名将言行録 / 『名将言行録』加藤嘉明 馬を乗りこなす少年
三之丞廣明の子從四位下に叙し、侍從兼左馬助に任ず。會津四十萬石に封ぜられ、若松城に住す。寬永八年九月十二日卒、年六十九。 ○嘉明、初め孫六と曰ふ、年甫十二、近江長濱の馬喰某に養はる。孫六人となり、膽氣脊力あり、眼光人を射る。年少にして、能く馬を練熟せり。某毎に孫六を遣はし馬を賣らしむ、孫六出る毎に馬を賣らず、郊野を馳驅して、馬術を習ひ、力罷るゝに及て主家に歸る。故を以て遂に自ら馭術を得たり。一日馬を牽き岐阜に至り沽んとす。加藤景泰、嘗て織田信長に仕へ、岐阜に居り、能く驥駑を鑑定せり。孫六の曳き來る所の馬を見て、是は駿馬なり、然れども、恐くは癖あらん、今より後廐養すること百日の後、之を買はんと言ふ。孫六冷笑ひ、人は萬物の靈なれば魑魅魍魎と雖も、何の馭し難きことか之あらん、夫れ將士の馬を繫がるゝことは、功を建て給はんが爲めにあらずや、若し駿足を得、獰暴なりと言て、徒に廐に蓄置き、其中死せば、卽ち何の益か之あらん、此馬獰なりと雖も、其能く之を馭せん、況や金を以て之を買はば、卽ち馬主なり、畜類何ぞ主の威を凌ぐを得んや、今某馬と友たり、人の威を以て之に馭せんに何の仔細か之あらんと言て、乃ち轡を解き、散馬に乘じ、鞭を揚げて馬頰を打ち、輙く之を馭し、馬埒を馳驅すること數回、馬白沫を咬み、頭を垂る。是に於て、孫六徐に馭を收む、恰も厮馬に似たり。景泰歎驚し、孫六を私邸に迎へ、住所世貫を審問し愛惜して、之を秀吉に長濱に選擧せり。
新字:三之丞広明の子従四位下に叙し、侍従兼左馬助に任ず。会津四十万石に封ぜられ、若松城に住す。寛永八年九月十二日卒、年六十九。 ○嘉明、初め孫六と曰ふ、年甫十二、近江長浜の馬喰某に養はる。孫六人となり、胆気脊力あり、眼光人を射る。年少にして、能く馬を練熟せり。某毎に孫六を遣はし馬を売らしむ、孫六出る毎に馬を売らず、郊野を馳駆して、馬術を習ひ、力罷るゝに及て主家に帰る。故を以て遂に自ら馭術を得たり。一日馬を牽き岐阜に至り沽んとす。加藤景泰、嘗て織田信長に仕へ、岐阜に居り、能く驥駑を鑑定せり。孫六の曳き来る所の馬を見て、是は駿馬なり、然れども、恐くは癖あらん、今より後厩養すること百日の後、之を買はんと言ふ。孫六冷笑ひ、人は万物の霊なれば魑魅魍魎と雖も、何の馭し難きことか之あらん、夫れ将士の馬を繋がるゝことは、功を建て給はんが為めにあらずや、若し駿足を得、獰暴なりと言て、徒に厩に蓄置き、其中死せば、即ち何の益か之あらん、此馬獰なりと雖も、其能く之を馭せん、況や金を以て之を買はば、即ち馬主なり、畜類何ぞ主の威を凌ぐを得んや、今某馬と友たり、人の威を以て之に馭せんに何の仔細か之あらんと言て、乃ち轡を解き、散馬に乗じ、鞭を揚げて馬頬を打ち、輙く之を馭し、馬埒を馳駆すること数回、馬白沫を咬み、頭を垂る。是に於て、孫六徐に馭を収む、恰も厮馬に似たり。景泰嘆驚し、孫六を私邸に迎へ、住所世貫を審問し愛惜して、之を秀吉に長浜に選挙せり。
書き下し
