名将言行録 / 『名将言行録』加藤嘉明 明成と堀主水、誓紙の備え
○嘉明の子、式部少輔明成の時に至り、家臣堀主水、明成の旨に忤ひ折辱せらるゝことあり。之を憤て白晝に會津を去る、鳥銃に火繩を挾み、無禮無義の仕形なり、是より江戶に往て、明成、野心ある由を書て、幕府に訴牒を捧ぐ、大阪沒落の時、天守に火掛りたるを見、秀賴公御自害ありと聞て、明成剃髮せんと悲みしを、種々諫めて思ひ止り候と。此類の事數ヶ條載せたり。家光、時の執事を以て明成に子細を尋ねらる。明成兎角陳辭はなくて、一篋の中より誓詞を取出して、執事に示す。元和八年九月十五日、家光公御鎧召初めの時、亡父左馬助に御肩入の儀式を命ぜらる、固辭すと雖も、尊命の重きに依て、先づ畏り奉て、罷り歸りて鄙生に對し、天下の大小名多き中に擇ばれて斯る重禮の命を蒙れり、武將の榮名之に如くものなし、領地を增し賜ふにも易ふべからず、我なき後までも御當家に二心を懷かず忠節を致す覺悟ならば、御肩入のこと上意に從ふべし、若し汝志を繼て始終一なること能はじと思はゞ、幾度も辭して强て御免を蒙るべしと申しゝ時、書いて亡父左馬助に與へたる誓紙に候とて、差置けば、執事披見あるに、大概本より別心之れなし、是れより後猶違犯あるべからず、無二の忠義を勵むべきとの趣なり、此上は疑ふべきにあらずとて、主水が訴狀は巧みに僞りて讒を構へたるに極まりぬ。明成は豐臣家の舊臣たるが故に、若し事の變あらば、其本を忘れずして謀反にも與みすべきやと、人に腸を搜られ不慮の禍に罹らんことを前知して、肩入の折を得て、後の證據を、嘉明の成置きしことなり。
新字:○嘉明の子、式部少輔明成の時に至り、家臣堀主水、明成の旨に忤ひ折辱せらるゝことあり。之を憤て白昼に会津を去る、鳥銃に火縄を挟み、無礼無義の仕形なり、是より江戸に往て、明成、野心ある由を書て、幕府に訴牒を捧ぐ、大阪没落の時、天守に火掛りたるを見、秀頼公御自害ありと聞て、明成剃髪せんと悲みしを、種々諫めて思ひ止り候と。此類の事数ヶ条載せたり。家光、時の執事を以て明成に子細を尋ねらる。明成兎角陳辞はなくて、一篋の中より誓詞を取出して、執事に示す。元和八年九月十五日、家光公御鎧召初めの時、亡父左馬助に御肩入の儀式を命ぜらる、固辞すと雖も、尊命の重きに依て、先づ畏り奉て、罷り帰りて鄙生に対し、天下の大小名多き中に択ばれて斯る重礼の命を蒙れり、武将の栄名之に如くものなし、領地を增し賜ふにも易ふべからず、我なき後までも御当家に二心を懐かず忠節を致す覚悟ならば、御肩入のこと上意に従ふべし、若し汝志を継て始終一なること能はじと思はゞ、幾度も辞して強て御免を蒙るべしと申しゝ時、書いて亡父左馬助に与へたる誓紙に候とて、差置けば、執事披見あるに、大概本より別心之れなし、是れより後猶違犯あるべからず、無二の忠義を励むべきとの趣なり、此上は疑ふべきにあらずとて、主水が訴状は巧みに偽りて讒を構へたるに極まりぬ。明成は豊臣家の旧臣たるが故に、若し事の変あらば、其本を忘れずして謀反にも与みすべきやと、人に腸を捜られ不慮の禍に罹らんことを前知して、肩入の折を得て、後の証拠を、嘉明の成置きしことなり。
書き下し
○嘉明の子、式部少輔明成の時に至り、家臣堀主水、明成の旨に忤ひ折辱せらるゝことあり。之を憤て白晝に會津を去る、鳥銃に火繩を挾み、無禮無義の仕形なり、是より江戶に往て、明成、野心ある由を書て、幕府に訴牒を捧ぐ、大阪沒落の時、天守に火掛りたるを見、秀賴公御自害ありと聞て、明成剃髮せんと悲みしを、種々諫めて思ひ止り候と。此類の事數ヶ條載せたり。家光、時の執事を以て明成に子細を尋ねらる。明成兎角陳辭はなくて、一篋の中より誓詞を取出して、執事に示す。元和八年九月十五日、家光公御鎧召初めの時、亡父左馬助に御肩入の儀式を命ぜらる、固辭すと雖も、尊命の重きに依て、先づ畏り奉て、罷り歸りて鄙生に對し、天下の大小名多き中に擇ばれて斯る重禮の命を蒙れり、武將の榮名之に如くものなし、領地を增し賜ふにも易ふべからず、我なき後までも御當家に二心を懷かず忠節を致す覺悟ならば、御肩入のこと上意に從ふべし、若し汝志を繼て始終一なること能はじと思はゞ、幾度も辭して强て御免を蒙るべしと申しゝ時、書いて亡父左馬助に與へたる誓紙に候とて、差置けば、執事披見あるに、大概本より別心之れなし、是れより後猶違犯あるべからず、無二の忠義を勵むべきとの趣なり、此上は疑ふべきにあらずとて、主水が訴狀は巧みに僞りて讒を構へたるに極まりぬ。明成は豐臣家の舊臣たるが故に、若し事の變あらば、其本を忘れずして謀反にも與みすべきやと、人に腸を搜られ不慮の禍に罹らんことを前知して、肩入の折を得て、後の證據を、嘉明の成置きしことなり。
現代語訳
嘉明の子、式部少輔明成の時に至り、家臣の堀主水が、明成の意に逆らって侮辱されることがあった。主水はこれを憤り、白昼に会津を去った。鳥銃に火縄を挟んでの退去は、無礼無義のしわざであった。江戸に行って、明成に野心があると書いて、幕府に訴状を差し出した。大坂落城のとき、天守に火がかかるのを見て、秀頼公が自害されたと聞いて、明成が剃髪しようと悲しんだのを、種々諫めてやめさせた、云々。こうした類のことを数カ条載せていた。家光は、時の執事を通じて明成に事情を尋ねた。明成はとかく弁明せず、一つの箱の中から誓詞を取り出して執事に示した。「元和八年九月十五日、家光公が鎧の着初めをされた時、亡父左馬助に、肩入れの儀式を命じられた。固辞したが、尊命の重さにより、まず畏まってお受けし、帰ってから私に向かい、『天下の大小名の多い中から選ばれて、このような重い礼を命じられた。武将の栄誉としてこれに勝るものはない。領地を増していただくことにも替えられない。我が亡き後までも、当家に二心を抱かず忠節を尽くす覚悟があるなら、肩入れのことは上意に従え。もし汝が志を継いで終始一貫することができないと思うなら、何度でも辞退して、強いて免除を蒙れ』と申したので、書いて亡父左馬助に与えた誓紙でございます」と言って差し置いた。執事が披見すると、おおむね元から別心はなく、これより後も違反はない、無二の忠義に励む、という趣旨であった。この上は疑うべきでないとして、主水の訴状は巧みに偽って讒言を構えたものと決まった。明成は豊臣家の旧臣であったから、もし事変が起これば、その本を忘れずに謀反にも加担するのではないかと人に腹を探られ、不慮の災いにかかることを前もって知って、肩入れの機会をとらえて、後の証拠を、嘉明が作り置いたことなのである。
解説

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