名将言行録 / 『名将言行録』大谷吉隆 勝てぬ五つの理由
若し國手に逢はゞ、則ち道を爭ひ、子を下だす、必ず意料の外に出でん、今大事を擧ぐるに、五の不可あり、內府旣に五老の上に班し、威權日に重し、天下諸將皆攀附して之を慕ふ、貴殿或は五十萬石を領せば、猶之可なるが如し、國小、位卑く、人歸嚮せざる一なり。今天下大國を治むる者、輝元とあり、內府關東八州を治む、其餘諸州大莊園多し、天下復た其比なし。加ふるに、人望の歸する所皆內府にあり、二なり。內府壯年より數々甲冑、駿河の敵と戰ひ、兵機に老練せり、長湫の一戰、義勇彰聞せり。今の世にあり、誰か能く之に敵せん、三なり。昔信長士を好み、毎に諸家の名士を書し、其善者を擇び之を勾畫す、其時に方り、内府僅に三河一國を領し、畫を下だす者十九人、皆知名の士と爲す。今又其幾千なるを知らず、世人の稱する所、井伊、本多、榊原、酒井、大久保、平岩、大須賀、鳥居の徒是なり。貴殿能く斯の如き輩あるを得んや、四なり。凡そ子孫を思ふは、人の常情、内府部下の士死する者あれば則ち襁褓に在りとも必ず祿を世々にす。故に人之を親むこと父母の如し。今諸將誰か能く此仁心あらんや、五なり。此五つのもの、人皆難ずる所にして、内府之を兼ぬ。其敵すべからざる明かなりと言ふ。三成然らず、兵に常勢なく、變化測るべからず。今東西の大軍、皆其心を一にして以て、内府を擊たば、勝ざることなけんと言ふ。吉隆、貴殿の料らるる所、皆非なり、謀を爲す、事の先にあり、早く貴殿の此謀を知らせられなば、内府伏見を發する時、兵を近江、伊勢の間に伏し、吾内府を送ると稱し、水口に至り、長束正家と兵を合し、前後より夾み擊たば、則ち勝を取ること必せり。今既に江戸に歸るを得る、此虎を千里の野に放つなり。事を擧ぐるに、必ず成ること能はず、然れども、勢既に爰に至る、之を如何ともすることなし、貴殿と死を同じくせんのみと言て、是より專ら三成の謀主となり、爰に於て名を吉隆と改む。
新字:若し国手に逢はゞ、則ち道を争ひ、子を下だす、必ず意料の外に出でん、今大事を挙ぐるに、五の不可あり、内府既に五老の上に班し、威権日に重し、天下諸将皆攀附して之を慕ふ、貴殿或は五十万石を領せば、猶之可なるが如し、国小、位卑く、人帰嚮せざる一なり。今天下大国を治むる者、輝元とあり、内府関東八州を治む、其余諸州大荘園多し、天下復た其比なし。加ふるに、人望の帰する所皆内府にあり、二なり。内府壮年より数々甲冑、駿河の敵と戦ひ、兵機に老練せり、長湫の一戦、義勇彰聞せり。今の世にあり、誰か能く之に敵せん、三なり。昔信長士を好み、毎に諸家の名士を書し、其善者を択び之を勾画す、其時に方り、内府僅に三河一国を領し、画を下だす者十九人、皆知名の士と為す。今又其幾千なるを知らず、世人の称する所、井伊、本多、榊原、酒井、大久保、平岩、大須賀、鳥居の徒是なり。貴殿能く斯の如き輩あるを得んや、四なり。凡そ子孫を思ふは、人の常情、内府部下の士死する者あれば則ち襁褓に在りとも必ず禄を世々にす。故に人之を親むこと父母の如し。今諸将誰か能く此仁心あらんや、五なり。此五つのもの、人皆難ずる所にして、内府之を兼ぬ。其敵すべからざる明かなりと言ふ。三成然らず、兵に常勢なく、変化測るべからず。今東西の大軍、皆其心を一にして以て、内府を撃たば、勝ざることなけんと言ふ。吉隆、貴殿の料らるる所、皆非なり、謀を為す、事の先にあり、早く貴殿の此謀を知らせられなば、内府伏見を発する時、兵を近江、伊勢の間に伏し、吾内府を送ると称し、水口に至り、長束正家と兵を合し、前後より夾み撃たば、則ち勝を取ること必せり。今既に江戸に帰るを得る、此虎を千里の野に放つなり。事を挙ぐるに、必ず成ること能はず、然れども、勢既に爰に至る、之を如何ともすることなし、貴殿と死を同じくせんのみと言て、是より専ら三成の謀主となり、爰に於て名を吉隆と改む。
書き下し
