名将言行録 / 『名将言行録』大谷吉隆 最期と家臣の忠
且つ清洲の侍從味方へ送くる書狀の内に、兇徒退治とある文言を見て、人々手を拍て笑ひあへり、是等は小事なれども、事の序なりとて、使者に物語せり。吉隆及び秀家の返答ありし後は、上方の諸將を關東の味方に誘引才覺止みしとぞ。 ○關ヶ原の役、平塚因幡守爲廣、敵餘多討取り、其首を我に送り、此首自ら打取りたり、冥途の土產に參らせ候、日頃の約束只今討死し候なん、貴所にも疾く自害せられて、人手に掛られまじと言遣はし、外に歌一首書副へあり、『名の爲めに、捨る命は、惜からじ、終に留まらぬ、浮世と思へば。』吉隆使に向て、武勇と云ひ、和歌と云ひ、感ずるに餘りあり、早や自害して、追付き再會すべしと答て、甥の祐玄と曰ふ僧に、返しを書せ、使に渡たす、其歌に曰く、『契りあれば、六つの衢に、待てしばし、後れ先立つ、ことはありとも。』吉隆、松尾山に向ひて曰く、悔ゆ無道の人と事を興にしたろことを、三年を出でずして、吾此恨を報ぜんと、此時湯淺五助、敵の首を提げて馳せ歸り、涙を流して曰く、我軍反擊者の爲めに崩壞し、平塚以下の將士戰死する者過半、今此事を報ぜんが爲めに、此に來れるなりと。吉隆之を聞き、終に割腹して死す、五助之れを介錯し、三浦喜太夫、其首を羽織に包み竊に水田の泥中に埋隱し、後喜太夫も、亦割腹して死す。吉隆が兵士五助等以下二百五十餘人、皆敵軍に進入して、悉く之に戰死せり。蓋し吉隆、平日家臣に對して慈心深く、義を以て之を獎勵せし故、皆命を致して其恩に報ぜりと云ふ。
新字:且つ清洲の侍従味方へ送くる書状の内に、兇徒退治とある文言を見て、人々手を拍て笑ひあへり、是等は小事なれども、事の序なりとて、使者に物語せり。吉隆及び秀家の返答ありし後は、上方の諸将を関東の味方に誘引才覚止みしとぞ。 ○関ヶ原の役、平塚因幡守為広、敵余多討取り、其首を我に送り、此首自ら打取りたり、冥途の土産に参らせ候、日頃の約束只今討死し候なん、貴所にも疾く自害せられて、人手に掛られまじと言遣はし、外に歌一首書副へあり、『名の為めに、捨る命は、惜からじ、終に留まらぬ、浮世と思へば。』吉隆使に向て、武勇と云ひ、和歌と云ひ、感ずるに余りあり、早や自害して、追付き再会すべしと答て、甥の祐玄と曰ふ僧に、返しを書せ、使に渡たす、其歌に曰く、『契りあれば、六つの衢に、待てしばし、後れ先立つ、ことはありとも。』吉隆、松尾山に向ひて曰く、悔ゆ無道の人と事を興にしたろことを、三年を出でずして、吾此恨を報ぜんと、此時湯浅五助、敵の首を提げて馳せ帰り、涙を流して曰く、我軍反撃者の為めに崩壊し、平塚以下の将士戦死する者過半、今此事を報ぜんが為めに、此に来れるなりと。吉隆之を聞き、終に割腹して死す、五助之れを介錯し、三浦喜太夫、其首を羽織に包み窃に水田の泥中に埋隠し、後喜太夫も、亦割腹して死す。吉隆が兵士五助等以下二百五十余人、皆敵軍に進入して、悉く之に戦死せり。蓋し吉隆、平日家臣に対して慈心深く、義を以て之を獎励せし故、皆命を致して其恩に報ぜりと云ふ。
書き下し
且つ清洲の侍從味方へ送くる書狀の内に、兇徒退治とある文言を見て、人々手を拍て笑ひあへり、是等は小事なれども、事の序なりとて、使者に物語せり。吉隆及び秀家の返答ありし後は、上方の諸將を關東の味方に誘引才覺止みしとぞ。 ○關ヶ原の役、平塚因幡守爲廣、敵餘多討取り、其首を我に送り、此首自ら打取りたり、冥途の土產に參らせ候、日頃の約束只今討死し候なん、貴所にも疾く自害せられて、人手に掛られまじと言遣はし、外に歌一首書副へあり、『名の爲めに、捨る命は、惜からじ、終に留まらぬ、浮世と思へば。』吉隆使に向て、武勇と云ひ、和歌と云ひ、感ずるに餘りあり、早や自害して、追付き再會すべしと答て、甥の祐玄と曰ふ僧に、返しを書せ、使に渡たす、其歌に曰く、『契りあれば、六つの衢に、待てしばし、後れ先立つ、ことはありとも。』吉隆、松尾山に向ひて曰く、悔ゆ無道の人と事を興にしたろことを、三年を出でずして、吾此恨を報ぜんと、此時湯淺五助、敵の首を提げて馳せ歸り、涙を流して曰く、我軍反擊者の爲めに崩壞し、平塚以下の將士戰死する者過半、今此事を報ぜんが爲めに、此に來れるなりと。吉隆之を聞き、終に割腹して死す、五助之れを介錯し、三浦喜太夫、其首を羽織に包み竊に水田の泥中に埋隱し、後喜太夫も、亦割腹して死す。吉隆が兵士五助等以下二百五十餘人、皆敵軍に進入して、悉く之に戰死せり。蓋し吉隆、平日家臣に對して慈心深く、義を以て之を獎勵せし故、皆命を致して其恩に報ぜりと云ふ。
現代語訳
また、清洲の侍従(福島正則)が味方へ送る書状のなかに「兇徒退治」とある文言を見て、人々は手を打って笑い合った。これらは小さなことだが、事のついでだと言って使者に語った。吉隆と秀家の返答があったあとは、上方の諸将を関東の味方に誘い込む工作はやんだという。 関ヶ原の役で、平塚因幡守為広は敵を多く討ち取り、その首を私に送ってきた。この首は自ら討ち取ったもので、冥途の土産に差し上げます。日ごろの約束どおり、ただいま討死します。貴所も早く自害され、人の手にかかられませんように、と言い送り、そのほかに歌一首を書き添えてあった。『名のために、捨てる命は、惜しくはない。ついにはとどまらぬ、この浮世と思えば。』吉隆は使者に向かって、武勇といい、和歌といい、感心するに余りある、早く自害して追いついて再会しよう、と答え、甥の祐玄という僧に返歌を書かせ、使者に渡した。その歌に言う、『契りがあるのなら、六道の辻で待てしばし。遅れて行くか先に立つかの違いはあっても。』吉隆は松尾山に向かって言った。道に外れた人と事を起こしたことを悔やむ。三年を出ないうちに、私はこの恨みを晴らそう、と。このとき湯浅五助が敵の首を提げて駆け戻り、涙を流して言った。我が軍は寝返った者によって崩れ、平塚以下の将士の戦死する者は過半に及びました。いまこのことを報せるために、ここへ来たのです、と。吉隆はこれを聞き、ついに腹を切って死んだ。五助がこれを介錯し、三浦喜太夫がその首を羽織に包んでひそかに水田の泥中に埋め隠し、のちに喜太夫もまた腹を切って死んだ。吉隆の兵士の五助ら二百五十余人は、みな敵軍に突き入って、ことごとく戦死した。思うに、吉隆は平素、家臣に対して慈しみが深く、義によって励ましたため、みな命を投げ出してその恩に報いたのだという。
解説

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