのはよくないものだ。また槍を短くしてはならない。広い場所や足入り船軍などには、一寸でも長くしたいものだ、と。
解説

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