名将言行録 / 『名将言行録』大谷吉隆 才智で登用された賢人
盛治の子、平馬と稱す。後刑部少輔に任じ、敦賀六萬石に封ぜらる、五奉行の一人なり。初め吉繼、後今の名に改む。慶長五年九月十五日戰死、年四十二。 ○吉隆は大友家の臣なり、大友家亡し時、浪遊し、姫路に來り、石田三成に寄り、秀吉に仕ふ。知行百五十石を取れり。人となり、才智聰穎勤勞倦まず、能く秀吉の心に叶へり。後累りに登庸せられ、敦賀六萬石に封ぜられ、奉行となる、吉隆汎く衆を愛し、智勇を兼ね、能く邪正を辨ず、世人稱して賢人と言ひしとぞ。 ○朝鮮にて、仕寄を付けし場へ吉隆至りし時、爰は矢玉の澤山來る所なれば、あれへ退かれよと申すものあり、吉隆之を聞き、其所を去らず、暫く立あがり、運の矢は一本のものよと言ひしとぞ。
新字:盛治の子、平馬と称す。後刑部少輔に任じ、敦賀六万石に封ぜらる、五奉行の一人なり。初め吉継、後今の名に改む。慶長五年九月十五日戦死、年四十二。 ○吉隆は大友家の臣なり、大友家亡し時、浪遊し、姫路に来り、石田三成に寄り、秀吉に仕ふ。知行百五十石を取れり。人となり、才智聰穎勤労倦まず、能く秀吉の心に叶へり。後累りに登庸せられ、敦賀六万石に封ぜられ、奉行となる、吉隆汎く衆を愛し、智勇を兼ね、能く邪正を弁ず、世人称して賢人と言ひしとぞ。 ○朝鮮にて、仕寄を付けし場へ吉隆至りし時、爰は矢玉の沢山来る所なれば、あれへ退かれよと申すものあり、吉隆之を聞き、其所を去らず、暫く立あがり、運の矢は一本のものよと言ひしとぞ。
書き下し
盛治の子、平馬と稱す。後刑部少輔に任じ、敦賀六萬石に封ぜらる、五奉行の一人なり。初め吉繼、後今の名に改む。慶長五年九月十五日戰死、年四十二。 ○吉隆は大友家の臣なり、大友家亡し時、浪遊し、姫路に來り、石田三成に寄り、秀吉に仕ふ。知行百五十石を取れり。人となり、才智聰穎勤勞倦まず、能く秀吉の心に叶へり。後累りに登庸せられ、敦賀六萬石に封ぜられ、奉行となる、吉隆汎く衆を愛し、智勇を兼ね、能く邪正を辨ず、世人稱して賢人と言ひしとぞ。 ○朝鮮にて、仕寄を付けし場へ吉隆至りし時、爰は矢玉の澤山來る所なれば、あれへ退かれよと申すものあり、吉隆之を聞き、其所を去らず、暫く立あがり、運の矢は一本のものよと言ひしとぞ。
現代語訳
盛治の子。平馬と称した。後に刑部少輔に任じられ、敦賀六万石に封ぜられた。五奉行の一人である。初めは吉継、後に今の名に改めた。慶長五年九月十五日、戦死。年四十二。 吉隆は大友家の家臣であった。大友家が滅んだ時、各地を放浪し、姫路に来て、石田三成を頼り、秀吉に仕えた。知行は百五十石を取った。人柄は才知が優れ、勤勉で倦まず、よく秀吉の心に適った。後にたびたび登用され、敦賀六万石に封ぜられ、奉行となった。吉隆は広く人々を愛し、智勇を兼ね、よく邪正を弁えた。世の人は賢人と称したという。 朝鮮で、攻撃用の陣を築いた場所へ吉隆が行った時、「ここは矢玉がたくさん来るところですから、あちらへ退かれよ」と言う者があった。吉隆はこれを聞いて、その場を去らず、しばらく立ち上がって、「運の矢は一本のものだ」と言ったという。
解説

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名将言行録・『名将言行録』大谷吉隆 智勇を兼ねた人○吉隆、人となり奇略衆に超え、勇決群に挺せり、夙に秀吉の寵任を受けたり。癩を病み明を失ふに及びて、五奉行の職を辭す、然れども、秀吉其材を惜みて許さず、吉隆病と稱して出でず。關ヶ原の役、起るに及びて、石田三成に與し、終に之が謀主と爲る。去れども、其志に非ざるなり。吉隆、固より三成の敗るべきを知り、之を諫むること再三、去れども三成意既に決して、竟に回すこと能はず。吉隆止むを得ず、死を以て之に許るし、北國を經略し、士卒を訓練すること臂の指を使ふが如し。府中の城を攻めずして、直ちに北庄を救ひ、咫尺の書を馳せて、金澤の大軍を却く、其兵機に曉暢すること率ね斯の如し。東西鏖戰の日に及び、豫め金吾秀秋の異圖あることを知り、六百の精銳を選び、八千の勁兵に抗す、士卒皆其惠に懷き、敢て離叛する者なし。其敗るゝに及びて、決然として自屠し、僇辱を受けず、人皆其智勇に服せり。初め東方の諸將會談の時、曰く、今度上方勢の内、晴なる討死すべき者は、大谷吉隆、戸田重政なるべしと、何れも許しけるが、爰に至つて果して然り。
