名将言行録 / 『名将言行録』鍋島直茂 寝ずの番と有馬出陣の諫め
○隆信田尻を攻めし時、柳川城にて酒宴す、侍女ども御庭の隅に人影見え候と申す、隆信則ち出て見て何者ぞと咎めければ、左衞門太夫にて候と申し、拔身の鎗を持居たり。何故に夫に居るやと尋ねければ、世上敵多く、御油斷ばさるゝ時節にて之なく候、今夜御酒宴と承はりたるに付き、心元なく御番仕候と言ければ、隆信殊の外喜び、是にて酒を參り候へと言はるゝに付、其席へ出でし所寒夜にて、手こゞえ持ちたる鎗手より離れざりしとぞ。 ○天正十年、隆信、織田信長父子弑に遇ふを聞き、天下必ず秀吉に歸すべきことを知りて、屢々直茂をして、音信を通ぜしむ、前年石田備中守をして、音信を通ず、今年、又土肥出雲守家實をして南蠻帽子を贈る、秀吉大に喜び、返翰を贈らろ、是皆直茂の策なり。 ○十二年、有馬の役、直茂、隆信を諫めて曰く、今度有馬へ御發向然るべからず、御鎗先強く、五箇國の太守に成らせられ、是體の小事に御出馬は輕々敷候、殊に島津當方の大軍を知りながら、催の人數を遣はし、有馬勢を合し一萬に過ぐべからず、左れば是れ皆必死の勢にて候、味方は大軍なれども、所々の集り勢なれば、軍配揃兼ね申べく、然る時は人多く損し申べし、今大友、島津の大敵を御抱へ、催の事に人數を損ぜらるゝこと、御武略の足らざるに似たり、御免候はゞ、某彼地へ罷向ひ平均仕るべしと、再三申しけれども、承引なく、五萬の人數にて有馬に發向し、遂に敗死せり。
新字:○隆信田尻を攻めし時、柳川城にて酒宴す、侍女ども御庭の隅に人影見え候と申す、隆信則ち出て見て何者ぞと咎めければ、左衛門太夫にて候と申し、抜身の鎗を持居たり。何故に夫に居るやと尋ねければ、世上敵多く、御油断ばさるゝ時節にて之なく候、今夜御酒宴と承はりたるに付き、心元なく御番仕候と言ければ、隆信殊の外喜び、是にて酒を参り候へと言はるゝに付、其席へ出でし所寒夜にて、手こゞえ持ちたる鎗手より離れざりしとぞ。 ○天正十年、隆信、織田信長父子弑に遇ふを聞き、天下必ず秀吉に帰すべきことを知りて、屡々直茂をして、音信を通ぜしむ、前年石田備中守をして、音信を通ず、今年、又土肥出雲守家実をして南蠻帽子を贈る、秀吉大に喜び、返翰を贈らろ、是皆直茂の策なり。 ○十二年、有馬の役、直茂、隆信を諫めて曰く、今度有馬へ御発向然るべからず、御鎗先強く、五箇国の太守に成らせられ、是体の小事に御出馬は軽々敷候、殊に島津当方の大軍を知りながら、催の人数を遣はし、有馬勢を合し一万に過ぐべからず、左れば是れ皆必死の勢にて候、味方は大軍なれども、所々の集り勢なれば、軍配揃兼ね申べく、然る時は人多く損し申べし、今大友、島津の大敵を御抱へ、催の事に人数を損ぜらるゝこと、御武略の足らざるに似たり、御免候はゞ、某彼地へ罷向ひ平均仕るべしと、再三申しけれども、承引なく、五万の人数にて有馬に発向し、遂に敗死せり。
書き下し
○隆信田尻を攻めし時、柳川城にて酒宴す、侍女ども御庭の隅に人影見え候と申す、隆信則ち出て見て何者ぞと咎めければ、左衞門太夫にて候と申し、拔身の鎗を持居たり。何故に夫に居るやと尋ねければ、世上敵多く、御油斷ばさるゝ時節にて之なく候、今夜御酒宴と承はりたるに付き、心元なく御番仕候と言ければ、隆信殊の外喜び、是にて酒を參り候へと言はるゝに付、其席へ出でし所寒夜にて、手こゞえ持ちたる鎗手より離れざりしとぞ。 ○天正十年、隆信、織田信長父子弑に遇ふを聞き、天下必ず秀吉に歸すべきことを知りて、屢々直茂をして、音信を通ぜしむ、前年石田備中守をして、音信を通ず、今年、又土肥出雲守家實をして南蠻帽子を贈る、秀吉大に喜び、返翰を贈らろ、是皆直茂の策なり。 ○十二年、有馬の役、直茂、隆信を諫めて曰く、今度有馬へ御發向然るべからず、御鎗先強く、五箇國の太守に成らせられ、是體の小事に御出馬は輕々敷候、殊に島津當方の大軍を知りながら、催の人數を遣はし、有馬勢を合し一萬に過ぐべからず、左れば是れ皆必死の勢にて候、味方は大軍なれども、所々の集り勢なれば、軍配揃兼ね申べく、然る時は人多く損し申べし、今大友、島津の大敵を御抱へ、催の事に人數を損ぜらるゝこと、御武略の足らざるに似たり、御免候はゞ、某彼地へ罷向ひ平均仕るべしと、再三申しけれども、承引なく、五萬の人數にて有馬に發向し、遂に敗死せり。
現代語訳
