名将言行録 / 『名将言行録』鍋島直茂 佐嘉城籠城の決断
駿河守清房の子、加賀守に任す。龍造寺隆信に仕へ、神崎郡四萬四千五百石を領す。隆信死後、其子駿河守高房の幼なるを以て國事を代理す、高房卒するに及び直茂の子勝茂終に龍造寺氏を繼ぎ、三十五萬七千餘石を領し佐嘉城に住す。仍ほ鍋島と稱す。直茂初め信生、後今の名に改む。元和四年六月三日、卒年八十一。 ○永祿十二年、大友義鎭步騎六萬を率る、龍造寺隆信を佐嘉城に圍み攻む、城中の人々詮議して、大友に御降參あるか、又は筑後へ御立退ありて、御歸國の節を待たるべきかとなり。直茂先づ御降參のこと然るべからず、又筑後へ御立退のこと、先年に事替はり、彼國悉く大友方に成りたり、去れば御立退のことも叶ふまじ、詮ずる所當城に籠る所の者は、御一家の外たりとも、皆譜第の輩にて、大友が催し勢三萬より、味方の三千は手強し、然らば城中に異心の者すら出來ずば、容易に落つべからず、何卒十餘日を待ちなば、毛利の授兵來るべし、若し來らずば、力及ばず城を枕に潔く討死するより外あるべからずと詞を放て言ければ、隆信之に同心す。直茂猶も吉凶の二つを神慮に任すべしとて、泰長院震龍を招き占はしむ。直茂先づ密に震龍を招き城を去らざるを吉と申されよ、大事の占なれば、誤り給ふなと言含めければ、震龍共、意を得て、直茂の言の如く占ひしかば、隆信を始め衆議一決し、籠城して運を開きたり。
新字:駿河守清房の子、加賀守に任す。竜造寺隆信に仕へ、神崎郡四万四千五百石を領す。隆信死後、其子駿河守高房の幼なるを以て国事を代理す、高房卒するに及び直茂の子勝茂終に竜造寺氏を継ぎ、三十五万七千余石を領し佐嘉城に住す。仍ほ鍋島と称す。直茂初め信生、後今の名に改む。元和四年六月三日、卒年八十一。 ○永禄十二年、大友義鎮歩騎六万を率る、竜造寺隆信を佐嘉城に囲み攻む、城中の人々詮議して、大友に御降参あるか、又は筑後へ御立退ありて、御帰国の節を待たるべきかとなり。直茂先づ御降参のこと然るべからず、又筑後へ御立退のこと、先年に事替はり、彼国悉く大友方に成りたり、去れば御立退のことも叶ふまじ、詮ずる所当城に籠る所の者は、御一家の外たりとも、皆譜第の輩にて、大友が催し勢三万より、味方の三千は手強し、然らば城中に異心の者すら出来ずば、容易に落つべからず、何卒十余日を待ちなば、毛利の授兵来るべし、若し来らずば、力及ばず城を枕に潔く討死するより外あるべからずと詞を放て言ければ、隆信之に同心す。直茂猶も吉凶の二つを神慮に任すべしとて、泰長院震竜を招き占はしむ。直茂先づ密に震竜を招き城を去らざるを吉と申されよ、大事の占なれば、誤り給ふなと言含めければ、震竜共、意を得て、直茂の言の如く占ひしかば、隆信を始め衆議一決し、籠城して運を開きたり。
書き下し
駿河守清房の子、加賀守に任す。龍造寺隆信に仕へ、神崎郡四萬四千五百石を領す。隆信死後、其子駿河守高房の幼なるを以て國事を代理す、高房卒するに及び直茂の子勝茂終に龍造寺氏を繼ぎ、三十五萬七千餘石を領し佐嘉城に住す。仍ほ鍋島と稱す。直茂初め信生、後今の名に改む。元和四年六月三日、卒年八十一。 ○永祿十二年、大友義鎭步騎六萬を率る、龍造寺隆信を佐嘉城に圍み攻む、城中の人々詮議して、大友に御降參あるか、又は筑後へ御立退ありて、御歸國の節を待たるべきかとなり。