名将言行録 / 『名将言行録』鍋島直茂 下女を拝んだ老将
○直茂老年に及び、夜々小便に通ふに、女共の臥居たるを見て、拜みて通りたり、何れも不審に思ひ尋ねければ、直茂、偖は女共見咎めたるか、我等若年の頃は、中々不如意に候ひつるに、只今召使候下女等、結構の夜物抔を著たるを見れば、偏に天道の御恩忝くと、身に餘り存じたる故、覺えず拜みて通りたりと言へり。 ○直茂、家臣上國の事を知らず、萬事不都合なるを以て、稻垣權左衞門と曰ふ者を抱て二百石與へたり、一日直茂、高傳寺に詣る、門に張札あり、『御譜第の者だに取らぬ地行をば、いながきが來て二百石取る。』と、直茂歸宅の上、譜第の者にさへ無沙汰致し、他方の者に知行呉れること、何れも不合點の段尤も至極なり、我等誤り痛入たり、公儀方不調法にても、國家の害には成らずと言て、權左衞門に右の段を、諭し暇を賜はりしとぞ。 ○佐嘉の城普請成就せし時、直茂、勝茂と之を巡視す、勝茂敵寄せ來る時の物合を、一々講釋す。直茂、後、近臣に向ひ、勝茂には城取の敵合に精を出し講釋をするが、腹切る所を忘れては居らぬかと言はれしとぞ。直茂には繩張備立抔は大概にし、只家臣一和して主人を恨みざる樣になし、自然の時は、上下一致に突掛り切崩すことを、專一に心得られしとぞ。
新字:○直茂老年に及び、夜々小便に通ふに、女共の臥居たるを見て、拝みて通りたり、何れも不審に思ひ尋ねければ、直茂、偖は女共見咎めたるか、我等若年の頃は、中々不如意に候ひつるに、只今召使候下女等、結構の夜物抔を著たるを見れば、偏に天道の御恩忝くと、身に余り存じたる故、覚えず拝みて通りたりと言へり。 ○直茂、家臣上国の事を知らず、万事不都合なるを以て、稲垣権左衛門と曰ふ者を抱て二百石与へたり、一日直茂、高伝寺に詣る、門に張札あり、『御譜第の者だに取らぬ地行をば、いながきが来て二百石取る。』と、直茂帰宅の上、譜第の者にさへ無沙汰致し、他方の者に知行呉れること、何れも不合点の段尤も至極なり、我等誤り痛入たり、公儀方不調法にても、国家の害には成らずと言て、権左衛門に右の段を、諭し暇を賜はりしとぞ。 ○佐嘉の城普請成就せし時、直茂、勝茂と之を巡視す、勝茂敵寄せ来る時の物合を、一々講釈す。直茂、後、近臣に向ひ、勝茂には城取の敵合に精を出し講釈をするが、腹切る所を忘れては居らぬかと言はれしとぞ。直茂には縄張備立抔は大概にし、只家臣一和して主人を恨みざる様になし、自然の時は、上下一致に突掛り切崩すことを、専一に心得られしとぞ。
書き下し
○直茂老年に及び、夜々小便に通ふに、女共の臥居たるを見て、拜みて通りたり、何れも不審に思ひ尋ねければ、直茂、偖は女共見咎めたるか、我等若年の頃は、中々不如意に候ひつるに、只今召使候下女等、結構の夜物抔を著たるを見れば、偏に天道の御恩忝くと、身に餘り存じたる故、覺えず拜みて通りたりと言へり。 ○直茂、家臣上國の事を知らず、萬事不都合なるを以て、稻垣權左衞門と曰ふ者を抱て二百石與へたり、一日直茂、高傳寺に詣る、門に張札あり、『御譜第の者だに取らぬ地行をば、いながきが來て二百石取る。』と、直茂歸宅の上、譜第の者にさへ無沙汰致し、他方の者に知行呉れること、何れも不合點の段尤も至極なり、我等誤り痛入たり、公儀方不調法にても、國家の害には成らずと言て、權左衞門に右の段を、諭し暇を賜はりしとぞ。 ○佐嘉の城普請成就せし時、直茂、勝茂と之を巡視す、勝茂敵寄せ來る時の物合を、一々講釋す。直茂、後、近臣に向ひ、勝茂には城取の敵合に精を出し講釋をするが、腹切る所を忘れては居らぬかと言はれしとぞ。直茂には繩張備立抔は大概にし、只家臣一和して主人を恨みざる樣になし、自然の時は、上下一致に突掛り切崩すことを、專一に心得られしとぞ。
現代語訳
