名将言行録 / 『名将言行録』鍋島直茂 主君の首を拾わぬ判断
○島津家より、河上助七郎をして隆信の首を差送りたり。助七郎、筑後の榎津へ船を着けて、其趣を申越す。直茂國の强弱を伺ふことと察し、大隈安藝守を以て答て曰く、隆信の首を差送られ御志の至りには候へ共、不運の首此方へ申請ても益なきことなり、何れになりとも捨置かれよとなり。助七郎力に及ばず、首を持歸り、高瀬の願行寺に葬りて歸れり。此役老功の者、悉く討死し、龍造寺の家危急なりしかども、直茂の武略を以て、國中には敵一人も足を踏まず、政家全く肥前を踏み靜めたりしは、直茂の力なり。是より諸人彌々直茂を家の柱の如く思ひけり。 ○十五年、秀吉九州を平げ、歸京の後、侍臣に向ひ、我今度西國にて珍敷物を見たりと言はれける。何を御覽じたるやと尋ねければ、鍋島飛驒守と曰ふ者なりと言はれけり。 ○加藤清正曰く、我等若年より、所々に於て數度の鎗を致したれども、朝鮮にての軍の樣に、仕能きことは之なし、其故は鍋島加州丈夫の弓執にて、終に先を望まれしこと之なく、公儀よりの仰付られを、堅く相守られし故、心易く存じ、合戰心能くし、朝鮮にて名譽を播したり。是偏に加賀守の武功故なり、彼方二の目より先を望まるれば、殊の外軍致し惡く存じたる由、時々物語ありしとぞ。
新字:○島津家より、河上助七郎をして隆信の首を差送りたり。助七郎、筑後の榎津へ船を着けて、其趣を申越す。直茂国の強弱を伺ふことと察し、大隈安芸守を以て答て曰く、隆信の首を差送られ御志の至りには候へ共、不運の首此方へ申請ても益なきことなり、何れになりとも捨置かれよとなり。助七郎力に及ばず、首を持帰り、高瀬の願行寺に葬りて帰れり。此役老功の者、悉く討死し、竜造寺の家危急なりしかども、直茂の武略を以て、国中には敵一人も足を踏まず、政家全く肥前を踏み静めたりしは、直茂の力なり。是より諸人弥々直茂を家の柱の如く思ひけり。 ○十五年、秀吉九州を平げ、帰京の後、侍臣に向ひ、我今度西国にて珍敷物を見たりと言はれける。何を御覧じたるやと尋ねければ、鍋島飛驒守と曰ふ者なりと言はれけり。 ○加藤清正曰く、我等若年より、所々に於て数度の鎗を致したれども、朝鮮にての軍の様に、仕能きことは之なし、其故は鍋島加州丈夫の弓執にて、終に先を望まれしこと之なく、公儀よりの仰付られを、堅く相守られし故、心易く存じ、合戦心能くし、朝鮮にて名誉を播したり。是偏に加賀守の武功故なり、彼方二の目より先を望まるれば、殊の外軍致し悪く存じたる由、時々物語ありしとぞ。
書き下し
○島津家より、河上助七郎をして隆信の首を差送りたり。助七郎、筑後の榎津へ船を着けて、其趣を申越す。直茂國の强弱を伺ふことと察し、大隈安藝守を以て答て曰く、隆信の首を差送られ御志の至りには候へ共、不運の首此方へ申請ても益なきことなり、何れになりとも捨置かれよとなり。助七郎力に及ばず、首を持歸り、高瀬の願行寺に葬りて歸れり。此役老功の者、悉く討死し、龍造寺の家危急なりしかども、直茂の武略を以て、國中には敵一人も足を踏まず、政家全く肥前を踏み靜めたりしは、直茂の力なり。是より諸人彌々直茂を家の柱の如く思ひけり。 ○十五年、秀吉九州を平げ、歸京の後、侍臣に向ひ、我今度西國にて珍敷物を見たりと言はれける。何を御覽じたるやと尋ねければ、鍋島飛驒守と曰ふ者なりと言はれけり。 ○加藤清正曰く、我等若年より、所々に於て數度の鎗を致したれども、朝鮮にての軍の樣に、仕能きことは之なし、其故は鍋島加州丈夫の弓執にて、終に先を望まれしこと之なく、公儀よりの仰付られを、堅く相守られし故、心易く存じ、合戰心能くし、朝鮮にて名譽を播したり。是偏に加賀守の武功故なり、彼方二の目より先を望まるれば、殊の外軍致し惡く存じたる由、時々物語ありしとぞ。
現代語訳
島津家から河上助七郎に隆信の首を持たせて送ってきた。助七郎は筑後の榎津に船を着け、その趣旨を伝えてきた。直茂は、こちらの国の強弱を探るためだと察し、大隈安芸守を通じて答えさせた。「隆信公の首を送ってくださるお志はありがたいが、不運の首をこちらで受け取っても益がない。どこにでも捨て置かれよ」。助七郎はどうしようもなく、首を持ち帰り、高瀬の願行寺に葬って帰った。この戦で経験豊かな者はことごとく討死し、龍造寺家は危急の状態にあったが、直茂の武略によって国中に敵が一人も足を踏み入れず、政家が肥前を完全に鎮められたのは直茂の力であった。これ以後、人々はいよいよ直茂を家の柱のように思った。 十五年、秀吉は九州を平定して京に帰った後、側近に向かい「このたび西国で珍しいものを見た」と言った。「何をご覧になったのですか」と尋ねると、「鍋島飛騨という者だ」と答えた。 加藤清正が言った。「私は若い時から各所で何度も槍働きをしたが、朝鮮での戦ほどやりやすかったことはない。その理由は、鍋島加賀守が堅実な弓取りで、先陣を望まれることがなく、公儀の命じられた持ち場を固く守られたので、安心して心よく戦い、朝鮮で名誉を挙げることができた。これはひとえに加賀守の武功のおかげである。もし彼が二番手より先を望んだら、ひどく戦いにくかっただろう」と、折にふれて語ったという。
解説

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