直茂先づ御降參のこと然るべからず、又筑後へ御立退のこと、先年に事替はり、彼國悉く大友方に成りたり、去れば御立退のことも叶ふまじ、詮ずる所當城に籠る所の者は、御一家の外たりとも、皆譜第の輩にて、大友が催し勢三萬より、味方の三千は手強し、然らば城中に異心の者すら出來ずば、容易に落つべからず、何卒十餘日を待ちなば、毛利の授兵來るべし、若し來らずば、力及ばず城を枕に潔く討死するより外あるべからずと詞を放て言ければ、隆信之に同心す。直茂猶も吉凶の二つを神慮に任すべしとて、泰長院震龍を招き占はしむ。直茂先づ密に震龍を招き城を去らざるを吉と申されよ、大事の占なれば、誤り給ふなと言含めければ、震龍共、意を得て、直茂の言の如く占ひしかば、隆信を始め衆議一決し、籠城して運を開きたり。
現代語訳
駿河守清房の子で、加賀守に任じられました。龍造寺隆信に仕え、神崎郡で四万四千五百石を領しました。隆信の死後、その子の駿河守高房が幼かったので、国事を代理しました。高房が亡くなるに及び、直茂の子の勝茂がついに龍造寺氏を継ぎ、三十五万七千余石を領して佐嘉城に住みました。なお鍋島と称しました。直茂は初め信生といい、のちに今の名に改めました。元和四年六月三日に亡くなり、享年八十一でした。 ○永禄十二年、大友義鎮が歩兵と騎兵六万を率いて、龍造寺隆信を佐嘉城に囲んで攻めました。城中の人々が評議し、大友に降参するか、また筑後へ立ち退いて帰国の機会を待つかということになりました。直茂は、まず降参はよくない、また筑後へ立ち退くのも、先年と事情が変わり、その国はことごとく大友方になったので叶うまい。結局、この城に籠もる者は、ご一家以外でも、みな譜代の者で、大友が催した三万の勢に対して、味方の三千は手強い。そうであれば、城中に二心の者さえ出なければ、容易には落ちない。何とか十日余りを待てば、毛利の援軍が来るだろう。もし来なければ、力及ばず、城を枕に潔く討ち死にするほかはあるまいと、言葉を放って言ったので、隆信もこれに同意しました。直茂はなお、吉凶の二つを神意に任せようと、泰長院の震龍を招いて占わせました。直茂はまず密かに震龍を招き、「城を去らないのを吉と申されよ。大事の占いなので、誤りなさるな」と言い含めたので、震龍も心得て、直茂の言葉のとおりに占ったところ、隆信をはじめ衆議が一決し、籠城して運を開きました。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
名将言行録・『名将言行録』鍋島直茂 寝ずの番と有馬出陣の諫め○隆信田尻を攻めし時、柳川城にて酒宴す、侍女ども御庭の隅に人影見え候と申す、隆信則ち出て見て何者ぞと咎めければ、左衞門太夫にて候と申し、拔身の鎗を持居たり。何故に夫に居るやと尋ねければ、世上敵多く、御油斷ばさるゝ時節にて之なく候、今夜御酒宴と承はりたるに付き、心元なく御番仕候と言ければ、隆信殊の外喜び、是にて酒を參り候へと言はるゝに付、其席へ出でし所寒夜にて、手こゞえ持ちたる鎗手より離れざりしとぞ。 ○天正十年、隆信、織田信長父子弑に遇ふを聞き、天下必ず秀吉に歸すべきことを知りて、屢々直茂をして、音信を通ぜしむ、前年石田備中守をして、音信を通ず、今年、又土肥出雲守家實をして南蠻帽子を贈る、秀吉大に喜び、返翰を贈らろ、是皆直茂の策なり。 ○十二年、有馬の役、直茂、隆信を諫めて曰く、今度有馬へ御發向然るべからず、御鎗先強く、五箇國の太守に成らせられ、是體の小事に御出馬は輕々敷候、殊に島津當方の大軍を知りながら、催の人數を遣はし、有馬勢を合し一萬に過ぐべからず、左れば是れ皆必死の勢にて候、味方は大軍なれども、所々の集り勢なれば、軍配揃兼ね申べく、然る時は人多く損し申べし、今大友、島津の大敵を御抱へ、催の事に人數を損ぜらるゝこと、御武略の足らざるに似たり、御免候はゞ、某彼地へ罷向ひ平均仕るべしと、再三申しけれども、承引なく、五萬の人數にて有馬に發向し、遂に敗死せり。
