名将言行録 / 『名将言行録』鍋島直茂 孝行の盗人を許す
○勝茂の代に、輿賀の庄に脇穗を刈り盗みたる者あり、糺問の末に、死刑に定まりたり、直茂聞て不審に思ひ、橫目の者を遣はし、之を糺さしむるに、盜の曰く、此三ヶ年老母相煩ひ某ことは、何方へも奉公杯もせず、混たと相副看病致居候へば、手前困窮致したることは據なく候、然るに母申すは、早苗の米少し食し度と申候間、是非に及ばず、脇穗を刈り少し計り母に食はせ候と、直茂聞て、仔細あるべきことゝ思ひしに、果して然りとて、殊の外不憫に思ひ、米拾俵を與へ、如何にも能く母へ孝行を致すべし、猶不足あらば、重ねて與ふべしと言て、其罪を赦せり。 ○天正十四年四月、秋月種實使を薩摩に遣はし、兵を乞ふの時、使人を選び薩州へ遣はす、此使直茂の館に立寄り、右の趣申述ければ、直茂、箇樣のことは使者の申樣肝要なり、其仔細は舞や平家抔も上手と下手とは同じ言葉なれども、語り樣にて、格別此方の心入相違するものなり、隨分言葉を巧に、理を細かに申さば、薩州勢の出張は、疑あるべからずと言はる、使者領して去る。果して義久兵を出せり。 ○直茂、一日接木をさせて之を見る、傍に居る某に、汝も接木をするやと問ふ。某最早年が末に相成候間、左樣なることは仕らずと言ふ、直茂、偖々汝は沙汰の限りなり、汝が見るべきと思候や、なぞ子供孫供へは取らせぬぞ、物毎我爲め計りにせぬものぞ、末代他人の爲めとするものぞと言て、叱られたり。
新字:○勝茂の代に、輿賀の庄に脇穂を刈り盗みたる者あり、糺問の末に、死刑に定まりたり、直茂聞て不審に思ひ、横目の者を遣はし、之を糺さしむるに、盗の曰く、此三ヶ年老母相煩ひ某ことは、何方へも奉公杯もせず、混たと相副看病致居候へば、手前困窮致したることは拠なく候、然るに母申すは、早苗の米少し食し度と申候間、是非に及ばず、脇穂を刈り少し計り母に食はせ候と、直茂聞て、仔細あるべきことゝ思ひしに、果して然りとて、殊の外不憫に思ひ、米拾俵を与へ、如何にも能く母へ孝行を致すべし、猶不足あらば、重ねて与ふべしと言て、其罪を赦せり。 ○天正十四年四月、秋月種実使を薩摩に遣はし、兵を乞ふの時、使人を選び薩州へ遣はす、此使直茂の館に立寄り、右の趣申述ければ、直茂、箇様のことは使者の申様肝要なり、其仔細は舞や平家抔も上手と下手とは同じ言葉なれども、語り様にて、格別此方の心入相違するものなり、随分言葉を巧に、理を細かに申さば、薩州勢の出張は、疑あるべからずと言はる、使者領して去る。果して義久兵を出せり。 ○直茂、一日接木をさせて之を見る、傍に居る某に、汝も接木をするやと問ふ。某最早年が末に相成候間、左様なることは仕らずと言ふ、直茂、偖々汝は沙汰の限りなり、汝が見るべきと思候や、なぞ子供孫供へは取らせぬぞ、物毎我為め計りにせぬものぞ、末代他人の為めとするものぞと言て、叱られたり。
書き下し
○勝茂の代に、輿賀の庄に脇穗を刈り盗みたる者あり、糺問の末に、死刑に定まりたり、直茂聞て不審に思ひ、橫目の者を遣はし、之を糺さしむるに、盜の曰く、此三ヶ年老母相煩ひ某ことは、何方へも奉公杯もせず、混たと相副看病致居候へば、手前困窮致したることは據なく候、然るに母申すは、早苗の米少し食し度と申候間、是非に及ばず、脇穗を刈り少し計り母に食はせ候と、直茂聞て、仔細あるべきことゝ思ひしに、果して然りとて、殊の外不憫に思ひ、米拾俵を與へ、如何にも能く母へ孝行を致すべし、猶不足あらば、重ねて與ふべしと言て、其罪を赦せり。 ○天正十四年四月、秋月種實使を薩摩に遣はし、兵を乞ふの時、使人を選び薩州へ遣はす、此使直茂の館に立寄り、右の趣申述ければ、直茂、箇樣のことは使者の申樣肝要なり、其仔細は舞や平家抔も上手と下手とは同じ言葉なれども、語り樣にて、格別此方の心入相違するものなり、隨分言葉を巧に、理を細かに申さば、薩州勢の出張は、疑あるべからずと言はる、使者領して去る。果して義久兵を出せり。 ○直茂、一日接木をさせて之を見る、傍に居る某に、汝も接木をするやと問ふ。某最早年が末に相成候間、左樣なることは仕らずと言ふ、直茂、偖々汝は沙汰の限りなり、汝が見るべきと思候や、なぞ子供孫供へは取らせぬぞ、物毎我爲め計りにせぬものぞ、末代他人の爲めとするものぞと言て、叱られたり。
現代語訳
勝茂の代に、輿賀の庄で早稲の穂を刈って盗んだ者があり、取り調べの結果、死刑と決まった。直茂は聞いて不審に思い、横目の者を遣わしてこれを調べさせた。盗人は言った。「この三年、老母が病み、私はどこへも奉公に出ず、ずっと付き添って看病しておりました。そのため手元が困窮したのはやむを得ません。ところが母が、早苗の米を少し食べたいと申しましたので、やむを得ず早稲の穂を刈り、少しだけ母に食べさせました」。直茂は聞いて、何か事情があるだろうと思ったが、はたしてそうだったと言い、たいそう不憫に思って、米十俵を与え、「母によく孝行を尽くせ。なお足りないなら、重ねて与える」と言って、その罪を許した。 天正十四年四月、秋月種実が薩摩へ兵を乞う使者を遣わすとき、使者を選んで薩摩へやった。この使者が直茂の館に立ち寄って、その趣旨を述べると、直茂は言った。「こういうことは使者の言い方が肝心だ。その理由は、舞や平家などでも、上手と下手は同じ言葉なのに、語り方によって、聞く側の心入れがまったく違ってくるからだ。言葉を巧みにし、道理を細かく述べれば、薩摩勢の出陣は疑いない」。使者は承知して去った。はたして島津義久は兵を出した。 直茂は一日、接ぎ木をさせて見ていた。そばにいたある者に「お前も接ぎ木をするか」と尋ねた。その者は「もう年も末ですので、そのようなことはいたしません」と言った。直茂は「なんとまあ、お前はあきれた奴だ。お前が自分で見られると思うのか。なぜ子や孫に取らせないのだ。何事も自分のためだけにするものではない、末代の他人のためにするものだ」と言って叱ったという。
解説

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名将言行録・『名将言行録』鍋島直茂 盗賊を許す親の情○齋藤佐渡、其子用之助武功ある者共なれども、窮迫に陷り、止むを得ず米負ひたる馬十駄計り劫かし、其米を奪ふ。勝茂怒り、死罪にせんと奉行を以て直茂に告ぐ、直茂夫婦之を聞き、愁歎一方ならず、兎角の返答なし、勝茂驚き、輕減して浪人を命ずる旨、又直茂に告げしむ。直茂曰く、佐渡が强盜は我等がさせたるに異ならず、度々手柄高名したる者なれども、太平の奉公、軍程に之なき故、しか〱地行抔も取らせず、無事の世間故、我等も思ひ忘れたり、其恨み箇樣のことも仕出すべし、面目なきこととなり、我等に對し、浪人申付くること、信濃守の孝行嬉しきことなり、箇樣の惡事を仕出したる者を助けられよ、と言難く最前は返答もせざりしなりと言はれ、追て佐渡へ米十石賜はりたり。直茂死去の時、佐渡、用之助及び、次男權右衞門父子三人殉死せり。
