名将言行録 / 『名将言行録』加藤嘉明 河村権七の帰参
○嘉明の臣、河村權七、關ヶ原の時功あり、後ち心に應ぜざることありて、一封の書を留めて、出奔す。書中に立退くと雖も、二君に仕へず、當家一大事の變あらんには、何れの國に在りとも、馳付御用に立つべしとあり。是より權七は、諸國を浪遊し、後には路費盡きて、出羽國に修驗者と爲り、日を送る。大阪冬の役、加藤、黑田、福島の三家は、江戸に留置かれ、御陣過ぎば、三家共沒收せらるべし抔と言ふ風說を聞、出羽より夜を日に繼ぎて馳上り、夜中嘉明が邸に來り、親友靑木佐右衞門を呼びて、罪を謝し、謁見を願ふ。嘉明之を聞き、大に喜び、疾く呼入れよとて、寢所に召出せしが、一と目見るより涙を流しければ、權七も涙に咽び、君臣誓しは詞もなかりしが、權七思も寄らず、殿の御前に出ることよ、今生の思出に候と申す。嘉明汝が志言はん樣もなしと喜び、舊祿の通り八百石賜はろ。其後勘定奉行來り、俸祿を受取らるべしとて、夥しく金銀を陳列し、年々祿高除き置く分、一萬二千二百石の代金、十四年分受けらるべしと言ふ。權七大に驚き十四年の間は浪遊して出勤せず、如何で俸祿を受くべきやと、固辭しければ、嘉明聞て、尋常の心ならんには、左思ふべし、然し權七立退く節に、一書を留め二君に仕へず、當家一大事あらば何れの國に在りとも、馳付用立べしとあり、其の言の如く、他に仕へず、艱難を凌ぎ、此度遠國より馳來りし忠誠比類あるべからず、去らば十四年の祿を主人押領すべきや、悉く與ふべしとありしかば、權七感淚を流して、拜受せり。
新字:○嘉明の臣、河村権七、関ヶ原の時功あり、後ち心に応ぜざることありて、一封の書を留めて、出奔す。書中に立退くと雖も、二君に仕へず、当家一大事の変あらんには、何れの国に在りとも、馳付御用に立つべしとあり。是より権七は、諸国を浪遊し、後には路費尽きて、出羽国に修験者と為り、日を送る。大阪冬の役、加藤、黒田、福島の三家は、江戸に留置かれ、御陣過ぎば、三家共没収せらるべし抔と言ふ風説を聞、出羽より夜を日に継ぎて馳上り、夜中嘉明が邸に来り、親友青木佐右衛門を呼びて、罪を謝し、謁見を願ふ。嘉明之を聞き、大に喜び、疾く呼入れよとて、寝所に召出せしが、一と目見るより涙を流しければ、権七も涙に咽び、君臣誓しは詞もなかりしが、権七思も寄らず、殿の御前に出ることよ、今生の思出に候と申す。嘉明汝が志言はん様もなしと喜び、旧禄の通り八百石賜はろ。其後勘定奉行来り、俸禄を受取らるべしとて、夥しく金銀を陳列し、年々禄高除き置く分、一万二千二百石の代金、十四年分受けらるべしと言ふ。権七大に驚き十四年の間は浪遊して出勤せず、如何で俸禄を受くべきやと、固辞しければ、嘉明聞て、尋常の心ならんには、左思ふべし、然し権七立退く節に、一書を留め二君に仕へず、当家一大事あらば何れの国に在りとも、馳付用立べしとあり、其の言の如く、他に仕へず、艱難を凌ぎ、此度遠国より馳来りし忠誠比類あるべからず、去らば十四年の禄を主人押領すべきや、悉く与ふべしとありしかば、権七感涙を流して、拝受せり。
書き下し