龍造寺隆信が田尻を攻めたとき、柳川城で酒宴を開いた。侍女たちが「お庭の隅に人影が見えます」と言う。隆信が出て「何者だ」と咎めると、「左衞門太夫でございます」と答え、抜き身の槍を持って立っていた。「なぜそこにいるのか」と尋ねると、「世の中は敵が多く、油断してはならない時節です。今夜は酒宴と聞き、気がかりで警固にあたっておりました」と言う。隆信は大いに喜び、「それならこちらで酒を飲め」と言った。その席に出たところ、寒い夜で、手がかじかんで、持った槍が手から離れなかったという。 天正十年、隆信は織田信長父子が討たれたと聞き、天下は必ず秀吉のものになると悟って、たびたび直茂に使いを通わせさせた。前の年には石田備中守を通じて音信し、この年はまた土肥出雲守家実に南蛮帽子を贈らせた。秀吉は大いに喜んで返書を送った。これはみな直茂の策であった。 十二年、有馬の戦いのとき、直茂は隆信を諫めて言った。「このたび有馬へお出かけになるのはよろしくありません。ご武威は強く、五カ国の太守となられたお方が、このような小事にご出馬されるのは軽々しく見えます。まして島津はこちらの大軍を知りながら兵を送っており、有馬勢と合わせても一万を超えないでしょう。それならば皆必死の軍勢です。味方は大軍ですが、あちこちからの寄せ集めなので統制がとりにくく、多くの者を失うでしょう。いま大友と島津という大敵を抱えながら、小さな戦で人数を損なわれるのは、ご武略が足りないように見えます。お許しいただければ私が現地へ赴いて収めましょう」。再三申したが聞き入れられず、五万の人数で有馬へ向かい、ついに敗れて討死した。
解説

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日暮硯・『日暮硯』諫言は百千倍の忠義若しまた重ねて勸むる者あらんには、我もまた飼鳥する心になるまじきものにもあらず、然し、かく其方を籠の內へ入れ、物を喰はせ、はぢしめての上は、再び飼鳥をすゝむる者、一人も有るまじ、我も亦飼鳥仕たき心になりても、其方へ對し飼ふ事ならず、其の外萬事に氣を付け、嗜まざればならぬこと故、我身の愼みには、諫言しくれしよりも、却て百千倍の忠義、莫大の奉公なり。其の上一人の心は千萬人の心なれば、我れ一人飼鳥を好むならば、少分なれども、我が領分十萬石のもの、殘らず飼鳥を好むべし。然らばこれ、如何ほどの惡事とも計り難し。今其方が籠の內にて物を喰ひし奉公にて、家中の者は申すに及ばず、領分の內も、飼鳥せし者も皆止べし、然らば是れ夥しき善事なるべし、又惡事としらずして此上我に勤るもの一人もあるまじく、却つて我に惡事あらば、諫言するもの多かるべし、然らば其方一人の奉公にて、大勢の人に善事をすゝむる師範となりたれば、殊の外なる善根をなしたるなり。面眉を闘いて殘念なる事なり抔と思ふことなかれ。唯今までの通り相替らず奉公せよ、心外の事、微塵もなし、我れには忠義、諸人には善事を勸むる指南役、此の上もなく大切なるものにて、當家繁昌の基を開く、是皆其方一人の働きなり。依之褒美として、目錄を出すぞ」とて、金拾兩、拜領仰せ付られ、其の身の面眉を御すゝぎの上、目錄まで下し置かれ、有がたき御政務、大慈悲の御仁德、申すも中々愚かなり。 此は公御歲十五の時の御事なりとかや、誠に生智安行の聖君にて、前代未聞の名將なり、されば後に、恩田木工を選出し給ひし明察も、眞にことわりとこそ覺ゆれ。
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『秘本玉くしげ』下 否と言へぬ政道大小の事何によらず、よき料簡あらば、たとひ軽き人なりとも、少しも憚ることなく申出るやうに有たきもの也。然れども、惣体たゞ上の事をおもおもしくするならひにて、中中軽き人などは御政務筋のことなどは申出がたきやうのならひにて、万一身分に過たることなどを申出れば、上を軽んじしひるなどいひたてて却て咎められ、或は又よき料簡ありて申出ることありても、傍よりとやかく妨げて其申分立がたく、又何事にても一料簡ある事は、かならずすこしはさはる所もあるものなれば、そのさはる所よりこれを妨げなどするほどに、申出たき事有ても憚りて得申出ざる也。況や君へ諫言がましき事などは決して申上られぬことになれり。諫言はさておき、主君の一度仰出されたる事は、詞をかへして「否それは」とも申されぬことになれるは、あまりにおもおもしきならはしにて、甚しき政道の妨也。随分に威を厳重にして下の恐るるやうにすべきは勿論の事なれども、それも事により程のあるべきこと也。
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