名将言行録 / 『名将言行録』加藤嘉明 追撃を止め、目立たぬ具足へ
○關ヶ原の役、敵悉く敗走に付、初め合戰に合はざる者共我も〳〵と逃げ行く敵を追討にせり。何れの備にても、先手は申すに及ばず、旗本の備までも、手薄く相見えたり。嘉明は石田が先勢を追崩し、家中の士共餘多手に逢ひ、猶も敗軍の敵を追討んとて進み行きしを、嘉明馬を乘廻し、追討無用の由高聲に下知せしにつき、家中の者共、何れも追留りけり、之に依て先手旗本の總人數一所に相備、殊の外見事なり、嘉明今朝出馬の時は、勝れて美麗なる甲冑を着せしが、敵敗るゝと、其儘目に立たぬ具足に著替たり、是狙撃を慮りし故なり。後家康に申しし者ありければ、總じて左馬助は、萬事に功者と稱讚せられけり。
新字:○関ヶ原の役、敵悉く敗走に付、初め合戦に合はざる者共我も〳〵と逃げ行く敵を追討にせり。何れの備にても、先手は申すに及ばず、旗本の備までも、手薄く相見えたり。嘉明は石田が先勢を追崩し、家中の士共余多手に逢ひ、猶も敗軍の敵を追討んとて進み行きしを、嘉明馬を乗廻し、追討無用の由高声に下知せしにつき、家中の者共、何れも追留りけり、之に依て先手旗本の総人数一所に相備、殊の外見事なり、嘉明今朝出馬の時は、勝れて美麗なる甲冑を着せしが、敵敗るゝと、其儘目に立たぬ具足に著替たり、是狙撃を慮りし故なり。後家康に申しし者ありければ、総じて左馬助は、万事に功者と称讃せられけり。
書き下し
○關ヶ原の役、敵悉く敗走に付、初め合戰に合はざる者共我も〳〵と逃げ行く敵を追討にせり。何れの備にても、先手は申すに及ばず、旗本の備までも、手薄く相見えたり。嘉明は石田が先勢を追崩し、家中の士共餘多手に逢ひ、猶も敗軍の敵を追討んとて進み行きしを、嘉明馬を乘廻し、追討無用の由高聲に下知せしにつき、家中の者共、何れも追留りけり、之に依て先手旗本の總人數一所に相備、殊の外見事なり、嘉明今朝出馬の時は、勝れて美麗なる甲冑を着せしが、敵敗るゝと、其儘目に立たぬ具足に著替たり、是狙撃を慮りし故なり。後家康に申しし者ありければ、總じて左馬助は、萬事に功者と稱讚せられけり。
現代語訳
関ヶ原の合戦で、敵がことごとく敗走したので、初め戦に加わらなかった者たちも、われ先にと逃げる敵を追撃した。どの備えでも、先手はいうまでもなく、旗本の備えまでも手薄に見えた。嘉明は石田の先勢を追い崩し、家中の士たちが多く手柄を立てて、なお敗軍の敵を追撃しようとして進んで行くのを、馬を乗り回して、「追撃無用」と高声で命じたので、家中の者たちは皆、立ち止まった。これによって先手も旗本も全員が一所に備え、きわめて見事だった。嘉明は、今朝出馬した時はひときわ美麗な甲冑を着ていたが、敵が敗れるとすぐ目立たない具足に着替えた。狙撃を警戒したのである。後に家康に申す者があって、総じて左馬助は万事に功者だと称賛されたという。
解説

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