○嘉明の臣、河村權七、關ヶ原の時功あり、後ち心に應ぜざることありて、一封の書を留めて、出奔す。書中に立退くと雖も、二君に仕へず、當家一大事の變あらんには、何れの國に在りとも、馳付御用に立つべしとあり。是より權七は、諸國を浪遊し、後には路費盡きて、出羽國に修驗者と爲り、日を送る。大阪冬の役、加藤、黑田、福島の三家は、江戸に留置かれ、御陣過ぎば、三家共沒收せらるべし抔と言ふ風說を聞、出羽より夜を日に繼ぎて馳上り、夜中嘉明が邸に來り、親友靑木佐右衞門を呼びて、罪を謝し、謁見を願ふ。嘉明之を聞き、大に喜び、疾く呼入れよとて、寢所に召出せしが、一と目見るより涙を流しければ、權七も涙に咽び、君臣誓しは詞もなかりしが、權七思も寄らず、殿の御前に出ることよ、今生の思出に候と申す。嘉明汝が志言はん樣もなしと喜び、舊祿の通り八百石賜はろ。其後勘定奉行來り、俸祿を受取らるべしとて、夥しく金銀を陳列し、年々祿高除き置く分、一萬二千二百石の代金、十四年分受けらるべしと言ふ。權七大に驚き十四年の間は浪遊して出勤せず、如何で俸祿を受くべきやと、固辭しければ、嘉明聞て、尋常の心ならんには、左思ふべし、然し權七立退く節に、一書を留め二君に仕へず、當家一大事あらば何れの國に在りとも、馳付用立べしとあり、其の言の如く、他に仕へず、艱難を凌ぎ、此度遠國より馳來りし忠誠比類あるべからず、去らば十四年の祿を主人押領すべきや、悉く與ふべしとありしかば、權七感淚を流して、拜受せり。
現代語訳
嘉明の家臣、河村権七は、関ヶ原の時に功があったが、後に意に沿わないことがあって、一通の書き置きを残して出奔した。書き置きには、立ち退いても二君には仕えない、当家に一大事があれば、どこの国にいても駆けつけてお役に立つ、とあった。それから権七は諸国を放浪し、後には路銀が尽きて、出羽国で修験者となって日を送った。大坂冬の陣で、加藤、黒田、福島の三家が江戸に留め置かれ、戦が終われば三家とも没収されるだろうなどという風説を聞いて、出羽から夜を日に継いで駆けつけ、夜中に嘉明の屋敷に来て、親友の青木佐右衛門を呼んで罪を詫び、謁見を願った。嘉明はこれを聞いて大いに喜び、「早く呼び入れよ」と言って、寝所に召し出した。一目見るなり涙を流すと、権七も涙にむせび、主従は言葉もなかったが、権七は「思いもよらず殿の御前に出られるとは、今生の思い出です」と言った。嘉明は「お前の志は言いようもない」と喜び、元の禄の八百石を与えた。その後、勘定奉行が来て、「俸禄を受け取られよ」と言って、おびただしい金銀を並べ、「年々の禄高を除き置いた分、一万二千二百石の代金、十四年分を受け取られよ」と言う。権七は大いに驚き、「十四年の間、放浪して出勤しなかったのに、どうして俸禄を受けられましょう」と固辞した。嘉明は聞いて、「普通の心ならそう思うだろう。しかし権七は立ち退く際に、一書を残して、二君に仕えず、当家に一大事あれば、どこの国にいても駆けつけて役に立つと言った。その言葉どおり、他に仕えず、艱難を耐え、今回遠国から駆けつけた忠誠は比類がない。それなのに十四年の禄を主人が押領してよいものか。ことごとく与えよ」と言ったので、権七は感涙を流して拝受した。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