-
名将言行録・『名将言行録』鍋島直茂 主君の首を拾わぬ判断○島津家より、河上助七郎をして隆信の首を差送りたり。助七郎、筑後の榎津へ船を着けて、其趣を申越す。直茂國の强弱を伺ふことと察し、大隈安藝守を以て答て曰く、隆信の首を差送られ御志の至りには候へ共、不運の首此方へ申請ても益なきことなり、何れになりとも捨置かれよとなり。助七郎力に及ばず、首を持歸り、高瀬の願行寺に葬りて歸れり。此役老功の者、悉く討死し、龍造寺の家危急なりしかども、直茂の武略を以て、國中には敵一人も足を踏まず、政家全く肥前を踏み靜めたりしは、直茂の力なり。是より諸人彌々直茂を家の柱の如く思ひけり。 ○十五年、秀吉九州を平げ、歸京の後、侍臣に向ひ、我今度西國にて珍敷物を見たりと言はれける。何を御覽じたるやと尋ねければ、鍋島飛驒守と曰ふ者なりと言はれけり。 ○加藤清正曰く、我等若年より、所々に於て數度の鎗を致したれども、朝鮮にての軍の樣に、仕能きことは之なし、其故は鍋島加州丈夫の弓執にて、終に先を望まれしこと之なく、公儀よりの仰付られを、堅く相守られし故、心易く存じ、合戰心能くし、朝鮮にて名譽を播したり。是偏に加賀守の武功故なり、彼方二の目より先を望まるれば、殊の外軍致し惡く存じたる由、時々物語ありしとぞ。
-
名将言行録・『名将言行録』鍋島直茂 下女を拝んだ老将○直茂老年に及び、夜々小便に通ふに、女共の臥居たるを見て、拜みて通りたり、何れも不審に思ひ尋ねければ、直茂、偖は女共見咎めたるか、我等若年の頃は、中々不如意に候ひつるに、只今召使候下女等、結構の夜物抔を著たるを見れば、偏に天道の御恩忝くと、身に餘り存じたる故、覺えず拜みて通りたりと言へり。 ○直茂、家臣上國の事を知らず、萬事不都合なるを以て、稻垣權左衞門と曰ふ者を抱て二百石與へたり、一日直茂、高傳寺に詣る、門に張札あり、『御譜第の者だに取らぬ地行をば、いながきが來て二百石取る。』と、直茂歸宅の上、譜第の者にさへ無沙汰致し、他方の者に知行呉れること、何れも不合點の段尤も至極なり、我等誤り痛入たり、公儀方不調法にても、國家の害には成らずと言て、權左衞門に右の段を、諭し暇を賜はりしとぞ。 ○佐嘉の城普請成就せし時、直茂、勝茂と之を巡視す、勝茂敵寄せ來る時の物合を、一々講釋す。直茂、後、近臣に向ひ、勝茂には城取の敵合に精を出し講釋をするが、腹切る所を忘れては居らぬかと言はれしとぞ。直茂には繩張備立抔は大概にし、只家臣一和して主人を恨みざる樣になし、自然の時は、上下一致に突掛り切崩すことを、專一に心得られしとぞ。
-
名将言行録・『名将言行録』鍋島直茂 評・主家を継いだ重臣○天正十五年の九州征伐の時、秀吉に接見した西國の大名の中では、立花宗成と共に秀吉に認められた一人である。 龍造寺隆信の被官であつたが、隆信が島津家久に倒されたゝめ、龍造寺の後繼者となつた迄は、信長と秀吉との關係に似てゐる。秀吉が、信長の子孫に必ずしもよくなかつたやうに、直茂も隆信の子孫によくなかつたやうである。(鍋島の猫騷動)の發端は、鍋島の殿樣が、龍造寺の血脈の者を手雙したことが發端である。 主家を傾けて、取つて代る者さへ多かつた世の中である。