名将言行録 / 『名将言行録』加藤嘉明 虎にも家康邸にも動じず
○朝鮮より虎を引來り、那古耶に在陣せし諸將の中を、大力の男餘多左右に鎖を扣へ、噇と言て通りければ、人皆驚きたるに、嘉明は壁に倚り掛り、居眠してありしが、虎通り過ぎたる後も初めに異ならず、漸々ありて、目を開き、何事にて騷がれしぞ、虎を引通れる故にやと最と靜に言はれしとぞ。 ○秀吉薨ぜしかば、大阪の奉行等、德川氏を亡さんとて、伏見、大阪の間物騷敷、德川の館に來り守る人少なからず、嘉明以爲く、當時內府を失はんには、倔强の大名十人餘も討死せずんば叶ふべからず、誰か今斯く心を一つに合はすべき、去らば、何事かあらんとて、少しも騷がず、德川の館に至りて、何にとなく世の中物騷敷候、去ながら、嘉明は何事のあるべきかと存じ、今までは、侍五十騎留め置候ひしを、今朝二十騎を、伊豫の國へ差返しぬ、御用も候ひなば、參らせんと、殘る所は留めて候と申す。果して嘉明の言の如く、程なく無事にぞ屬しける。 ○關ヶ原の時、或夜嘉明の陣前を忍び通る者あり、捕へて、忍か、火付か切つて捨よと言ふに、嘉明其の士は主君の爲めに死を顧みざる者なり、吾陣所の備さへ怠らず、彼如何にして、吾を窺ふべきや、殺すと殺さゞるとは勝敗に拘はらざれば、命を助くべしと言て、追放させたり。
新字:○朝鮮より虎を引来り、那古耶に在陣せし諸将の中を、大力の男余多左右に鎖を扣へ、噇と言て通りければ、人皆驚きたるに、嘉明は壁に倚り掛り、居眠してありしが、虎通り過ぎたる後も初めに異ならず、漸々ありて、目を開き、何事にて騷がれしぞ、虎を引通れる故にやと最と静に言はれしとぞ。 ○秀吉薨ぜしかば、大阪の奉行等、徳川氏を亡さんとて、伏見、大阪の間物騷敷、徳川の館に来り守る人少なからず、嘉明以為く、当時内府を失はんには、倔強の大名十人余も討死せずんば叶ふべからず、誰か今斯く心を一つに合はすべき、去らば、何事かあらんとて、少しも騷がず、徳川の館に至りて、何にとなく世の中物騷敷候、去ながら、嘉明は何事のあるべきかと存じ、今までは、侍五十騎留め置候ひしを、今朝二十騎を、伊予の国へ差返しぬ、御用も候ひなば、参らせんと、残る所は留めて候と申す。果して嘉明の言の如く、程なく無事にぞ属しける。 ○関ヶ原の時、或夜嘉明の陣前を忍び通る者あり、捕へて、忍か、火付か切つて捨よと言ふに、嘉明其の士は主君の為めに死を顧みざる者なり、吾陣所の備さへ怠らず、彼如何にして、吾を窺ふべきや、殺すと殺さゞるとは勝敗に拘はらざれば、命を助くべしと言て、追放させたり。
書き下し
○朝鮮より虎を引來り、那古耶に在陣せし諸將の中を、大力の男餘多左右に鎖を扣へ、噇と言て通りければ、人皆驚きたるに、嘉明は壁に倚り掛り、居眠してありしが、虎通り過ぎたる後も初めに異ならず、漸々ありて、目を開き、何事にて騷がれしぞ、虎を引通れる故にやと最と靜に言はれしとぞ。 ○秀吉薨ぜしかば、大阪の奉行等、德川氏を亡さんとて、伏見、大阪の間物騷敷、德川の館に來り守る人少なからず、嘉明以爲く、當時內府を失はんには、倔强の大名十人餘も討死せずんば叶ふべからず、誰か今斯く心を一つに合はすべき、去らば、何事かあらんとて、少しも騷がず、德川の館に至りて、何にとなく世の中物騷敷候、去ながら、嘉明は何事のあるべきかと存じ、今までは、侍五十騎留め置候ひしを、今朝二十騎を、伊豫の國へ差返しぬ、御用も候ひなば、參らせんと、殘る所は留めて候と申す。果して嘉明の言の如く、程なく無事にぞ屬しける。 ○關ヶ原の時、或夜嘉明の陣前を忍び通る者あり、捕へて、忍か、火付か切つて捨よと言ふに、嘉明其の士は主君の爲めに死を顧みざる者なり、吾陣所の備さへ怠らず、彼如何にして、吾を窺ふべきや、殺すと殺さゞるとは勝敗に拘はらざれば、命を助くべしと言て、追放させたり。
現代語訳
朝鮮から虎を引いてきて、名護屋に在陣していた諸将の中を、大力の男たちが左右から鎖を押さえて、どっと通ったので、人々はみな驚いたが、嘉明は壁にもたれて居眠りをしていた。虎が通り過ぎた後も、初めと変わらず、しばらくして目を開き、「何事で騒がれたのか。虎を引き通ったからか」と、いたって静かに言ったという。 秀吉が亡くなると、大坂の奉行たちが徳川氏を滅ぼそうとして、伏見と大坂の間が物騒になり、徳川の館に来て守る人が少なくなかった。嘉明は考えた。「今、内府を倒すには、強情な大名が十人以上は討死しなければならない。誰が今、そのように心を一つにするだろうか。それなら何事もあるまい」と言って、少しも騒がず、徳川の館に行き、何気なく、「世の中が物騒です。しかし私は何事もあるまいと思い、今まで侍五十騎を留めておいたが、今朝二十騎を伊予の国へ帰した。ご用があれば呼び寄せよう。残りは留めてあります」と言った。はたして嘉明の言葉どおり、ほどなく無事に収まった。 関ヶ原の時、ある夜、嘉明の陣前をひそかに通る者があった。捕らえて「忍びか、火付けか、斬って捨てよ」と言ったところ、嘉明は「その士は主君のために死を顧みない者だ。私の陣の備えさえ怠らなければ、どうして私をうかがえよう。殺すか殺さないかは勝敗に関係しないから、命を助けよ」と言って、追放させた。
解説

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