若し國手に逢はゞ、則ち道を爭ひ、子を下だす、必ず意料の外に出でん、今大事を擧ぐるに、五の不可あり、內府旣に五老の上に班し、威權日に重し、天下諸將皆攀附して之を慕ふ、貴殿或は五十萬石を領せば、猶之可なるが如し、國小、位卑く、人歸嚮せざる一なり。今天下大國を治むる者、輝元とあり、內府關東八州を治む、其餘諸州大莊園多し、天下復た其比なし。加ふるに、人望の歸する所皆內府にあり、二なり。內府壯年より數々甲冑、駿河の敵と戰ひ、兵機に老練せり、長湫の一戰、義勇彰聞せり。今の世にあり、誰か能く之に敵せん、三なり。昔信長士を好み、毎に諸家の名士を書し、其善者を擇び之を勾畫す、其時に方り、内府僅に三河一國を領し、畫を下だす者十九人、皆知名の士と爲す。今又其幾千なるを知らず、世人の稱する所、井伊、本多、榊原、酒井、大久保、平岩、大須賀、鳥居の徒是なり。貴殿能く斯の如き輩あるを得んや、四なり。凡そ子孫を思ふは、人の常情、内府部下の士死する者あれば則ち襁褓に在りとも必ず祿を世々にす。故に人之を親むこと父母の如し。今諸將誰か能く此仁心あらんや、五なり。此五つのもの、人皆難ずる所にして、内府之を兼ぬ。其敵すべからざる明かなりと言ふ。三成然らず、兵に常勢なく、變化測るべからず。今東西の大軍、皆其心を一にして以て、内府を擊たば、勝ざることなけんと言ふ。吉隆、貴殿の料らるる所、皆非なり、謀を爲す、事の先にあり、早く貴殿の此謀を知らせられなば、内府伏見を發する時、兵を近江、伊勢の間に伏し、吾内府を送ると稱し、水口に至り、長束正家と兵を合し、前後より夾み擊たば、則ち勝を取ること必せり。今既に江戸に歸るを得る、此虎を千里の野に放つなり。事を擧ぐるに、必ず成ること能はず、然れども、勢既に爰に至る、之を如何ともすることなし、貴殿と死を同じくせんのみと言て、是より專ら三成の謀主となり、爰に於て名を吉隆と改む。
現代語訳
もし名人に出会えば道を争い、一手を下すにも必ず思いがけないところから出るものだ。いま大事を起こすには、五つの不可がある。内府はすでに五大老の上に並び、権威は日に重く、天下の諸将はみな取りすがって慕っている。貴殿がもし五十万石を領しているなら、それでもまだ可とも言えよう。だが国は小さく、位は低く、人が従い向かわない。これが一つ。いま天下で大国を治める者は輝元であり、内府は関東八州を治め、そのほかの諸国にも大きな荘園が多い。天下にこれに並ぶ者はない。そのうえ人望の帰するところはみな内府にある。これが二つ。内府は壮年のころからたびたび甲冑をつけて駿河の敵と戦い、兵の機微に老練している。長久手の一戦でも義勇は広く知られた。いまの世に誰がこれに敵せよう。これが三つ。昔、信長は士を好み、いつも諸家の名士を書き記し、そのうちのよい者を選んで印をつけた。そのとき内府はわずかに三河一国を領していたが、印をつけられた者は十九人、みな名の知れた士であった。いまはさらにその数が幾千になるか分からない。世間で称するところの井伊、本多、榊原、酒井、大久保、平岩、大須賀、鳥居の輩がそれである。貴殿にこのような者たちを得られようか。これが四つ。そもそも子孫を思うのは人の常の情で、内府は部下の士が死ねば、その子が産着にくるまれていても必ず代々禄を与える。だから人は内府を父母のように親しむ。いま諸将の誰にこの仁の心があろうか。これが五つ。この五つは人がみな難しいとするところで、内府はこれを兼ね備えている。敵対できないことは明らかだ、と言った。三成はそうではない、兵に常の勢いはなく、変化は測れない、いま東西の大軍がみな心を一つにして内府を撃てば、勝てないことはないだろうと言った。吉隆は言った。貴殿の考えは、どれも誤りだ。謀は事の先にあるものだ。早く貴殿のこの謀を知っていたなら、内府が伏見を発つとき、近江と伊勢の間に兵を伏せ、私は内府を送ると称して水口に行き、長束正家と兵を合わせ、前後から挟み撃ちにすれば、勝ちを取ることは必定であった。いますでに江戸に帰らせてしまった。これは虎を千里の野に放ったようなものだ。事を起こしても必ず成功することはできない。しかし、勢いがすでにここまで来た以上、どうすることもできない。貴殿と死を同じくするのみ、と言って、これより専ら三成の謀主となり、ここで名を吉隆と改めた。
解説

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