主家が倒れて、自分の手に歸した權力を、遺孤を守り立てゝ返してやるやうな殊勝者を求めるのは無理である。 關ヶ原の時、子の勝茂が大阪方で、働いたにも拘はらず、鍋島がその封土を失はなかつたのは、直茂がよほど老功な工作をやつたからに違ひない。しかし、當時の大名は、眞田が東西に別れたやうに、大抵は双方に氣脈を通じながら、形勢を觀望してゐたわけであるが、鍋島などは、その跡始末をうまくやつたゝめに、その封土を保つことが出來たのであらう。「葉隱」の本場だけであつて、士風も優秀であつたのだらうが、しかし(葉隱)が出たのは、それだけではなく、その著者の山本常朝とか田代陳基が偉かつたゝめであらう。 夢を告げて來た山伏に對する態度では、直茂の方が、長政より大人である。あゝした寛容さは、現代でも上に立つ者には、あらまほしいことである。
-
名将言行録・『名将言行録』小早川隆景 鍋島直茂の評○鍋島直茂の臣、綾部右京、直茂に向ひ、當時日本にて名將と申すは小早川殿と、主公との由風聞仕ると申す。直茂如何なることを聞て、左樣に隆景と、我と似たる樣に申すぞ、田舎者にて上方の事を知らざる者の申すことならん、較べて言ふべき人にあらず。其故は先年太閤御前にて諸大名列座の時、御意には其方共に數年苦勞致させ候に、知行を遣はし度思へども、如何にしても日本小國にて地が足らず、唐天竺を伐取り、其方抔に存分に知行を遣はすべくと思ふ、如何あるべきやと仰出されたり。其時は御亂心かと思ふ程にてありし。一人も、御挨拶申す者なし、其時隆景一人進み出で、成程御尤の儀然るべく存奉ると申上らる、其時我等心に隆景は世に分別者と聞きしが、偖は輕薄者と思ひたり、未だ見もせぬ朝鮮のことを思召立れ候へと申上られしこと、物笑しく聞居りしが、去らば祐筆を呼出し、一ッ書にて掟等を定めんとて、朝鮮陣中の事段々御詮議なり、太閤の仰出さるゝ事を、夫は御尤是は問はり申すべく、彼は何々と遂一申上けられたり。如何なる事かと思ひ居たりしが、偖其後朝鮮に渡海して見るに、七ケ年在陣中、隆景申上けしことに少しも相違なく、皆々割符を合はせたるが如くにてありき。實に天下の名人にて較ぶべき人にあらずと言はれたり。
-
名将言行録・『名将言行録』鍋島直茂 関ヶ原と家康との約束○秀吉薨後、大阪の奉行等、家康を亡さんとて、大阪伏見の間騷動せり。直茂、伏見に至て、德川家の館を守護す。家康喜ぶこと淺からず、直茂曰く此度のことは僭置、直茂が死後に至るとも、子孫に遺訓し、直茂が家を以て、殿の御家と同く亡ぶべきにて候、恐ある申事にて候へ共、殿には、此由を御子孫に仰傳られ給はらんには、直茂が幸何事か之に過ぎ候べきと望みければ、家康大に感じ、中納言にも、其旨を申傳ふべき所なりとぞ言はれける、明れば、慶長五年、直茂の子、信濃守勝茂大阪の先陣して、伏見、阿濃津、松坂等の城を攻む。直茂國に在り此由を聞き、大に驚き、下村左馬介を以て、勝茂が許に使とし、熟々事の情を案ずるに、此度大阪の軍起ること、幼弱の君、如何ぞ此御結構やあるべき、偏に彼奉行等が私の怨を報ぜん爲め、内府を失はんとする所なり、我兼ねて内府と誓ひ申旨あり、相構て僻が事して、東國の御勢に向ひ弓を彎き、矢を放つべからず、兼ねては又、故太閤の仰置かれし如く、秀頼公に背き奉らず、内府の命を重んずべき所なりと制しければ、勝茂大に驚きて、先非を悔みて、其罪を謝す。家康聞て、家康彼が父直茂と約せし事あり、如何で其約に違はんやとて、立どころに其罪を赦されたり。