秘本玉くしげ / 下 否と言へぬ政道
大小の事何によらず、よき料簡あらば、たとひ輕き人なりとも、少しも憚ることなく申出るやうに有たきもの也。然れども、惣体たゞ上の事をおもおもしくするならひにて、中中輕き人などは御政務筋のことなどは申出がたきやうのならひにて、万一身分に過たることなどを申出れば、上を輕んじしひるなどいひたてて却て咎められ、或は又よき料簡ありて申出ることありても、傍よりとやかく妨げて其申分立がたく、又何事にても一料簡ある事は、かならずすこしはさはる所もあるものなれば、そのさはる所よりこれを妨げなどするほどに、申出たき事有ても憚りて得申出ざる也。況や君へ諫言がましき事などは決して申上られぬことになれり。諫言はさておき、主君の一度仰出されたる事は、詞をかへして「否それは」とも申されぬことになれるは、あまりにおもおもしきならはしにて、甚しき政道の妨也。隨分に威を嚴重にして下の恐るるやうにすべきは勿論の事なれども、それも事により程のあるべきこと也。
新字:大小の事何によらず、よき料簡あらば、たとひ軽き人なりとも、少しも憚ることなく申出るやうに有たきもの也。然れども、惣体たゞ上の事をおもおもしくするならひにて、中中軽き人などは御政務筋のことなどは申出がたきやうのならひにて、万一身分に過たることなどを申出れば、上を軽んじしひるなどいひたてて却て咎められ、或は又よき料簡ありて申出ることありても、傍よりとやかく妨げて其申分立がたく、又何事にても一料簡ある事は、かならずすこしはさはる所もあるものなれば、そのさはる所よりこれを妨げなどするほどに、申出たき事有ても憚りて得申出ざる也。況や君へ諫言がましき事などは決して申上られぬことになれり。諫言はさておき、主君の一度仰出されたる事は、詞をかへして「否それは」とも申されぬことになれるは、あまりにおもおもしきならはしにて、甚しき政道の妨也。随分に威を厳重にして下の恐るるやうにすべきは勿論の事なれども、それも事により程のあるべきこと也。
書き下し
大小の事何によらず、よき料簡あらば、たとひ軽き人なりとも、少しも憚ることなく申出るやうに有たきもの也。然れども、惣体たゞ上の事をおもおもしくするならひにて、中中軽き人などは御政務筋のことなどは申出がたきやうのならひにて、万一身分に過たることなどを申出れば、上を軽んじしひるなどいひたてて却て咎められ、或は又よき料簡ありて申出ることありても、傍よりとやかく妨げて其申分立がたく、又何事にても一料簡ある事は、かならずすこしはさはる所もあるものなれば、そのさはる所よりこれを妨げなどするほどに、申出たき事有ても憚りて得申出ざる也。況や君へ諫言がましき事などは決して申上られぬことになれり。諫言はさておき、主君の一度仰出されたる事は、詞をかへして「否それは」とも申されぬことになれるは、あまりにおもおもしきならはしにて、甚しき政道の妨也。随分に威を厳重にして下の恐るるやうにすべきは勿論の事なれども、それも事により程のあるべきこと也。
現代語訳
大小の事何によらず、よい考えがあるならば、たとえ身分の軽い人であっても、少しも遠慮することなく申し出るようであってほしいものである。しかしながら、総じてただ上の事を重々しくする習わしであって、なかなか身分の軽い人などは御政務の筋のことなどは申し出にくいような習わしで、万一身分に過ぎたことなどを申し出れば、上を軽んじ強いるなどと言い立ててかえって咎められ、あるいはまたよい考えがあって申し出ることがあっても、脇からとやかく妨げてその申し分が立ちにくく、また何事でも一つの考えのある事は、必ず少しは差し障る所もあるものなので、その差し障る所からこれを妨げなどするので、申し出たい事があっても遠慮して申し出ることができないのである。ましてや主君へ諫言めいた事などは決して申し上げられないことになった。諫言はさておき、主君がいったん仰せ出された事は、言葉を返して「いや、それは」とも申し上げられないことになっているのは、あまりに重々しい習わしであって、はなはだしい政道の妨げである。できるだけ威を厳重にして下が恐れるようにすべきなのはもちろんのことだけれども、それも事により程度があるべきことである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 季布欒布列伝中郎将と為る。単于嘗て書を為りて呂后を嫚り、不遜なり、呂后大いに怒り、諸将を召して之を議す。上将軍樊噲曰く「臣願はくは十万の衆を得て、匈奴の中に横行せん」と。諸将皆呂后の意に阿り、「然り」と曰ふ。季布曰く「樊噲斬るべきなり。夫れ高帝兵四十余万の衆を将ゐて、平城に困しむ、今噲柰何ぞ十万の衆を以て匈奴の中に横行せんとするは、面欺なり。且つ秦胡に事とするを以て、陳勝等起こる。今に于て創痍未だ瘳えず、噲又面諛し、天下を揺動せんと欲す」と。是の時殿上皆恐れ、太后朝を罷め、遂に復た匈奴を撃つ事を議せず。