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名将言行録・『名将言行録』大谷吉隆 城より徳を恃め○吉隆、佐和山に至りし時、三成城を堅固に普請せし由を語る。吉隆聞て、凡そ城を堅固にするは、敵地抔に砦を構へ、本城より後詰するに便り能き所こそ、縄張を考へ、要害を構ふべし。然るに貴殿は出て働く大將なれば、城普請は入らざる覺悟なり。只大將の要害は德に在り、德ある所、天下之に歸すと言へば、城普請は抑々末なり、是地利人和に若かざる所なりと言はれけり。 ○同時、吉隆、三成に向ひ、貴殿は實に天下無雙の才覺人なり、誰か之に對せんや、然れども、肝要の所、惡しければ、以來は能々分別あられよと言ふ。三成、其故を問ふ、吉隆夫は、貴殿の心にて候、必ず死せんと思はゞ、萬に一つも生き、生んと思はゞ必ず死するものなり、貴殿才覺は餘れども、一大事の所不足なりと言はれけり。
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名将言行録・『名将言行録』大谷吉隆 最期と家臣の忠且つ清洲の侍從味方へ送くる書狀の内に、兇徒退治とある文言を見て、人々手を拍て笑ひあへり、是等は小事なれども、事の序なりとて、使者に物語せり。吉隆及び秀家の返答ありし後は、上方の諸將を關東の味方に誘引才覺止みしとぞ。 ○關ヶ原の役、平塚因幡守爲廣、敵餘多討取り、其首を我に送り、此首自ら打取りたり、冥途の土產に參らせ候、日頃の約束只今討死し候なん、貴所にも疾く自害せられて、人手に掛られまじと言遣はし、外に歌一首書副へあり、『名の爲めに、捨る命は、惜からじ、終に留まらぬ、浮世と思へば。』吉隆使に向て、武勇と云ひ、和歌と云ひ、感ずるに餘りあり、早や自害して、追付き再會すべしと答て、甥の祐玄と曰ふ僧に、返しを書せ、使に渡たす、其歌に曰く、『契りあれば、六つの衢に、待てしばし、後れ先立つ、ことはありとも。』吉隆、松尾山に向ひて曰く、悔ゆ無道の人と事を興にしたろことを、三年を出でずして、吾此恨を報ぜんと、此時湯淺五助、敵の首を提げて馳せ歸り、涙を流して曰く、我軍反擊者の爲めに崩壞し、平塚以下の將士戰死する者過半、今此事を報ぜんが爲めに、此に來れるなりと。吉隆之を聞き、終に割腹して死す、五助之れを介錯し、三浦喜太夫、其首を羽織に包み竊に水田の泥中に埋隱し、後喜太夫も、亦割腹して死す。吉隆が兵士五助等以下二百五十餘人、皆敵軍に進入して、悉く之に戰死せり。蓋し吉隆、平日家臣に對して慈心深く、義を以て之を獎勵せし故、皆命を致して其恩に報ぜりと云ふ。
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名将言行録・『名将言行録』大谷吉隆 勝算なき挙兵への諫言一豐、又內府平生の行跡を案ずるに、事急ならずして理に當ること多し、天理を專とし、人の和を本とす。是賢德の人ならん、必ず後には天下の主たるべきかと言ふ。吉隆笑て、誰が思慮するも同じかるべし、斯の如き事は、言ふべからずと言て、別れにけり。 ○會津の役、吉隆東下せんとし、其子大學助吉久、□木下山城守賴經等と、一千餘人を率ひ、伏見を出て、垂井の驛に至る。石田三成、樫原彦右衞門をして、之を要す。吉隆、樫原に逢ひ、其故を問ふ、對ふるに、三成が兵を擧るのことを以てす。