三之丞廣明の子從四位下に叙し、侍從兼左馬助に任ず。會津四十萬石に封ぜられ、若松城に住す。寬永八年九月十二日卒、年六十九。 ○嘉明、初め孫六と曰ふ、年甫十二、近江長濱の馬喰某に養はる。孫六人となり、膽氣脊力あり、眼光人を射る。年少にして、能く馬を練熟せり。某毎に孫六を遣はし馬を賣らしむ、孫六出る毎に馬を賣らず、郊野を馳驅して、馬術を習ひ、力罷るゝに及て主家に歸る。故を以て遂に自ら馭術を得たり。一日馬を牽き岐阜に至り沽んとす。加藤景泰、嘗て織田信長に仕へ、岐阜に居り、能く驥駑を鑑定せり。孫六の曳き來る所の馬を見て、是は駿馬なり、然れども、恐くは癖あらん、今より後廐養すること百日の後、之を買はんと言ふ。孫六冷笑ひ、人は萬物の靈なれば魑魅魍魎と雖も、何の馭し難きことか之あらん、夫れ將士の馬を繫がるゝことは、功を建て給はんが爲めにあらずや、若し駿足を得、獰暴なりと言て、徒に廐に蓄置き、其中死せば、卽ち何の益か之あらん、此馬獰なりと雖も、其能く之を馭せん、況や金を以て之を買はば、卽ち馬主なり、畜類何ぞ主の威を凌ぐを得んや、今某馬と友たり、人の威を以て之に馭せんに何の仔細か之あらんと言て、乃ち轡を解き、散馬に乘じ、鞭を揚げて馬頰を打ち、輙く之を馭し、馬埒を馳驅すること數回、馬白沫を咬み、頭を垂る。是に於て、孫六徐に馭を收む、恰も厮馬に似たり。景泰歎驚し、孫六を私邸に迎へ、住所世貫を審問し愛惜して、之を秀吉に長濱に選擧せり。
現代語訳
三之丞広明の子。従四位下に叙され、侍従兼左馬助に任じられた。会津四十万石に封ぜられ、若松城に住んだ。寛永八年九月十二日に卒、年六十九。 嘉明は初め孫六といった。年は十二で、近江長浜の馬喰(馬商人)のもとに養われた。孫六は成長するにつれ、胆力と背筋の力があり、眼光は人を射るようであった。若いうちからよく馬を乗りこなした。馬商人は孫六を遣わして馬を売らせたが、孫六は出るたびに馬を売らず、野原を馳せ回って馬術を習い、疲れてから主家に帰った。こうして自然に馬術を身につけたという。ある日、馬を牽いて岐阜に至り、売ろうとした。加藤景泰は、かつて織田信長に仕えて岐阜に住み、よく馬の良し悪しを鑑定した。孫六が連れてきた馬を見て、「これは駿馬だ。しかし、おそらく癖があるだろう。今から廏で百日養ってから、買おう」と言った。孫六は冷笑して言った。「人は万物の霊長であるから、魑魅魍魎といえども、どうして制御できないことがあろうか。そもそも将士が馬をつなぐのは、功を立てるためではないか。もし駿足を得ながら、荒いと言って廏にただ蓄えておき、その間に死んだら何の益があろうか。この馬は荒いけれども、私は乗りこなす。まして金で買えば馬主である。畜類が主の威を凌ぐことなど、あろうか。今、私は馬と友である。人の威で制するなら、何の不都合があろう」。そこで轡を解き、放した馬に乗り、鞭を揚げて馬の頬を打ち、たやすく乗りこなし、馬場を何度も駆けさせた。馬は白い泡を噛み、頭を垂れた。ここで孫六はゆっくり手綱を収めた。まるで厩の馬のようだった。景泰は驚いて感嘆し、孫六を自邸に迎え、住所や素性を尋ねて惜しみ、秀吉に長浜で推挙した。
解説

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