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史記 殷本紀紂曰く、「我生まれて命の天に在る有らずや」と。祖伊反りて、曰く、「紂諫む可からず」と。西伯既に卒し、周の武王の東伐して、盟津に至る。諸侯の殷に叛きて周に会する者八百。諸侯皆曰く、「紂伐つ可し」と。武王曰く、「爾未だ天命を知らず」と。乃ち復た帰る。紂愈淫乱して止まず。微子数諫むるも聴かず、乃ち大師・少師と謀り、遂に去る。比干曰く、「人臣為る者は、死を以て争はざるを得ず」と。迺ち強ひて紂を諫む。紂怒りて曰く、「吾聞く、聖人の心に七竅有りと」と。比干を剖き、其の心を観る。箕子懼れ、乃ち詳狂して奴と為る。紂又之を囚ふ。殷の大師・少師乃ち其の祭楽器を持ちて周に奔る。周の武王是に於て遂に諸侯を率ゐて紂を伐つ。紂も亦兵を発して之を牧野に距ぐ。甲子の日、紂の兵敗る。紂走り、入りて鹿台に登り、其の宝玉の衣を衣て、火に赴きて死す。
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史記 張丞相列伝帝、太子を廃して、戚姫の子如意を立てて太子と為さんと欲するに及び、大臣固く之を争へども、能く得る莫し。上、留侯の策を以て即ち止む。而して周昌廷に之を争ふこと彊し。上其の説を問ふ。昌は人と為り吃(ども)りにして、又盛んに怒りて曰く、「臣の口は言ふこと能はず。然れども臣期期として其の不可なるを知る。陛下太子を廃せんと欲すと雖も、臣期期として詔を奉ぜず」と。上欣然として笑ふ。既に罷むるや、呂后東箱に耳を側てて聴き、周昌を見て、為に跪きて謝して曰く、「君微(な)かりせば、太子幾(ほと)んど廃せられん」と。是の後戚姫の子如意、趙王と為り、
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史記 白起王翦列伝是の時、武安君病み、行くに任へず。四十九年正月、陵、邯鄲を攻むるも、利少なし。秦益々兵を発して陵を佐く。陵の兵、五校を亡ふ。武安君病愈ゆ、秦王、武安君をして陵に代はりて将たらしめんと欲す。武安君言ひて曰く、「邯鄲は実に未だ攻め易からざるなり。且つ諸侯の救ひ日に至らん。彼の諸侯の秦を怨むの日久し。今、秦は長平の軍を破ると雖も、秦の卒の死する者は半ばを過ぎ、国内空し。遠く河山を絶りて人の国都を争はば、趙はその内に応じ、諸侯はその外を攻めん。秦の軍を破ること必せり。不可なり」と。秦王自ら命ずるも、行かず。乃ち応侯をしてこれを請はしむ、武安君終に辞して行くことを肯んぜず、遂に病と称す。秦王、王齕をして陵に代はりて将たらしめ、八九月、邯鄲を囲むも、抜く能はず。楚、春申君及び魏の公子をして兵数十万を将ゐて秦の軍を攻めしむ、秦の軍失亡多し。武安君言ひて曰く、「秦、臣の計を聴かず、今如何ぞや」と。秦王これを聞きて怒り、彊ひて武安君を起こす、武安君遂に病甐しと称す。応侯これを請ふも、起たず。是に於いて武安君を免じて士伍と為し、これを陰密に遷す。武安君病み、未だ行く能はず。居ること三月、諸侯秦の軍を攻むること急にして、秦の軍数々卻き、使者日に至る。秦王乃ち人をして白起を遣らしめ、咸陽の中に留まるを得ざらしむ。武安君既に行き、咸陽の西門を出づること十里、杜郵に至る。秦の昭王、応侯・群臣と議して曰く、「白起の遷るや、その意尚ほ怏怏として服せず、余言有り」と。秦王乃ち使者をしてこれに剣を賜ひ、自裁せしむ。武安君、剣を引きて将に自ら剄ねんとして、曰く、「我何の罪ありて天に于いて此に至るや」と。良久しくして、曰く、「我固より当に死すべし。長平の戦ひ、趙の卒の降る者数十万人、我詐りて尽くこれを阬にす、是れ以て死するに足る」と。遂に自殺す。武安君の死するや、秦の昭王五十年十一月を以てす。死して其の罪に非ず、秦人これを憐れみ、郷邑皆これを祭祀す。
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史記 田叔列伝魯の相初めて到るや、民自ら相に言ひ、王の其の財物を取るを訟ふる者百余人。田叔其の渠率二十人を取り、各々笞うつこと五十、余は各々搏つこと二十、之を怒りて曰く、「王は若の主に非ずや。何ぞ自ら敢へて若の主を言ふ」と。魯王之を聞きて大いに慚ぢ、中府の銭を発し、相をして之を償はしむ。相曰く、「王自ら之を奪ひ、相をして之を償はしむるは、是れ王悪を為して相善を為すなり。相は与に之を償ふ毋し」と。是に於て王乃ち尽く之を償ふ。魯王猟を好み、相常に従ひて苑中に入る。王輒ち相を休ませて館舎に就かしむ。相出でて、常に暴坐して王を苑外に待つ。王数々人をして相に休まんことを請はしむるも、終に休まず。曰く、「我が王苑中に暴露す。我独り何為れぞ舎に就かん」と。魯王故を以て大いには出游せず。
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荀子・大略篇人の臣下たる者は、諫むること有るも訕ること無く、亡ること有るも疾むこと無く、怨むこと有るも怒ること無し。
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