吉隆、內府政を執り私ありと雖も、必ず秀賴公を廢するに至らず、今景勝同僚と謀を合はせ、內府をして、關東に赴かしむるは、良圖と言べし、然れども、事の成否豫め料る所にあらず、何にとなれば、三成才ありと雖も、而も世之を惡む者甚だ多し、是三成自ら取る所なり、今大事を擧げ人の上たらんと欲せば、衆心必ず悅服せず、宜しく、秀家輝元を以て主將とし、景勝と、定議し、東西夾擊せば、則ち志を得べし、若し然る能はずんば則ち數月の間、景勝、內府を牽制すと雖も、關西の軍輯睦なること能はず、內府旆を反し西上せば、則ち事甚だ危し、宜しく此言を以て、三成を諫むべし。我亦繼ぎ往ん、汝宜しく先づ歸るべしと言ふ。吉隆、父子繼ぎ、佐和山に至る、三成大に喜びて之を享す。吉隆、其方略を問ふ。三成、西國毛利一門、島津、小西、其餘豪傑、大阪に來集すること近きにあり。信濃に眞田あり、大家にあらずと雖も、勇武絕倫、且つ內府と怨隙あり、常陸に佐竹あり、下野に多賀谷あり、相馬、秋田の諸將に至つては、皆景勝と謀を通ず、內府兵を交ゆるの日に方り、關西の諸將旗を箱根に建て、東國の諸將と、三面より入り攻め、一擧して江戶を平定せんと言ふ。吉隆涙を流し今天下事なきに、故なく之を擾り竟に人手に落んとす、誠に悲むべきなり。貴殿の言はるゝ所、皆勝算にあらず、譬ば奕棋の如し。先づ成算あり、以爲く吾能く斯の如く、彼必ず斯の如くせんと、然る後、吾能く勝を制す。此中人の奕なり。
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名将言行録・『名将言行録』大谷吉隆 勝てぬ五つの理由若し國手に逢はゞ、則ち道を爭ひ、子を下だす、必ず意料の外に出でん、今大事を擧ぐるに、五の不可あり、內府旣に五老の上に班し、威權日に重し、天下諸將皆攀附して之を慕ふ、貴殿或は五十萬石を領せば、猶之可なるが如し、國小、位卑く、人歸嚮せざる一なり。今天下大國を治むる者、輝元とあり、內府關東八州を治む、其餘諸州大莊園多し、天下復た其比なし。加ふるに、人望の歸する所皆內府にあり、二なり。內府壯年より數々甲冑、駿河の敵と戰ひ、兵機に老練せり、長湫の一戰、義勇彰聞せり。今の世にあり、誰か能く之に敵せん、三なり。昔信長士を好み、毎に諸家の名士を書し、其善者を擇び之を勾畫す、其時に方り、内府僅に三河一國を領し、畫を下だす者十九人、皆知名の士と爲す。今又其幾千なるを知らず、世人の稱する所、井伊、本多、榊原、酒井、大久保、平岩、大須賀、鳥居の徒是なり。貴殿能く斯の如き輩あるを得んや、四なり。凡そ子孫を思ふは、人の常情、内府部下の士死する者あれば則ち襁褓に在りとも必ず祿を世々にす。故に人之を親むこと父母の如し。今諸將誰か能く此仁心あらんや、五なり。此五つのもの、人皆難ずる所にして、内府之を兼ぬ。其敵すべからざる明かなりと言ふ。三成然らず、兵に常勢なく、變化測るべからず。今東西の大軍、皆其心を一にして以て、内府を擊たば、勝ざることなけんと言ふ。吉隆、貴殿の料らるる所、皆非なり、謀を爲す、事の先にあり、早く貴殿の此謀を知らせられなば、内府伏見を發する時、兵を近江、伊勢の間に伏し、吾内府を送ると稱し、水口に至り、長束正家と兵を合し、前後より夾み擊たば、則ち勝を取ること必せり。今既に江戸に歸るを得る、此虎を千里の野に放つなり。事を擧ぐるに、必ず成ること能はず、然れども、勢既に爰に至る、之を如何ともすることなし、貴殿と死を同じくせんのみと言て、是より專ら三成の謀主となり、爰に於て名を吉隆と改む。
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名将言行録・『名将言行録』大谷吉隆 評・関ヶ原の花○關ヶ原の西軍の諸將中、決死の奮鬪を試みて、見事に戰死したのは、大谷吉隆丈である。それだけに、當時も敵味方に賞讃されてゐたらしく、その首を始末した湯淺五助の勇名が、後世まで傳はつたのであらう。謀將型の武將で、三成の計畫が敗れるのと知りながら、三成の知己の恩に報ゐて、一身を捨てた態度は、關ヶ原合戰の花であると云つてもよい。