名将言行録・『名将言行録』加藤嘉明 明成と堀主水、誓紙の備え○嘉明の子、式部少輔明成の時に至り、家臣堀主水、明成の旨に忤ひ折辱せらるゝことあり。之を憤て白晝に會津を去る、鳥銃に火繩を挾み、無禮無義の仕形なり、是より江戶に往て、明成、野心ある由を書て、幕府に訴牒を捧ぐ、大阪沒落の時、天守に火掛りたるを見、秀賴公御自害ありと聞て、明成剃髮せんと悲みしを、種々諫めて思ひ止り候と。此類の事數ヶ條載せたり。家光、時の執事を以て明成に子細を尋ねらる。明成兎角陳辭はなくて、一篋の中より誓詞を取出して、執事に示す。元和八年九月十五日、家光公御鎧召初めの時、亡父左馬助に御肩入の儀式を命ぜらる、固辭すと雖も、尊命の重きに依て、先づ畏り奉て、罷り歸りて鄙生に對し、天下の大小名多き中に擇ばれて斯る重禮の命を蒙れり、武將の榮名之に如くものなし、領地を增し賜ふにも易ふべからず、我なき後までも御當家に二心を懷かず忠節を致す覺悟ならば、御肩入のこと上意に從ふべし、若し汝志を繼て始終一なること能はじと思はゞ、幾度も辭して强て御免を蒙るべしと申しゝ時、書いて亡父左馬助に與へたる誓紙に候とて、差置けば、執事披見あるに、大概本より別心之れなし、是れより後猶違犯あるべからず、無二の忠義を勵むべきとの趣なり、此上は疑ふべきにあらずとて、主水が訴狀は巧みに僞りて讒を構へたるに極まりぬ。明成は豐臣家の舊臣たるが故に、若し事の變あらば、其本を忘れずして謀反にも與みすべきやと、人に腸を搜られ不慮の禍に罹らんことを前知して、肩入の折を得て、後の證據を、嘉明の成置きしことなり。
-
名将言行録・『名将言行録』藤堂高虎 私怨を捨てた推挙○寬永四年正月、蒲生下野守忠鄕卒し嗣なく、國除せらる。家光誰にか若松城を預けんとて、宿老耆舊の輩を召して會議ありしに、高虎一人進出でゝ、當時誰彼れと申さんより、加藤左馬助に若く者候べしとも思はず、彼は幼きより豐臣家に仕へ、賤ヶ嶽七本鎗の一人、其後關ヶ原に當家へ志を運び、大阪にも其心を翻さず、究めて律義者に候へば、如何様なる要地を委任し給ふとも、御心安かるべく候と申す。家光聞て、嘗て足下と嘉明と不和なりと聞く、然るに今能く私怨を棄て以て公忠を盡さる。何ぞ其義に篤きやと言はれて敷稱せらる。是に於て嘉明、會津四十萬石に倍封せらろ、即日嘉明來り、高虎を見て曰く、竊かに今日のことを聞くに、辱く貴殿の推擧を蒙れり、僕頑愚朝鮮にて功を爭しより、交りを絶つこと久し、貴殿則ち國の爲めに私を忘れ、恩を以て怨に報いらる。感悔慙愧惜く所を知らず、故に特に來り謝す、願くは舊惡を棄られなば、何の幸か之に若んと。高虎曰く、幕府明鑒妙遷、抑々亦貴殿の福なり、僕何ぞ與らん、但し憾を釋き好を修むること固より願ふ所なりと。嘉明大に喜び、盟を結び盃酒款洽歡を盡して歸れり。初め家光の西丸に在るや、屢々召して咨詢せり、高虎亦心を傾け輔翼す、賜書を閲するに、率ね諫疏に報謝せらゝものなり。蓋し獻賛する所多しと云ふ、故に嗣立せらるゝに及びて、大事決し難きことあれば、輙ち召して之を問はる。但是擧のみにあらず。
-
名将言行録・『名将言行録』加藤嘉明 虎にも家康邸にも動じず○朝鮮より虎を引來り、那古耶に在陣せし諸將の中を、大力の男餘多左右に鎖を扣へ、噇と言て通りければ、人皆驚きたるに、嘉明は壁に倚り掛り、居眠してありしが、虎通り過ぎたる後も初めに異ならず、漸々ありて、目を開き、何事にて騷がれしぞ、虎を引通れる故にやと最と靜に言はれしとぞ。 ○秀吉薨ぜしかば、大阪の奉行等、德川氏を亡さんとて、伏見、大阪の間物騷敷、德川の館に來り守る人少なからず、嘉明以爲く、當時內府を失はんには、倔强の大名十人餘も討死せずんば叶ふべからず、誰か今斯く心を一つに合はすべき、去らば、何事かあらんとて、少しも騷がず、德川の館に至りて、何にとなく世の中物騷敷候、去ながら、嘉明は何事のあるべきかと存じ、今までは、侍五十騎留め置候ひしを、今朝二十騎を、伊豫の國へ差返しぬ、御用も候ひなば、參らせんと、殘る所は留めて候と申す。果して嘉明の言の如く、程なく無事にぞ屬しける。 ○關ヶ原の時、或夜嘉明の陣前を忍び通る者あり、捕へて、忍か、火付か切つて捨よと言ふに、嘉明其の士は主君の爲めに死を顧みざる者なり、吾陣所の備さへ怠らず、彼如何にして、吾を窺ふべきや、殺すと殺さゞるとは勝敗に拘はらざれば、命を助くべしと言て、追放させたり。
-
名将言行録・『名将言行録』加藤嘉明 子の明成と家の失墜尤も、當時武將としては相當尊敬されてゐたわけで、家光の鎧の着初に、肩入の役を務めたことに依つても、嘉明の位置が分る。 子の明成は、猛氣だけは、父に似てゐたが、暗愚であつたゝめ、家臣の堀主水と喧嘩し、主水が高野山には入つたのを、(四十萬國の家國に替へても主水を戴きたい)と幕府に嘆願し、主水を獲て之を殺したはいゝが、自分が與へた言質のために、四十萬石を失つてしまつたのである。
-
名将言行録・『名将言行録』蒲生氏郷 相撲と一万石の取り消し○巖石の役、氏鄕の臣西村左馬之允拔け掛の功名せしかど、軍命を犯せし故、氏鄕怒て勘當せり。其後、西村、細川忠興を賴み、歸參を請ひければ、氏鄕、罪を赦して、本祿を與ふ。其翌日、氏鄕、西村と相撲を取らんと言はれけり。西村思ふ樣、主人と云、殊に歸參の翌日なり。我を試みんとのことなるべし、吾勝ならば、氣色や損ぜん、負たらば、輕薄者とや言はれん、如何はせん、一生の浮沈爰に究まりたりと思惟しけろが、人は名こそ惜けれ、輕薄人と言はれ用ひられんよりは、寧ろ氣色を損ぜんには如かずと覺悟を究め、相接せしが、終に勝ちぬ。氏鄕無念のことなり、今一番と力足を踏みて立向はる。近習の士共、西村心せよかしと思ひ、西村に目くばせし、息を呑み汗を握て居たりしが、西村、今度負けたらんには、諛者と言はれん、よしや怒に觸れば觸れと思ひ、少しも用捨なく、又勝たり。氏鄕打笑ひ、汝が力は我に倍せしと言はれ、翌日又加祿を賜はりしとぞ。 ○氏鄕、橋本惣兵衞を一萬石の約束にて呼寄せたり。惣兵衞雜談の時、知行十萬石の約束ならば、子供數多持たる間、一人川へ捨申すべくと言たり。氏鄕之を聞き、惣兵衞に謂て曰く、其方は知行に子を替申べくと申たる由、偖々賴母敷も之なく候、知行には人質をも捨申べくとの所存にて候や、內々其方は一萬石の約束にて呼置候へ共、其心底を承はりたる上は、高知は成間敷、一萬石を減じ、千石遣はすべくと言はれしとぞ。
-
名将言行録・『名将言行録』加藤嘉明 評・典型的な武将○典型的な武將である。政治家的才能や野心がなく、と云つて福島正則などに比べて、思慮もあり分別もあつた人である。その武將としての剛膽さに於ては、當時の武將中傑出してゐる。 一徹者だけに、藤堂高虎と喧嘩したり、家臣の河村權七や塙團右衞門などと、不和になつたのであらう。 藤堂高虎との喧嘩は、たしかに嘉明の方が勝である。しかし、後に高虎は舊怨を忘れて、嘉明を會津四十萬石に推擧してゐる。これは、教科書などにも載つてゐる美談である。