名将言行録 / 『名将言行録』加藤嘉明 宗茂を見抜き、家康の評を聞く
○大阪夏役、嘉明陣場より、立花宗茂陣は近く一と見渡しに見ゆ、嘉明、立花は痛は敷ことなり、戰死と思ひ究め馬を立直し候と言はれけり。側に在りし者、不思議に思ひ居たりしが、間もなく、宗茂陣場に並びたる左右の陣々、悉く崩れ、宗茂人數も崩れ立ちしが、譜第の士二十五人一足も引かず、本より宗茂は馬を立たる所より、諸勢崩るゝを見て、成る程靜に馬を十二三間先へ進められたり。諸家の人數崩るべき樣子を早く見て、馬を立直しけるを、嘉明は其儘知りたり。外に知りし者一人もなし。此時敵出合はゞ、宗茂討死と思究めけれども、敵出ざれば別義なかりしとぞ。 ○家康病重もりし時、秀忠へ、大小名の人となりを評論せられしが、分けて、嘉明は本國三河の者にて、秀吉在世の時より、其志を通ぜり。秀吉の取立と言ふとも、疎略にすべからず、律義者なれば、隨分憐みを掛らるべし、然し、少しのことも心に掛けて不足に思ふ質なれば、其所は能く心得あるべき由を言はれける。秀忠、嘉明は小氣者と承はり及び候へば、異心はあるべからずと存ずる旨、挨拶せられければ、否々其心得は惡しきなり、譬は踊を躍るに稚子にても、今樣の音頭を揚ぐる者上手なれば、老人までも浮立ち躍るものなり、亂世は大勇の者を以て大將とす、其者嫌がるとも脇より取立るものなり、嘉明は小氣なりとて油斷すべからずと言はれけり。
新字:○大阪夏役、嘉明陣場より、立花宗茂陣は近く一と見渡しに見ゆ、嘉明、立花は痛は敷ことなり、戦死と思ひ究め馬を立直し候と言はれけり。側に在りし者、不思議に思ひ居たりしが、間もなく、宗茂陣場に並びたる左右の陣々、悉く崩れ、宗茂人数も崩れ立ちしが、譜第の士二十五人一足も引かず、本より宗茂は馬を立たる所より、諸勢崩るゝを見て、成る程静に馬を十二三間先へ進められたり。諸家の人数崩るべき様子を早く見て、馬を立直しけるを、嘉明は其儘知りたり。外に知りし者一人もなし。此時敵出合はゞ、宗茂討死と思究めけれども、敵出ざれば別義なかりしとぞ。 ○家康病重もりし時、秀忠へ、大小名の人となりを評論せられしが、分けて、嘉明は本国三河の者にて、秀吉在世の時より、其志を通ぜり。秀吉の取立と言ふとも、疎略にすべからず、律義者なれば、随分憐みを掛らるべし、然し、少しのことも心に掛けて不足に思ふ質なれば、其所は能く心得あるべき由を言はれける。秀忠、嘉明は小気者と承はり及び候へば、異心はあるべからずと存ずる旨、挨拶せられければ、否々其心得は悪しきなり、譬は踊を躍るに稚子にても、今様の音頭を揚ぐる者上手なれば、老人までも浮立ち躍るものなり、乱世は大勇の者を以て大将とす、其者嫌がるとも脇より取立るものなり、嘉明は小気なりとて油断すべからずと言はれけり。
書き下し
○大阪夏役、嘉明陣場より、立花宗茂陣は近く一と見渡しに見ゆ、嘉明、立花は痛は敷ことなり、戰死と思ひ究め馬を立直し候と言はれけり。側に在りし者、不思議に思ひ居たりしが、間もなく、宗茂陣場に並びたる左右の陣々、悉く崩れ、宗茂人數も崩れ立ちしが、譜第の士二十五人一足も引かず、本より宗茂は馬を立たる所より、諸勢崩るゝを見て、成る程靜に馬を十二三間先へ進められたり。諸家の人數崩るべき樣子を早く見て、馬を立直しけるを、嘉明は其儘知りたり。外に知りし者一人もなし。此時敵出合はゞ、宗茂討死と思究めけれども、敵出ざれば別義なかりしとぞ。 ○家康病重もりし時、秀忠へ、大小名の人となりを評論せられしが、分けて、嘉明は本國三河の者にて、秀吉在世の時より、其志を通ぜり。秀吉の取立と言ふとも、疎略にすべからず、律義者なれば、隨分憐みを掛らるべし、然し、少しのことも心に掛けて不足に思ふ質なれば、其所は能く心得あるべき由を言はれける。秀忠、嘉明は小氣者と承はり及び候へば、異心はあるべからずと存ずる旨、挨拶せられければ、否々其心得は惡しきなり、譬は踊を躍るに稚子にても、今樣の音頭を揚ぐる者上手なれば、老人までも浮立ち躍るものなり、亂世は大勇の者を以て大將とす、其者嫌がるとも脇より取立るものなり、嘉明は小氣なりとて油斷すべからずと言はれけり。
現代語訳
大坂夏の陣のとき、嘉明の陣場から、立花宗茂の陣は近くて一目で見渡せた。嘉明は「立花はお気の毒なことだ。戦死と思い定めて、馬を立て直された」と言った。側にいた者は不思議に思っていたが、間もなく、宗茂の陣に並んだ左右の陣々がことごとく崩れ、宗茂の人数も崩れ立ったが、譜代の士二十五人は一足も引かなかった。もとより宗茂は馬を立てた所から、諸勢が崩れるのを見て、いかにも静かに馬を十二、三間先へ進めた。諸家の人数が崩れそうな様子を早く見て、馬を立て直したのを、嘉明はそのまま理解していた。他に気づいた者は一人もいなかった。このとき敵が出てくれば宗茂は討死と思い定めていたが、敵が出なかったので別状なかったという。 家康が病が重くなった時、秀忠に、大小名の人柄を評論した。とりわけ嘉明は本国が三河の者で、秀吉の存命中から、心を通じていた。秀吉の取り立てとはいえ、粗略に扱ってはならない、律義者だから、十分に憐れみをかけよ。ただし、少しのことも気にかけて不足に思う質だから、そこはよく心得るように、と言った。秀忠が「嘉明は小心者と聞いておりますので、異心はないと存じます」と答えると、家康は「いやいや、その心得は悪い。たとえば踊りを躍るときに、幼子であっても、今様の音頭を揚げる者が上手なら、老人までも浮き立ち躍るものだ。乱世では大勇の者を大将とする。その者が嫌がっても、脇から取り立てるものだ。嘉明は小心者だからといって、油断してはならない」と言った。
解説

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