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名将言行録・『名将言行録』鍋島直茂 下女を拝んだ老将○直茂老年に及び、夜々小便に通ふに、女共の臥居たるを見て、拜みて通りたり、何れも不審に思ひ尋ねければ、直茂、偖は女共見咎めたるか、我等若年の頃は、中々不如意に候ひつるに、只今召使候下女等、結構の夜物抔を著たるを見れば、偏に天道の御恩忝くと、身に餘り存じたる故、覺えず拜みて通りたりと言へり。 ○直茂、家臣上國の事を知らず、萬事不都合なるを以て、稻垣權左衞門と曰ふ者を抱て二百石與へたり、一日直茂、高傳寺に詣る、門に張札あり、『御譜第の者だに取らぬ地行をば、いながきが來て二百石取る。』と、直茂歸宅の上、譜第の者にさへ無沙汰致し、他方の者に知行呉れること、何れも不合點の段尤も至極なり、我等誤り痛入たり、公儀方不調法にても、國家の害には成らずと言て、權左衞門に右の段を、諭し暇を賜はりしとぞ。 ○佐嘉の城普請成就せし時、直茂、勝茂と之を巡視す、勝茂敵寄せ來る時の物合を、一々講釋す。直茂、後、近臣に向ひ、勝茂には城取の敵合に精を出し講釋をするが、腹切る所を忘れては居らぬかと言はれしとぞ。直茂には繩張備立抔は大概にし、只家臣一和して主人を恨みざる樣になし、自然の時は、上下一致に突掛り切崩すことを、專一に心得られしとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』鍋島直茂 山伏の夢の祝儀○或山伏、黒田長政の所に至り、昨夜の夢に、長政公五ヶ國の太守に成らせられしを見たりと申す、長政偖々能き夢、早々知らせ過分のことなり、頓て五ヶ國の太守に成り候時、祝儀遣はすべくと言て返す。山伏、案に相違せり。又肥前に來り同じ夢を直茂に申す。直茂偖々能き夢、早速知らせ過分のことなりと言て金百疋を與ふ、近臣黒田家のことを言て、金子を賜はることは如何と申す、直茂曰く惣じて道の者は其道にて立つて行かねば叶はぬものなり、山伏抔は、あの樣なることどもを言て、人の施を受くる者なる故、金子を與へたりと言はれけり。 ○直茂、年老て多布施に退隱せり。近邊に西峰院と曰ふ小庵あり、庵主、毎日曉天に鉦を扣き經を誦す。直茂之を聞き、人は斯くこそ職を勸むべけれ、奇特の者なり、賞すべしとて、人を遣はし視せければ、彼僧未だ起きず、撥を足に展て鉦を扣き、臥して經を讀む。使者密に之を見て歸り、彼は以の外不屆者なり、罰し給へと言て其樣子を語りければ、直茂、莞爾として苦しからず、善事は眞似でもせよと言へることありと言て、竟に祿を與へけり。彼庵今に於て其祿を保てりと云ふ。
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名将言行録・『名将言行録』鍋島直茂 三つの器と法の運用○秀吉伽の者、或時秀吉に向ひ、當時天下を取り申す器量の大名之あり候やと問ければ、秀吉、天下を取ることは大氣勇氣智惠なければならず、此三つを兼ねたる大名一人もなし、又小者には二つづゝ兼ねたる者三人あり、上杉が直江山城、是は大氣勇氣あれども、智惠掛合はず、毛利が小早川左衞門、是は大氣智惠あれども、勇氣掛合はず、龍造寺が鍋島飛驒守、是は勇氣智惠あれども、大氣がなし、大名には是程の者もなしと言はれたり。 ○直茂曰く、義理程感深きものはなし、從弟抔の死たる時、涙を流さぬこともあるに、緣りもなく、見も知りもせぬ、五十年も百年も以上の人の上を聞て、義理なることには、落淚するものなりと。 ○又曰く、上下によらず時節到來すれば、家が崩るゝものなり、其時崩す間敷とすれば、きたな崩しするなり、時節到來と思はゞ、崩したるが能きなり、其時は抱留ることもあるものなりと。 ○又曰く、我氣に入らぬことが、我爲めに成るものなりと。 ○又曰く、家々の掟は種々あるべし、其内に火あぶりは磔、磔は切腹、切腹は浪人、浪人は只叱りて置くべし、叱る者は只やわらかにすべし、叱るべき者を浪人、浪人さすべき者を切腹、切腹さすべき者を磔、磔に掛くべき者を火あぶりと、箇樣にせば、其過分の積る所、勝茂の身の上たるべし、返す〱罰は輕くし、少しの忠も重くせば、家は連續すべしと。故に勝茂より法に背きたる者を罰すべくと言はれし毎に、何角と言直され、助けられし者寡なからずとぞ。
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名将言行録・『名将言行録』立花宗茂 助命嘆願と官位の辞退○此時、宗茂、和爾江遍原と曰ふ者を攻む。會々秀吉筑紫下向に付、宗茂より使を以て城中へ申入れけるは、今度某は太閤へ目見に出候間、其中は城攻を見合せ候に付、其方よりも手前殘し置候者に、手指致さる間敷候、彌々其意を得られ候はゞ、兩人義は太閤へ申上、助命致すべし、併し當時鍋島も寄手なれば、某不在の內、鍋島攻められ落城の程心許なく候と申遣はせり。城より返事に、委細承り候御不在中殘し置かれ候者に、手指致す間敷候、太閤へ仰上られ、我等共命を御助け之あるべきとの義、其意を得候、只今まで籠城致し、一戰をも遂げず候段殘念に存候間、降參候事は存寄らず候へ共、天下へ對しての義、各別のことに候間、如何樣にも仕るべく候、其中鍋島攻め申分にては、中々落城致す間敷由、申越せり。偖宗茂、秀吉へ謁見相濟み、兩人の事を言上して、助命を乞ふ。秀吉聽かず、宗茂頻りに乞ふ。秀吉、淺野長政をして、宗茂を諭さしむ。宗茂、兩人のこと御赦免之なく候はゞ、私どもを御成敗下され度、と强て乞ふに依り、秀吉も是非なく、兩人の罪を免されけり。 ○十六年、宗茂上京す。秀吉、羽柴の族を賜はり、四位の侍從に敍任せらるべしとありければ宗茂承はり、昇殿を許さるゝこと今生の思ひ出にて候、去ながら、大友義統未だ五位にて罷在れば、彼を超申さんこと本意にあらず、仰ぎ願くば只五位に叙せられかしと望み申ければ、神妙の志なり、暫らく五位にて置かれしが、頓て四位に叙せられけり。
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名将言行録・『名将言行録』鍋島直茂 老兵の一言と組頭の責め○勝茂鐵砲射的を覘る時、齋藤用之助、前にあり、火蓋を切り、空に向て放ちたり。矢廻の者玉なしと言ふ。用之助立ちながら高聲に申すは、何れに玉はあろふか、此年まで終に土射たることなし、去りながら妙な生れ付にて敵の胴中を射ることは遁さず、其證人は飛驒殿生きおぢやると申たり、勝茂大に怒り、手刄せんと思ひしが、先づ其場を忍びて歸り、直茂に告げて、如何樣にも仰付られ度と言ふ。直茂聞き、其方立腹尤も至極なり、即ち寄親富岡喜左衞門に腹を切らせ候へと荒らかに言はる。勝茂、喜左衞門は何の罪も之なく、只用之助を如何樣にも仰付られ度と申ければ、直茂頃日組頭共へ申聞け候は、箇樣打續き天下泰平のことなれば若き侍共油斷致し、武具の取扱も知らず、徒らに罷在候はゞ、自然の時用に立ざること之ある間、近々射的を致させ、信濃守へ見せ候て、然るべくと申付たり。是は不鍛錬の若輩者のことなり、夫に老人の用之助を引出し、若輩者並に的を射させたること、無調法千萬寄親越度、此上なし、用之助が申分尤も至極せり、彼者が證人は、成る程、我等なり、早速組頭に切腹申付べくと言はれければ、勝茂種々陳謝ありて、其事濟みしとぞ。