直茂は老年になって、夜ごと小用に通うとき、女たちが寝ているのを見て、拝んで通った。女たちはみな不審に思って尋ねた。直茂は「さては女たち、見とがめたか。私は若い頃はとても貧しかった。今、召し使っている下女たちが立派な夜具などを着ているのを見ると、ひとえに天道のご恩をありがたく思い、身に余る思いで、思わず拝んで通ったのだ」と言った。 直茂は、家臣が上方のことを知らず、万事不都合だったので、稲垣権左衛門という者を召し抱えて二百石を与えた。ある日直茂が高伝寺に参詣すると、門に張り札があった。そこには「譜代の者さえ取らない知行を、稲垣が来て二百石取る」とあった。直茂は帰宅した後、「譜代の者にさえ沙汰もなく、他国の者に知行をやることに、みなが納得しないのはもっともだ。私の誤りだ。痛み入る。公儀の方で不手際があっても、国の害にはならない」と言って、権左衛門にそのことを諭して暇を与えた。 佐嘉の城普請が完成した時、直茂は勝茂とこれを見て回った。勝茂は敵が攻めてきたときの備えを、一つ一つ講釈した。直茂は後で近臣に向かい、「勝茂は城の構えの敵合いに力を入れて講釈するが、腹を切るところを忘れてはいないだろうか」と言った。直茂は、縄張りや陣立てなどは大概にして、ただ家臣が一つにまとまり、主人を恨まないようにして、いざという時には上下一致して突きかかり切り崩すことを、第一の心得としていたという。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
『慎思録』巻之六白楽天の詩に曰く、得る所皆望みに過ぐ、躬を省みれば良に愧づべしと。白氏は誠に是れ英才善行の人にして、其の言ふ所此くの如し。況んや吾才行無く、人に逮ばざること遠きをや。得る所望外に逾ゆと謂ふべし。韓非の人と為りや、口吃にして道説すること能はずして、善く書を著す。韓文公曰く、当世を化するは言に如くは莫く、来世を化するは書に如くは莫しと。篤信謂ふ、余口吃ならずと雖も、言詞拙陋にして、義理を道説すること能はず。且つ作文庸拙にして、書を著して人に示すこと能はず。蓋し言を出だし書を著すこと、両つながら之を失ふ。何を以て人を化することを得んや。唯だ自ら楽しむを以て事と為すのみ。
-
史記 魏公子列伝魏の公子無忌は、魏の昭王の少子にして魏の安釐王の異母弟なり。昭王薨じ、安釐王即位し、公子を封じて信陵君と為す。是の時、范睢魏を亡げて秦に相たり、魏斉を怨むの故を以て、秦の兵大梁を囲み、魏の華陽の下の軍を破り、芒卯を走らす。魏王及び公子これを患ふ。公子は人と為り仁にして士に下り、士は賢不肖と無く皆謙りて礼もてこれに交はり、敢へてその富貴を以て士に驕らず。士は此を以て方数千里争ひ往きてこれに帰し、食客三千人を致す。是の時に当たりて、諸侯は公子の賢にして客多きを以て、敢へて兵を加へて魏を謀らざること十余年。
-
『武家家訓集』毛利元就三子教訓状「二十歳から四十余年のこと」一元就事二十五年、奧元にはなれ申、至當年于今迄四十餘ヶ年、其內大浪小浪洞に、他家之弓矢いかばかり轉變に候哉、然處元就一人すべりぬけ候て、如此之儀不思議不能申候身ながら、吾等事けな氣者、とうほ手ものにても、智惠才覺人に越候者にても、又正直正路者にて人にすぐれ、神佛の御まぼりあるべき者にても、何之條にてもなく候處に、かやうにすべりぬけ候事、何之段にて候共、更身ながら不及推量候〱、然間はやく〱心安、ちと今生のらくをも仕、心靜に後生のねがひをも仕度候へ共、其段も先ならず候て不及申候〱、
-
『文武訓』文訓上之末一人は只、わが身をかへりみて、わが身のさかしおろかなると、才あるとつたなきとのほどを知りて、つねに人にへりくだり、わが身にほこるべからず。才智ありてもなくしても、わが身にほこりたかぶり、人をこのんで見くだし、又そしるは罪ふかし。いとおろかなりといふべし。
-
『驢鞍橋』卷上夜話に曰く、今時の人すべを知らす、餓鬼畜生をさへ離れすして、二乗見解と云つて声聞縁覚をそしる人あり、あまり土な事なり。人は知らず、我は餓鬼畜生を離れす、誰ほしと云はば、おれほしと云はんずと也。因に人問ふ、日本諸宗の大師先徳に、古は大修行底の人有りや。師曰、知らぬ事なり、残されたる法語等を以て見れば、経文語録の格を以て書示されたると見えたり。実に修行强き人有りとも見えすと也。
-
易経・豫卦周易 第十六卦。坤下震上。易経。豫は、侯を建て師を行るに利ろし。初六、豫を鳴らす、凶。六二、介きこと石の于し、日を終えず、貞にして吉。六三、盱りて豫しむ、悔ゆ。遅ければ悔い有り。九四、由りて豫しむ、大いに得る有り。疑う勿かれ、朋盍ぞ簪まらざらん。六五、貞にして疾む、恒に死せず。上六、豫に冥し、成るも渝わる有り、咎无し。彖に曰く、